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    路地に迷う自転車のごとく

迷宮旅行社・目次

これ以後


2002.4.28 -- サバルタンは借りることができるか --

●いろいろあって『サバルタンは語ることができるか』という本を読んでみようと思い、大きな書店のカウンターで「あのう、スピヴァクという人の本なんですが」と尋ねたところ、「それでしたら映画の本のフロアーにございます」。「え?」「スピルバーグですよね!」。●しかし、けっこう薄い本なのに2千3百円もする(>みすず書房)ので、買わずじまい。結局近所の図書館に電話でリクエストすることにした。が、そこでもスピヴァクを伝えるのに一苦労。「うにてんてんのう゛のあとちいさいあをかくんです・・・」。たしかに耳慣れない名前だ。インド系とか。--インドといえばきょうもNHKが大げさ特集をしている。牛と物乞いばかりのインドは嫌だが、石窟寺院ばかりのインドもちょっと。●さてそんなわけで、その書店では哲学思想コーナーにしばらくいたのだが、近ごろ話題の『必読書150』(柄谷行人ほか・太田出版)が目に入った。「これを読まなければサルである」と腰巻きで脅しつつ、しかしこの本自体はなんだか妙に薄っぺらい。また「人文社会科学」と括られた50冊に意外性はなく、プラトン、アリストテレスから始まってデカルト、パスカルなどなど絶対知ってるが読んだことも絶対ないという古典ばかり(参考リンク)だ。ちなみにスピヴァクはリストに入っていない。同じ系統だと思うがサイード『オリエンタリズム』は入っていた。●もちろんカント『純粋理性批判』マルクス『資本論』は堂々のリスト入り。両方とも柄谷行人自らが紹介文を書いている。当然『トランスクリティーク』が思い浮かぶわけだが、ふと気づいたこと。『トラクリ』の、カントとマルクスを横断するという趣向に興奮すべきなのだろうと思い込み、それをユーラシア横断旅行に喩えたりした私であるが、この50冊リストでいけば、カントのあとはヘーゲル、キルケゴールときて、次がもうマルクスなのだった。なんだ、EU内の移動みたいなもんじゃないか。思想史としては常識か。●つまり、カントを通してマルクスを読む、マルクスを通してカントを読むなんて、ありきたりに見える。民主党の党首が自民党の出身でハト山なのにタカ派だったりする昨今、いちいち驚くほどのことではないのだ。●それよりも、吉田戦車『伝染るんです』には、犬のジョンが家で昼飯を食べ始める時間と、お父さんが会社で昼飯を食べ始める時間とを、ふと思い立って調べてみたら、なぜかぴったり同じだった!という驚愕の一作がある。この途轍もなく意外な取り合わせ。それに比べたら、カントとマルクスなんて近い、近い。共振して当たり前。●閑話休題。『必読書150』に柄谷自身の著作はというと、150冊以外の参考書としてあげられた70冊のなかに『日本近代文学の起源』だけが入っていた。なお、『必読書150』に『必読書150』自体はリストアップされていない。●ここで問題です。「本をリストアップした本のうち、自らのリストにその本自体を入れていないものだけを、すべてリストアップした」という書物Aがあったとする。そのとき、書物Aのリストには『必読書150』は入っていることになる。では、書物Aのリストに書物A自体は入っているだろうか、入っていないだろうか」


2002.4.24 -- 日本人が迷えば、戦争が儲かる --

●パレスティナ武装勢力がイスラエル軍に包囲されて立てこもるベツレヘムのキリスト生誕教会を、日本人のカップル旅行者が観光に訪れたというニュースが、BBCやCNNで報じられたようだ。CNNのサイトには、のんきにガイドブックを眺める2人の写真が掲載されている。記事は、なにより彼らが当地の戦争を知らなかったことにあきれ、加えて宗教への無知も暗に批判している。サンスポのサイトZAKZAKは、この話を《世界に恥さらした「日本のバカップル」》と、あからさまになじる。●しかし。「平和ボケ」がそんなに恥ずかしいのだろうか。現に殺し合いをしている連中、殺し合いを放置している連中以上に恥じ入らねばならないのだろうか。

●そういえば、石川忠司はこう語っていた。《ぼくは今クソ忙しくてしかしカネはなくこれからどうなるのかもわからない。でも現在この時を生きているのはとても楽しい。生きているのはすごく好きだ。恐らくそれと関連して現在の作家も基本的には好きです》《正しさに比べれば美意識なんて圧倒的に下らないんだけど、でもそんな下らないものに人それぞれが徹底的にこだわっているうち(ていうか人間にはそれくらいしかできない)に、正しさは誰もが思ってもみなかった時とところに、また思ってもみなかったかたちで偶然到来してくるものだと確信しています》(図書新聞3月29日号)。そして《現代の書き手はまるごと肯定してやろう》とまで言い切る。●もちろんこれは文学の話だが、べつに旅行の話に置き換えたっていいだろう。「正しさ」の主張が暴力に転化したようにみえる中東の戦闘。一方でそうした「正しさ」などまったく無縁にみえる趣味・美意識としての中東観光。ならば私は、現在の旅行者はまるごと肯定してやろう。

●しかし、鎌田哲哉ならこう怒るだろうか。こんな日本人のバカップルこそが、パレスティナの殺戮を招きその解決をひたすら遠ざける元凶なのだと。●図書新聞の対談で、「鎌田さんが正しさにストレートにこだわるのは実は趣味判断ができない、本当に大切なものを持っていないからではないですか」と石川に問われた鎌田は、次のように反論している。《僕は、誰もが正しさを選ばされている、という前提で言っている。正しさなんて口にしない人、文学は政治的に無力だと思っている人も、ある種の押し付けがましい正しさ、政治性に加担しているわけでしょう。それを趣味判断と言いたければ言ってもいい。でもその場合の趣味判断だって、恣意的な選択や拒絶が可能なものではなくて、何かに強制されて、つねに何かを排除している》。●てことは、のんきな観光訪問も、「強制された自由」「戦争をもたらす平和」の使者にすぎないということになるのか。

●では最後に。サンスポもCNNも、この旅行者が「Japanese」であることを無前提で強調しているが、そこにもまた、なんらかの強制された趣味判断もしくは政治性が働いているということはないのか。そういうことにまったく無自覚でいいのか。


2002.4.20 -- ど根性スター誕生 --

●『重力』創刊に合わせた対談がそれぞれ話題だった 「週刊読書人」(3月29日号)と「図書新聞」(3月23日号)。やっと読んでみた。●見た目は普通の新聞を開いたのと大差ない両紙。しかし、トップには「文壇政治屋を撃つ」と5段抜き見出しが付き、辻元清美や鈴木宗男の代わりに鎌田哲哉石川忠司のポーズ写真がでかでかと出ていたりする(週刊読書人)。たとえば辻元清美の参考人招致は今とても気になるが、《「鎌田哲哉的なものを相対化するのは何か」という『重力』における最大問題》(図書新聞・池田雄一との対談で大杉重男)のほうがもっと気になるという者にとっては、こうした記事の扱いは理に適っている。●政治ニュースのドラマ化・バトル化が著しい昨今。ところが、『重力』という改革断行派が抵抗勢力たる既成の文芸誌に挑みかかる様相(石川忠司は《『重力』は文学における小泉改革なんじゃないですか?》と述べている)もまた、読者とすれば、いわばワイドショー化された批評ニュースとして楽しんでいるのが実際のところではないか。政治も批評も、なんだか猥雑でパフォーマティブなのだ。---おまけに、柄谷行人破門宣言(?)の報まで飛び込んできて、もし文芸リポーターという仕事があったなら、きっと大忙しの毎日だろう----。とはいえ、そのような実質を欠いた遊戯としての文学や批評に我慢がならず怒りまくっている人が、なにを隠そう、『重力』の首謀者(とみなされる)鎌田哲哉なのであるから、皮肉な現象ではある。●私はずっと、批評家と呼ばれる人たちがいったい何をそんなにむつかしくやかましく叫んでいるのか、興味は持ちつつも、どうせ生半可な知識や関心では捉えきれない領域なのだろうと諦めかけていた。しかし、今回の両対談を読むことで、少なくともこの4人(とりわけ鎌田哲哉)が何に拘っているのかは、少しわかった気がする(『重力』巻頭の議論以上にわかった)。そしてそれは、そう複雑な話ではなく、「ものを言うこと」そのものの倫理にかかわるベーシックな拘わりなのだ。だから、たとえばこうしてウェブ日誌を載せる私にとってもけっして無縁の話ではなく、ごく普通の思考習慣さえあれば、一緒に議論を深められるテーマですらあると感じた。●それにしても、鎌田哲哉は、石川忠司というツッコミ役を得て、過激さに拍車がかかったうえに、今回はちょっと泣きも入ったりして、とにかく面白かった。しかしながら、私としては、鎌田哲哉が「親和」よりも「達成」に意義を見いだすド根性人間である(文芸部キャプテンのくせに)ことがはっきりしたように思え、会社の同僚ならいちばん苦手なタイプだと思った。さらに。《鎌田 日本人は、湾岸戦争の時すでに金を払った、それなのに自分達は九条を守って、戦争に加担していないような錯覚の中で生きている》《石川 うん。それはまったくそうです。でもぼくは威勢のいいセリフによって、大勢の人が現に生きているのはとてもいいことだって事実が吹き飛ばされるのが我慢できないんだよ》。ここを読んだ段階で、石川忠司のスタンスに相当共感した。ところが、さらにこれに反論する鎌田哲哉の論を聞いていくうちに、結局のところ、鎌田のスタンスにも強く共感してしまった。だから、鎌田哲哉は、つい戯画化してしまいたい人物ではあるのだが、その大まじめな拘りにはこちらも大まじめに期待するというのが、きょうの結論。


2002.4.17 -- 宿題できそこない --

●読み通して感想を書くのが果たせないままになっていた本がまだある。四方田犬彦『アジアのなかの日本映画』(岩波書店)。日活アクションに眼を向けることで、日本の映画製作が戦前も戦後も決して鎖国状態などではなかったことを示す。●「在日韓国人の表象」という章における大島渚の評価。《戦後民主主義に立脚した社会派の監督たちが、ともすれば被差別者への憐憫と啓蒙の平板さに陥ってしまうとき、唯一大島だけがそうした過誤から免れることができた》。一方で『スワロウテイル』批判。いかにもアジア多国籍のイメージを醸しているが、なぜか在日にはまったく言及がない、との趣旨。●・・・ほかいろいろ。屋台系露店系の映画評論? ロードする映画評論? 実体験を交え、実体験を語るなかに、映画を語るという手法。四方田犬彦、とにかくやっぱりおもしろい。読むべし。


2002.4.15 -- 人類はまだ月に達していない --

●かどうかはともかく、人類はまだパレスチナ和平にも達していない。航空機事故も克服していない。職場のウィンドウズと私のiBookとのネットワークも結局まだうまくいかない。

●(業務連絡)このところ私のサイトはアクセス障害が多かったと思いますが、いまサーバ側で対処しています。そのせいで16日から数日間、アクセス先が「http://www2.mayq.net」に自動転送される場合があるそうです。しかしそれは一時的なもので、迷宮旅行社のURLそのものは変りありません。どうぞよろしくお願いします。


2002.4.13 -- 文は人なり、辻ひとなり --

斎藤美奈子文章読本さん江』。もっと早く日誌に書きたかったのに、半分ほど読んで忙しくなってしまった。残したメモから少し引っ張ってくる。●文学に感動する、恐れ畏まる、恥じ入るという態度があるように、文学を笑い飛ばす、足もとをすくう、からかうという態度もある。どちらが文学的に正しいかはわからないし、どちらが文学を理解したことであるのかも、どちらが文学を愛することであるのかもわからない。ともあれ、斎藤美奈子は、文学を笑う。今回は文章読本を笑う。●第3部。明治の言文一致と国語教育の話。ふだん斎藤美奈子は、本読みに無理やりひねりを食らわせ、いささか錬金術師の趣で、笑いを絞り出す。しかし今回挙げられた明治の読本は、まったくもって天然の笑いを誘う。変にいじらなくてもぜんぜん大丈夫なのだった。●一般に研究とは何かを解明することであり、その解明はすぐさま何らかの主張や議論に結びつく。われわれはそういうお堅いイメージを抱いている。したがって、研究し解明していった成果が、この書のように「笑い」という形をとった場合、「そんなの研究論文としては異端、二流だ」と相手にされないのかもしれない。しかし、そうしたあしらいこそ偏見なのではないか。笑いは、研究することの動機や目的として、むしろかなり純粋な姿なのではないか。


2002.4.12 -- 通勤電車で読むミシェル・フーコー --

●ここ1,2週間、本といえば仕事の行き帰りに電車の中で読むだけだった。そうやって『ミシェル・フーコー』(内田隆三・講談社現代文庫)一冊をちびちび読んでいた。わかりやすい(・・・いや、そうでもないか。でも鋭い見取り図だと思う)。●内田違いだが、『ためらいの倫理学』の内田樹が『寝ながら学べる構造主義』というのを出す予定で、そこに「こたつで読むミシェル・フーコー」という章があるらしく、大いに期待している。内田樹は『レヴィナスと愛の現象学』という本も出したばかり。私は読んでいないが、こんな文章らしいので、フーコー解読への期待もいやがうえにも高まる。●なお、『寝ながら学べる構造主義』は、最初『いきなり始める構造主義』というタイトルが付く予定だったという。そのほうが秀逸だと思うのに。

●少し前には『ドゥルーズの哲学』(小泉義之)を読んだりもした。そのころは暇だったので、2,3日で読んでしまったのではなかろうか。同じく講談社現代新書だが、これもわかりやすい本だった。丹生谷貴志が文芸評論集『家事と城砦』で阿部和重と中原昌也を取り上げたときに「雲の肯定」という形でドゥルーズ哲学の概念を使っていたのが興味深かったが、それについてもうまく整理できた感じだ。●小泉義之は、永井均との対談『なぜ人を殺してはいけないのか』(河出書房新社)で、永井均に押されっぱなしで部が悪かったが、『無産大衆神髄』(河出書房新社)で矢部史郎と対談していたのを読んだら、急に印象が好転した。『ドゥルーズの哲学』を手に取ったのは、そういうこともある。


2002.4.7 -- さては! --

●みずほ、私のメインバンク。最近どうも残高が少なすぎると思っていたら、そうだったのか! ・・・あ、いや、ほかの理由かな。


2002.4.6 -- でも日誌の埋まるのは --

●上から下へとばかりとは限らないかも。


2002.4.2 -- 今月から --

●日誌は上から下へ流れます。いやホント。--この方式はやめました--



2002.4.1 -- ああ、忙しい、忙しい --

●なんてことを私が言うと、エイプリルフールかと思われそうだが、ホントだから仕方ない。


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