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    路地に迷う自転車のごとく

迷宮旅行社・目次

これ以後


2003.4.30 -- 飛び石読書 --

●『新ネットワーク思考』(アルバート=ラズロ・バラバシ)。あっと気がつくと2/3。メモももどかしく付箋を使ってみたが、今数えたら54枚。冒頭が特にそうだが、叙述が際立って上手で酔わされながら引っ張られるかのように進む。中身への感心、関心も最高値。これを研究者自身が書いたとは! →→→●読み終えた(5.1)。いやこれはもう叙述が上手いどころの騒ぎではない。世界像の改編だ。昔「ツリーからリゾームへ」というのがあったが、それでいうなら「ランダムからベキ法則へ」か。しかもそれが思いつきにとどまらず、交友関係でも商売でもウェブサイトでも生物の細胞内でも、適用して数学的に計算してみたらことごとく立証されてしまったというのだから。「世の中っていろいろ複雑だね」。たしかに。だがそれは「なんだか複雑」なのではなくて「きれいに複雑」なのだ。経済の話としてもこれは『資本論』の出現にも匹敵するのでは?。少し前まではなにがあっても「まあ、それが資本主義ですから」で済ませることができたし、最近なら「まあ、それがグローバルですから」で済ませることできるが、これからは、なんでもかんでも「まあ、それがネットワークの自己組織化ですから」で済ませてよいことになるかも。●あいかわらず形容が大袈裟で、話半分に受けとめられるかもしれないが、今度こそ「狼が来た」。●ベキ法則は同書を読めばすぐわかるが、→参考までに。→これも

●『趣都の誕生〜萌える都市アキハバラ』(森川嘉一郎)も軽々するすると半分。カルチュラル・スタディーズ、とは呼んでもらえないかもしれないが、「文化研究」の字義にはぴたりだと思うのだが、それはともかくだが、「カルスタ」(同じ4文字で十分だ)の範疇に入りそうな本と比べて、この本のあまりの面白さはなんだろう。いやそれは簡単なことで、読んでいて「わくわくうきうき」嬉しく楽しいGW気分がこの本は極限まで高く、一方は極限まで低い(との印象)からだ。べつに研究の対象が秋葉原だったからではない。カルスタ業者の皆さま、いま一歩努力を。観光業者なら倒産する。カルスル。ワクウキ。

●『これがビートルズだ』(中山康樹)。ビートルズの、曲を生み出す才、歌いのける才、アレンジの才。それらをアルバム制作順に1曲1ページで全曲、コンパクトに語りぬく。ほんのちょっとしたフレーズ(メロディーであれ、歌声であれ、楽器や響きであれ)が絶大な効果を生んでいることが次々に教えられ、ビートルズの良さを一曲単位で再認識する。著者がそれを述べるフレーズがまた、とても思いきりがよく、いけしゃあしゃあとしているが、ぜんぜん耳障りではなくぐいっと際だつ。そうまるでビートルズの音楽のようだ。定説を踏まえ、諸説も見逃さず、マニアックな拘りも入れ、しかし自身の主張は根拠をもって示す。一曲ごとの録音日、実際の作者、ボーカル担当者と、データを新書にここまで盛り込んだのも偉い。●ポールの天才を100%肯定し、リンゴのドラムを全面プッシュするところに、著者独特の位置がある。ジョンは20%を完全否定、ジョージは10%だけ大絶賛。だがそれもまたビートルズに欠かせない要素だ。 ●《ポール以外の人間にかけるはずがない曲でも「自分にも書けるかも」と思わせてしまうところにポールの天才が潜んでいる。(……)冒頭、伴奏なしでいきなり「コ〜ジュア〜(Close your eyes)」ときたとき、またしても「自分に書けるかも」と思ってしまう人間は無数にいる。問題は聴いてからそう思うが、聴くまえに「コ〜ジュア〜」のメロディーが浮かばないことだ。そこがポールとポールになれない人間との絶望的な差だ。》「オール・マイ・ラヴィング」。●ああ同感。思えば14歳から17歳、同時代ではないけれど、ビートルズを聴いた記憶だけはたしかだ。(4.25参照)

●面白い本であればあるほど、きちんと説明したいと思うあまり、結局それをしない、ということがままある。「読んでます」。言及だけ。あるいは形容だけ。●そもそも私の説明はいつも、とにかく喩えてばかりじゃないか、あるいは、ひたすら引き伸ばされた形容だけで出来ているぞ、とも言われている(私に)。主語さん述語さんを大切にしよう。●音楽の言葉による説明は結局全部形容詞だという話を前にきいたことがあるが。これの是非はさておき、音楽というものはすべて世界の形容なのではないだろうか。主語や動詞といった分節化には収まらないような世界の。●ポールの曲のように文章が書けたらいいのに。

●《ポールはまたしても最高傑作をやすやすと作った。なんとすばらしいメロディーか。それがポールの傑作の特長である、メロディーがこぼれ落ちるような感覚は冒頭の「フノ〜(Who knows)」から全開まっただなかだ。あとの展開は、まるで夢をみているようだ。メロディーが次のメロディーを呼び、そのメロディーがまた新しいメロディーを運んでくる。そして気がついたときはすでに曲は終わっている。》「アイ・ウィル」(ホワイトアルバム)。

●近ごろ都会のカラスは、木の枝がないせいで洗濯屋のハンガーを拾い集めて巣を作るという。我々の青春というものがこれに似ていて、どんなに材料が乏しくても貧しくても、それでもなんだか甘美な物語をでっち上げてしまう。誰でも、どんな時代でも。私の青年期なんてほとんどクズみたいなものばかりを寄せ集めて出来ている。けれどそのなかに辛うじてビートルズだけは入っていて、よかった。そう思う。


2003.4.28 -- GW --

●「世間は大型連休だかなんだか知らんが! …え、今年はそうでもないの?」 (だいたいあなたこそ超大型連休でしょうに)


2003.4.25 -- 異議あり! 圧倒的な非対称にも --

●岡本裕一朗『異議あり! 生命・環境倫理学』。クローン人間、臓器移植といった生命をめぐる倫理学があり、エコロジー、地球温暖化といった環境をめぐる倫理学がある。しかしそれら学者の議論はみなボンクラで生ぬるく実際の役には立たない。著者はまずそう主張する。そのうえで、痒いところに手が届く実に悩ましい説や問いを投げかけてくる。だからこの本は刺激に満ち、考えることの実践を読者に強いる。●たとえば「クローン人間禁止」というのは常識のようだが、その論拠がどうもポイントを外しているという直観も我々にはある。この本は、その常識ではなく直観の方がむしろ的を射ていることを論証するわけだ。「危険な技術だからという理由でクローン人間を禁止するのはマヤカシであり、それなら技術が確立したらどうするのだという根本の問いには答えていない」(趣旨)といったぐあい。さらには「危険だからやめろというのは、障害者が生まれそうだから妊娠するなという差別に等しい」(同)と、この常識の裏に隠れていたゆがみまで、虚を突くように指摘する。●ところが一方で、この書には不備が多いとする意見もネット上には複数ある。たとえばこちらのページ(それでも、日本の応用倫理学が常識論でしかないという前提には同意している)。●で、クローン人間の例に戻る。私たちが容易にたどりつく常識の域に、多くの倫理学者がとどまっているとしたら、たしかに困ったことだ。知的インフラの無駄遣いでもある。同書はそこから一歩外に出てくれた。ただし。それは「クローン人間を禁止する理由なんて無いんじゃないの」という直観を補強してくれたにすぎないとも言える。ここで改めて考え直すことができるだろう、「でもやっぱりクローン人間がOKとは思えない」という常識が、そもそも上に挙げた破綻した論理や差別観だけでなく、もう少し深いがなかなか論理にならない別の直観にも支えられているのではないか、と。常識に乗るのはたやすい。とはいえ、その程度の常識を疑うのも、あんがい楽な道ではないのか。倫理を考える専門家なら、その程度の常識であるにもかかわらずなかなかそこから離れられない私たちの倫理感覚というものにこそ、本当の根拠を探し出すような仕事をもすべきではないだろうか。

●ところで、この本を知ったのは、リリカという人の日記だった。教養にあふれかつ洗練された書物を実にたくさん読み込んでいることに注目しないではいられなかったが、こともあろうにそれが高校生(女性)であると知ったときは、心底びっくり仰天、言葉を失ってしまった。生まれがなんと1987年! 87年といったら、あなた、岡女の(バカ女)辻希美さんと同い年ではありませんか。●その日記によれば、彼女の父や兄の読書量はそれをさらに上回る。彼女がそういうものに囲まれて成長したことが推測できる。父の本棚には大学生時代に読んだという「カイエ」や「エピステーメー」もまだあるという。●ちなみに、高橋源一郎は、自分にとって14歳から17歳までに読んだ本だけが現在に至るまでずっと決定的だった、旨の発言をしている(「群像」5月号・鶴見俊輔との対談)。●さてでは、私が子供だったころ家の本棚はどうだったかというと、そんなものは無かった。本が無かったというより、本棚がそもそも無かったのではないか。食卓の引きだしに、胃が悪い時はああしろこうしろとかいうカッパブックス系の一冊があったことくらいを記憶しているだけだ。いろいろな意味で気が遠くなる。「圧倒的な非対称」とは、むしろこのことではないのか。


2003.4.24 -- 日本現代ブロッグの起源 --

●「近ごろブロッグといえばモテ(MT)らしいね」――いや、それは君の早とちりだ。MTとは「Movable Type」というプログラムのこと。ウェブログは今、どうやらこの道具とあいまって、サイトおよび話題をどんどん増殖させている。●そのMTが素晴らしい理由はこちらに示されている。その理解を少々意地悪く言い換えるなら、成長しスキルアップしていく「私」の蓄積が抜群にスムーズになり、自由に着飾ることも可能であり、しかもそうした社交性を備えた「私」の魅力が友人や企業の眼にもとまりやすくなる、というところだろう。このMTの評価で欠かせない観点として、今が旬とおぼしきCMS(ContentsがMoteるSystem―ではない)というタームがちゃんと出ている。●このトピックを受け、こちらの人は、MTには《「自分だけのWEBページ」として感じる感覚》があり、そこが「はてな」や「関心空間」との差だと述べる。MTのおかげで《更新頻度を高めることができれば、それだけ見に来てくれる人も増えます。見に来てくれる人が増えれば、そこにコメントを残してくれる人が増え、それが結果として新たな人と人のつながりを生み出すことに繋がります》。つまり、「私の内面と関係」を自在に更新し公表できればいっそう社交性(モテ)の確保につながる、といった期待だろう。●下の日誌では「ブロッグとは「私」のマルチな顕在化ではないか」とかなんとか書いた。つまり、ウェブによって顕在化してきた「私」が、ブロッグというツールによって、いっそう複合的に整理統合され再構成されている、という感触だ。これにやや抵抗感はあるものの、そもそも「私」がウェブ上で文章化された初期の段階から、そうした「私」のグローバル化は避けられなかったのではといった趣旨だった。●もちろん上記で参照した各ページでは、MTの肯定的な側面が強調されている。しかしインターネットに起こっているこの変容がとても面白いという基本的な位置づけにおいては、私もとくにずれたところにはいないと思う。●だから、こちらのページのコメントにある《自己表現が無限(?)に出来る満足感》という気持ちも、たぶん分かる。●問題は、「私」をここまで限りなく蓄積し構成し社会と連結した形で顕在化しなくては、もはや気が済まない状況に、我々はいつからなってしまったのか、ということだ。たとえばきょう読んだ本のこと、きのう入った店のこと。ことごとく「私」の構成要素としてブロッグ化しなければならない。さもないと「私」の流出や損失を被ってしまう。顕在化しない「私」は存在しないのだ。便利になった。でもはてしなく忙しくはないか?

●さてさて。こうした劇的な読み書き形態の変容から、明治期の言文一致を思い起こすということを何度か書き留めてきた。そのときどうしても同時に思い浮かぶのが、柄谷行人の『日本近代文学の起源』だ。柄谷行人は、「私の内面」といったものが元からあってそれが「言文一致」によってようやく表現できたという図式を疑う。そうではなくて、「言文一致」という形式こそが、表現されるべき「内面」を生み出し、それを「告白」させたのだ。しかもそうやって「内面」を作りだした仕組みの起源がすっかり忘却された、といった趣旨のことを鮮やかに主張した。ウェブサイトやウェブログというシステムを「言文一致」に置き換えて考えてみることが可能だし、それはとても興味深い。


2003.4.22 -- 「私」のベールが剥がされる --

●ウェブ日記によって個人の体験や思考がいちいち文章になり公表される。これを「内面の外面化」と呼ぶなら、リンクは「関係の外面化」だ。そうして他人はおろか自分にもそうはっきりしていなかった「私」というものが、とりあえず輪郭づけられ、そのまま定着していきつつある。――そういう話だった。●そうするとブロッグとは、そうした「内面」や「関係」の膨大な集積をメカニカルに整理統合するシステムと言えるだろう。そこで生じた掲示板的なコミュニケーションも、気になったトピックやニュースも漏れなく連結される。これによって「私」は、いっそう複合的なものとして顕在化される。

●ブロッグという現象や言葉がもてはやされることに抵抗感をおぼえる人がいる。ブロッグがアメリカからの輸入品であることや、それをいち早く推奨し実践した人の一部が、まるで日本のウェブに先住民がいないかのごとく発言したことが、その背景にあるようだ。だがそれだけでもないだろう。●《全部四角いのな、お前ら》と言ったのは、ニーツオルグ「ぼくとワレワレ#72」だ。なるほどそうか、ブロッグのサイトは四角い。そして、この四角い区切りは、ちょっと息苦しく、そこから「私」がはみ出していくことがなんだか不可能にみえてくる(パニック障害?)。●たしかにウェブ日記は嬉々として「私」を表出してきた。しかしそれは好きなように出し入れできる「私」だったはずだ。ところが、ここにブロッグというシステムが介入すると、「私」は私だけのコントロールを超えて、いわばグローバルな方式で共有化、公共化されてしまう。しかも細分化、断片化され、再利用、再構成までされてしまうように感じる。もはや「私」は私のものではない。●しかし待て。そもそも「私」を文章化したこと自体が、「私」から曖昧なベールを剥ぎ取ってしまう帰結を最初から孕んでいたのだ。そのことを思い知るべきか。

●<「リンク」から見るweb日記とblog>。このトピックをめぐる流れがとても興味深い。ウェブにおいて目指されていながら枠付けできずにいたある方向性が「ブロッグ」という言葉によってはじめて明瞭になったのだ、という。その通りだと思う。そのなかで、<ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つ/ blogという言葉へのスタンス>という発言では、ブロッグがもたらしたものを挙げたうえで、《では、とひるがえって、これらと平行してうまれ、そしていまもあり、かつ、blogという方向性では答えられていない、そういうものはなんだろうか。ともかく、そのへんがうまくいかないかぎり、しっくりこない感じ、というのは残ると思う。》と問いかける。そうした明瞭な言葉になっていないもののひとつとして、ポータルなしの2ちゃんねるというものを気にかけている。●「はてな」創設者のインタビューでも、注目しているインターネットのサービスとして、最後にやはり2ちゃんねるを挙げ、その盛り上がりの不思議さに思いをはせている。●2ちゃんねるとは何か。この問いが改めて浮かび上がる。

ケロッグ


2003.4.20 -- 言論の独立性 --

●有名人の言論に出会うとき、たいてい、その言論と同時に、または先回りして、その評判とそれが醸しだすイメージが形作られている。一方、無名人の言論にインターネットで出会うときは、その言論だけに接しているといっていい。評判やイメージを伴ったとしても、わずかだし、純粋にその言論に由来するものになるだろう。有名人の評判やイメージなら、その言論だけでなくその人物像にまつわるものが多分にある。●もうひとつ対照的な点。インターネットの無名人の場合、接する言論とはモニター上の文字情報であるが、その評判の方も同じネット上の文字情報として同列にブラウズすることだ。有名人の場合は、たとえば書籍や雑誌の活字でその言論に接したとしても、その風評までが常に同質の媒体で同様に届くとはかぎらない。

●とはいえ話はそう単純でもないか。その例。舞城王太郎という有名作家は、あいかわらず「73年福井県生まれ」以外のプロフィールを明かしていないようだ。でもそのおかげで、舞城王太郎をめぐる言及は、ネットにも雑誌にも数多いのだが、舞城の言論(小説となった活字)以外はなにも材料にできないことになる。そうなると言論自体と結びつかないイメージは形成されにくい。無根拠に形成されても伝説としてしか流布できない。●これがもし、やがて顔写真や経歴をさらし、人の好いエッセイを著わし、流行服を着て雑誌でポーズを決め、ワイドショーの御意見板になったりすれば、当然つっこみどころ満載となるわけだ。どうせならトマス・ピンチョンを目指せ! 舞城王太郎(寡作の人では全然ないが)。●ウェブにたとえれば、舞城王太郎という「サイト」には「アバウト」や「プロフィール」が無いということになる。逆にウェブサイトでも、素性のわからぬ人が濃厚で奇抜な言論をひたすら記しているような場合、いったいどんな人かとアバウトを覗かずにはいられないものだが、でも本当はそこに、社交的で凡庸な挨拶や本音が陳列されていてほしくはない。やはり同じ濃厚キャラで煙に巻くか、いっそアバウトなど欠如していたほうが言論の印象は保たれやすい(もちろんキャラに宛てては友好のメールは出しにくくなるだろうが)。このアバウトも最後の最後《何の変哲もない、至極まっとうなサラリーマンです》だけ正直っぽいのが唯一不満。このサイト「スヰス」は、ごく簡単だったプロフィールがいつしか消えたなと思ったら、とうとう日記まで消えてしまった(つまり全部消えた)。●なお、ウェブ上の思考について、「サラウンド」というサイトでは、大塚英志『キャラクター小説の作り方』との関連で《虚構的な主体がしゃべるようなかたちの文体》に期待を寄せていた。

●ちなみに「はてなダイアリー」では、コメント者のIDをクリックすると、その人のアバウト(存在しない)ではなく、その人のダイアリーが表示される。ID=日記?●もっとちなみに。銀行口座開設の身分証明に住基ネットカードが認められたという話を聞いた。いやいや、銀行から要求されたのではない(今のところ)。はてなのIDが認められたという話は聞かない(今のところ)。


2003.4.18 -- トラックバック、一知半解 --

関係の顕在化パート2 ●私のサイトがAさんのサイトにリンクするというのは、「私→Aさん」という強い関係が、私のサイトにおいて顕在化されることだった(としよう)。ここにトラックバックという逆探知機能を付加する。すると、その関係「私→Aさん」が、Aさんのサイトにおいても顕在化される。それは形の上では、「Aさん→私」という弱い関係が、Aさんのサイトにおいて顕在化されることでもある。●この最後の顕在化は、意図的と呼ぶべきか、自動的と呼ぶべきか。片思いはもはや隠しておけないということでもある(はてなダイアリーの場合)が、見方を変えると、告白さえすれば即座に両思いになるということでもある。●トラックバック(TrackBack)についてはこちらなど


2003.4.17 -- 読んでおくべき、というより、読むべき --

大江健三郎『万延元年のフットボール』。世紀を超えて初読みとは飽きれたやつだ。


2003.4.15 -- 煙のゆくえ --

和歌山大学がキャンパスを全面禁煙にするという話について。●喫煙者は多くの場合ニコチン中毒なのだから、彼らが煙草なしで一日をすごすのはきわめて難しいだろう。かといって彼らは大学で研究する能力を欠いているわけではない。たとえば車イスのメンバーが学内で支障なく活動できるように専用の通路が設置される。それと同じく、喫煙メンバーが支障なく活動できるためには、専用の喫煙所が要るだろう。もちろん、車イスの車輪が誰かの足を轢いたりしないように配慮するのと同じく、喫煙所の煙が一般のメンバーに達しないように設計する必要がある(そのコストを誰が払うかはさておき)。●この「喫煙メンバーの煙が一般メンバーに達しないように」という点こそ、煙草問題のキモだ。でも大抵そのキモだけがなぜか忘れられ、これが健康問題であるかのように誤解される。和歌山大学なんて、記事を読むかぎり、そのキモを忘れるどころか、喫煙習慣そのものを無いことにしてしまっている。じつに未来的で、しかも人類がこの習慣に陥る以前を思わせる理想的で原始的な解決法だ。●今回の措置は、ちょうど読んだばかりの「CODEによるインターネット規制」(下参照)を思わせるではないか。煙草の害が有無を言わさずメカニカルに一掃されてしまうのだから。●「あなたの煙は、わたしが嫌だ」という声に気づいてもらえない現状は、たしかにアホらしい。しかし、だからといって、煙草の問題を「禁煙」という設計で排除しようとしても、身体と通念の両方で拒絶するメンバーが少なくない。それも日本社会の現状だ。やはり「分煙」という設計でしか実際の解決はありえない。●ところで、車イスを使う人を「障害者」と呼ぶのにはいささか抵抗がある。なぜなら、移動に障害が生じている局面で、障害をこうむる人を「障害者」と呼ぶよりは、障害を与える場所を「障害地」とでも呼びたいからだ。では喫煙者はどうか。ニコチン中毒という病気が本人の責任のないところで生じたものならば、彼らを「障害者」とは呼ばないようにしたい。でも、実際はどうかな? ●象は鼻が長い。


2003.4.14 -- インターネットはどう悩ましいのか --

●遅ればせながら、ローレンス・レッシグ著『CODE―インターネットの合法・違法・プライバシー』(山形浩生・柏木亮二訳)を読んでみた。インターネットでは誰もが匿名になれるし、好き勝手にものが言えるし、場合によっちゃ著作物も取り放題……かのように思える。ところがそんなアナーキー世界は、「CODE(コード)」すなわちインターネットに組み込まれたソフトの設計をちょっといじるだけで、有無をいわさず覆ってしまう。その現実をレッシグはこんこんと説いていく。●実は今インターネットは、そうしたコードの操作によって自由が一気に阻まれる方向に動いている。おまけに人によってはそのほうが便利と感じられそうな方向でもあるところがよけい悩ましい。ただし意外なことに、レッシグは「あらゆる規制に対して闘え」とアジっているのではない。ポイントはむしろ、どのようなコードをどのように選択すべきか冷静に考えてみる生真面目さ、でもたぶん私たちは上手な選択などできずおろおろするしかないだろうという悲観性にある。その材料として、インターネットで起こってきたさまざまな現象と、アメリカ社会で自由と規制がどう働いてきたかの歴史が、あれやこれやと示される。●もちろんレッシグは、プライバシーや言論の保護がどうあるべきかを、インターネットの現状を踏まえた上で慎重ながら微細に提言してもいる。けれども、この本がぜひとも読まれるべきだとしたら、それは、コードというものが法律や社会規範とはどれほど異質であるか、そうしたコードに支配されるインターネットがどれほど特異であり、私たちがどれほど特異に嵌まりこんでいるかを、みるみる実感させてくれるところにある。とりわけ重点は、そのコードによる規制の異質さだ。同書のたとえによれば、法律という規制なら、泥棒を思いとどまらせる心理や実際に泥棒したあとの処遇として機能するが、コードによる規制は家に鍵をかけてしまうのに等しく、泥棒がどう思おうが実行しようがすまいが、泥棒を一律機械的に不可能にしてしまう。インターネットの監視と追跡もそうした完璧さでなされるわけだ。

●というわけで、大澤真幸が述べていたところの、アマゾンのおすすめ商品機能や、権力がポテンシャルでなくアクチュアルになっているという話は、これとしっかり通じていると言えるだろう。4月2日の日誌参照


2003.4.13 -- 数の問題 --

●たとえばフィンランドなんて人口が520万しかない。フィンランド人が1人いたら、その周りを日本人24人がうようよしている計算になる。「ホームページでも作るか」と思いたつ人の数も近似するのだろうか。そのばあいフィンランドの人が毎日巡回しているサイトの数は、日本の人の24分の1ですむのだろうか。

●で、東京都知事選。石原慎太郎の得票は300万を超えたらしい。だからどうだという実感はあまりないのだが、なんとなくすごい所に私は住んでいるのかもしれない。


2003.4.11 -- クリック経済 --

インターネットが普及する以前は、私たちが毎日こんなに文章を書くようなことはなかった。――これが基本の認識としても、それに加えてはっきりしてきたことがたくさんある。たとえば、日記や会話を公開するという奇妙な習慣が当たり前になると、公開しない日記や会話は存在しないも同然という意識になっていること。私ひとりの体験や感想を他人が共有していないと気がすまない。特定メンバーに向けた情報や意見を全メンバーが共有していないと落ちつかない。下(4.2)で触れたごとく「内面の外面化」が起こっていると言えるだろう。●さらにきょうは「関係の外面化」と言ってみたい。つまり、私という内面(のようなもの)を文章化したのに続いて、あるサイトを見ている知っているという私の「関係」をも、リンクという形で公表せずにはいられなくなっているこの事実だ。関係が顕在化すれば、おのずとデータ化されシステム化される。「はてなアンテナ」などを見ていると、そうした関係の束どうしはまた新たな次元の関係を作り出すのだと感じられる。興味の中心は、関係している当の対象から関係そのものに移ってもくる。関係はまた、格付けされたり、資産のようにもなる。●こうなると、ついついなぞらえてみたくなるのは、リンクという関係がインターネットにおいて貨幣にも似た特別な価値を帯びていくのではないかということだ。はてなダイアリーでは相手にポイントが渡せるらしいが、今のところそれも金銭というより関係のやりとりだ。じゃあそのとき交換され消費されているのは何だろう。それが誰かの内面ということになるのか。…まよくわからないが、つくづく面白い時代ですね。


2003.4.10 -- うららか --

●春爛漫。きょうはこの言葉がいい。一日逃すともうなかなか、それがこの時節だ。●しゅんぷうたいとう【春風駘蕩】 春の風がそよそよと吹くようす。人柄の穏やかなさま。せかせかと働かないこと。「新人のくせに――なやつだ」(まあ一献)


2003.4.8 -- 読む人よりは書く人向き --

大塚英志キャラクター小説の作り方』(講談社現代新書)。物語の展開にはパターンがあるので、その構成要素を適当に組み合わせれば小説が出来てしまう。前作『物語の体操』は、そのからくり自体をネタ本から引っぱってきて驚かしてみせた感じだったが、今回は「角川スニーカー文庫の小説を書く」という目標を定め、より具体的な実践指導になっている。その主たる内容はさておくとして――。●大塚はまず、漫画やゲームに由来する「キャラクター小説」が<主人公=架空キャラクター>と<設定=仮構世界>によって成り立っている、という明快な定義を行う。この構図でいくと、明治以降の小説は、ずっと<主人公=私>と<設定=現実世界>の枠内でやってきたとして、相対化されてしまう。鮮やか。さらには、「私」や「現実」といっても言文一致によって浮上した仮構にすぎないのだから、明治以降の小説もまた一種のキャラクター小説であるとの見方に達し、それなのに「私」というキャラクターと私小説だけは「文学」の名によって擁護されてきたと批判するのだ。そのうえで、近代文学史を一度リセットしよう、変容しているこの現実に対応できる小説の作法としてキャラクター小説はどうだ、と本気で呼びかける。●高橋源一郎は書評でこの本に希望を寄せている。しかし思うにそれは、彼が世界中の小説をイヤというほど読んでしまったせいではないのか。一方たとえば私であれば、小説というものをまだわずかしか読んでいないせいか、今のところどのような小説であれ、それが仮に「私」を主人公にした小説であれ、まだまだ期待を捨てられない。変容する現実にそぐわない小説というのは、たしかにある。しかしそれは、「私」を主人公にしているがゆえにダメなのだ、というわけでもないだろう。●ちなみに、キャラクター小説ならその変容する現実に本当に応えられるのかというと、そのような予感は私にはない。ただしそれは、私がキャラクター小説というものをほとんど読んでいないせいだろうとも思われる。●では大塚英志はどうか。彼はいつも私小説なんてもううんざりという態度をとる。しかしそれは、ひょっとして、彼がそうした小説を読みすぎたせいというよりは、逆にほとんど読んでいないせいではないのだろうか。


2003.4.7 -- 風景、物、映画の記憶 --

●『ランドリー』という映画をNHK(BShi)で見た。せつない、いい映画だった。●物語の起点となるコインランドリー。堤防沿いの路。そこから見える3基並んだガスタンク。自然の眺めとしても文明の眺めとしてもあまり取りえのないこうした場所が、映画のトーンを決める大切な風景として選ばれ、じんわり胸を打つ。舞台が地方へ移ると、こんどは何の変哲もない路線バスやその停留所、パーマ屋の外観といったものが、その役割を引き受ける。それに加えて、飛び立つ白い鳩と、勢いよく振られる赤い旗。もはや忘れがたい体験として刻まれてしまう。人物のキャラクターやストーリー進行もうまく造形されているみたいだが、それらの心情や展開の要所は、必ずこうした風景や物あるいはそれを伴った行為として語るように仕向けている(とみえた)。本来の意味で映画として感動したのだろう。●生ギターでmaj7(メジャーセブンス)コードを弾くと闇雲に切なくなるので、ときとして反則技に近い。この映画が醸すのはたしかにmaj7ムードであり、BGMやエンディング曲(atamiの「under the sun」)などはまさに闇雲に切ない。しかし改めて言うけれど、そのムードは、風景や行為にしか担えない手法・効果によって成り立っている。反則技ではけっしてない。●『ランドリー』の監督はこれがデビューとなる森淳一。キャストは窪塚洋介(×→洋一)、小雪、内藤剛志ら。昨年02年は、同じ窪塚主演の『GO』がキネマ旬報などでベスト1になった年だが、この『ランドリー』も昨年の公開。ところが窪塚の役柄はまるきり正反対なので、注意すべし。『GO』は拍手する気にならなかったけれど、今回『ランドリー』の窪塚はとても好ましかった。『ランドリー』の公式サイトを見てみると、ポスターに見覚えがある。当時このポスターを見て、窪塚主演だし、たぶんまた『GO』みたいな映画だろうと思い込み、敬遠してしまったような記憶がよみがえった。


2003.4.4 -- 花粉、桜、SARS、爆弾 --

●『過去のない男』で、ヘルシンキの港湾地区に流れ着いた主人公が住まいにしたのは、廃棄されたコンテナ。しかし椅子やテーブルが整うと、これがなかなか居心地よさそうなのだ。もともとカウリスマキの映画では、室内で2人がじっと向き合って会話、といった近めの固定ショットが特徴的だったから、その場所が普通のリビングからコンテナ内に変わっても、カメラの枠に収まる範囲とその落ち着きはらったムードだけは、同じ条件で保たれているということだろうか。さらには、原っぱに捨てられていたジュークボックスまで再生して持ち込まれる。東京のワンルームより広いではないか。電気は電柱から勝手に引っ張ってくる。仲間のコンテナ住宅ではシャワーも人力との組み合わせだ。●金が無いから自前でやるしかないわけだが、きょうびローテクというのは案外気持ちがよいものだ。そういえば私も、最近パソコンが壊れかけたが、中古ハードディスクをオークションで手に入れ、本体を開いて自力で交換することでクリアした。これもいくらかローテク自前の気分。


2003.4.3 -- 傷だらけの中年 --

アキ・カウリスマキ過去のない男』。列車に乗っていた。殴られた。彼にはそれしか記憶がない。だから、そのあと目の前に現れてくる風変わりで冴えない人物・風景・出来事は、どれも彼にはまっさらな出会いであり、彼の世界はそれ以外にまだ何も存在していないということでもある。ということは、今その各シーンを初めて順々に見ている私、今スクリーン以外は何も見ていないこの私は、彼と似たようなぎこちない体験をしているのかもしれない。そう、人生は前にしか進まない。映画も前にしか進まない。●それはともかく。ぼろぼろであること、ちぐはぐであること、中年であること、ムード歌謡であることが、これほどかっこ悪くなくこれほど味わい深い映画は、めったにない。●過去のない男 公式サイト。●カウリスマキのファンサイト


2003.4.2 -- ドクター・アマゾン --

●「あなたはこの本が好きです」。アマゾン・コムが利用者に薦めてくる、教えてくる。●この「おすすめ商品」機能、ふと健康診断みたいだと思った。購入商品にブラウズ記録といった病状のカルテ、好きなジャンルや著者といった生活習慣の問診と検査。そうしたデータを総合し、おそらく平均値からの偏差などを割り出し、それによって私のコンディション、身体の状態ではなく心や好みの状態を診断してくれるのだ。●考えてみれば、そもそも健康診断というのは、体質や病気という大昔ならもうちょっと神秘だったかもしれない現象を、万人共通の基準に照らしつつモニターしていくシステムだ。 他人はもちろん自分でもぼんやり感じるくらいだった身体内部の状態を、定量的なデータや実像としてあからさまに描写する。●おもえば私は、健康診断を唯一の身体統治機構として疑いもなく受け入れてきた。この「おすすめ商品」診断も、いつしかそれと同じように受け入れることになるのだろうか。こうした健康や商品の診断を、しゃれや占いとして笑えればいい。あるいはそれに代わるローカルでリベラルな機構を確保できればいい。しかしそれはけっこう難しい。逆に「私の身体や消費なんてその程度のことさ」と考えて、こうしたグローバルな診断を受け入れたほうが手っ取り早いともいえる。●この機能がサービスなのか、お節介なのか。それはとりあえず感覚の問題だろう。しかしその感覚を支えるのは、やっぱり人間観や社会観の問題ということになろう。

大澤真幸は、アマゾンのこの機能を、インターネットでは内面こそが最も外面的だという見方の一例として挙げていた(群像02年10月号・松浦寿輝との対談「権力と内面と文学」)。より一般的な背景として、ポテンシャルな権力からアクチュアルな権力への移行があるとも言う。これまで権力はそれが及ぶかもしれない恐れとともに作用していたが、現在の権力は物理的な作用としてきっちり隅々まで及んでいるというような話。通信傍受法や住基ネットも、権力のアクチュアル性こそが新しい特徴なのだから、それに対抗するのに「言論の自由」といった古典的な論拠を持ち出しても足りない、といったことも語っている。●レッシグや東浩紀といった人たちが早くから警鐘を鳴らしてきたのも、なんとなく似たような事情をめぐっているのかもしれないが、詳しく知らない。●そんなことより、本、買えよ。


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