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    路地に迷う自転車のごとく

迷宮旅行社・目次

これ以後


2003.8.29 -- 書き組 --

●きのう池田小事件の判決を伝えるニュースを見ていたら、殺された児童の生前の日常を記録したビデオ映像が次々に(8人全員?)流れた。この年ごろの子供なら、こうした幸せいっぱいの思い出というものが保護者のカメラでちゃんと撮ってもらってあるのは常識なのだろうか。また、インタビューを受けた遺族(両親?)は、悲しみや怒りを述べながらも物腰や口調が落ちついており、隠された顔の代わりに目に入るネクタイや時計、指輪なども良い趣味に感じられた。いやな話だが、経済の勝ち組という以上に文化や精神の勝ち組といった発想までしてしまうのだ。でもこの勝ち組この階層にこそ、殺人犯の男は強く憧れ、そしてそれを強く憎んだのだろう。それが犯行の動機というならシンプルと言っていい。●たとえば私もきょう散歩していると、高く頑丈なコンクリート塀と鬱蒼とするほどの樹木に囲まれた大きな大きな屋敷の門から、黒塗りピカピカの大型乗用車が、誰か(使用人?)に見送られて出ようとしていて、ウィンドウ越しにまだまったく若い人物が悠々とハンドルを握っているのが見えたときは、ふと「火でもつけてやろうか」「少なくとも塀に落書きくらいはしていいんじゃないか」「Yahoo!BBの赤服集団を送り込むという手もある」と邪悪な念がまったく浮かばなかったといえば嘘になる。このばあい落書きは「スペクタクル社会」じゃなくて「夜露死苦」。●でも火はつけない。まあ落書きもしない。そのへんが、「殺したい」と思うだけでなくそのとおり「殺してしまう」人と、思ったとしても今のところ実行しない人との事実上の隔たりだ。その隔たりが生じた背景やその隔たりをなんとか保っておく方策を明らかにしていくことが、たぶん社会としては有益なのだろう。

●その一方で、有益かどうかはさておき、かの「なぜ人を殺してはいけないのか」の問いもまた浮かんでくる。散歩しながらあれこれ考えた。この問答がすっきりしないのは、もっと積極的に「なぜ人を殺さなければならないのか」と問うことが巧妙に避けられているためではないか。それはなにより不道徳で反社会的だという嫌悪から避けられてしまうのだろうが、それだけではない。「人を殺さなければならない」理屈というのは、実はそれなりに正当性を持つ。ただ同時に、「人は殺されてはたまらない」理屈というのも、もちろん正当性を持つ。両者はそれぞれに正当性を持つのだ。しかし、当然のことながら同時には成り立たない。その本質的な困難を避けたくて、問いをわざわざ混同し曖昧にすると「なぜ人を殺してはいけないのか」になるのではないか。

●このことは、「人の顔を便器にデザインしなければならない」気持ちと、「人の顔が便器にデザインされてはたまらない」気持ちとが、それぞれ正当性を持つと思えるのに、やはり同時には実現できないというのと同じ構図にみえる。●「なぜ人の顔を便器にデザインしてはいけないのか」という問いも、そのままではどうもうまく考えることができないのだ。そうではなくて、「私はなぜこの人の顔を便器にデザインしなければならないのか」または「なぜ私の顔が便器にデザインされてはたまらないのか」を、いったんは別個に追求することから始めるのがいいように思う。


2003.8.26 -- 夏休みの宿題 --

●夏休みだからというわけでもないが、マーク・トウェインの『ハックルベリー・フィンの冒険』を分厚い世界文学全集で読んでいた。浮浪児ハックが筏に乗って逃亡奴隷のジムと一緒にミシシッピ河を下っていく、あの物語。窮屈なおばさん宅、さらには突然現れた暴力親父の手を逃れ、いよいよ水上へと滑り込んでいく冒頭は、今しも学校が終って休暇が始まろうという解放感そのものかもしれない。だから、河の中の島にたどりつき、思いがけずジムと出会い、ミシシッピを本格的に下りはじめ、流れてきた家屋、打ち上げられた船を見つけては入り込み――、そうした水上移動そのものとして未知の出来事が次々に起こっていく前半部は、まだ先の長い、そして先の見えない圧倒的なわくわく感を誘うのだった。しばらくして、河岸に建っていた、きっと当時のアメリカを象徴する裕福で好戦的な一家にもお世話になるが、この計2章は、まあ、親戚の家を訪ねてお兄さんお姉さんの世界に触れた一泊二日のお泊まりのようでもある。小説が中盤になると、ハックとジムの筏には二人のペテン師が加わり、さらに舞台が両岸にあるいくつかの町に変わったうえで、スリル満点のドタバタが繰り返されることになる。これらの活劇は実に面白く出来ていて、いってみれば陸にあがった安定感で楽しめる。それでも、闇と霧と嵐のミシシッピに翻弄されながらただ前進していく水上パートの、あてどない夢想の方は、やや減じたかなと感じてしまう。夏休みでいえば、プール通いも虫取りも西瓜の味も毎度のことでちょいと飽きてくる時期だろうか。つまり、この部分は、筏で河を移動している一団が先々の町でそのつどドラマを繰り広げるといった形で、『水戸黄門』風にシリーズ化できそうなのだ。それはどこか、大昔に夏休みというと放映されたおなじみのテレビ番組のようで、すこし暇を持てあました気だるさもよみがえる。さて終盤では、とうとう民家に捕まってしまったジムを救い出そうと、トムという助っ人も都合よく加わって、知恵と力をここぞとばかり総動員する。この最終のやや長めの大冒険は、たまった宿題をお盆過ぎになって一気に片づけようとでもいうような無謀で厄介な挑戦となる。もちろんそれはどうにか成し遂げられ問題はすべて解決されるのだが、それを受けた最終章は大団円というにはあっけない。そこがまた、気がつくとあっという間に夏は過ぎ、おやもうコオロギが、といった名残りこそをかしけれ。……ふうやっと読書感想文が仕上がった。さあまた学校だ! ●ちなみにこの小説、最終章を含めて合計43章から成っているのは、なにやら暗示的? 

●ところで、トムとハックが協力してジムを小屋から脱出させる場面では、トムは自分が本で読んだ脱獄ものをそのままなぞりたくて、わざわざ面倒な手順や道具だてに拘る。絶大な敬意を払うトムには必ず従うハックだけれど、内心「やれやれ」と思い「おいおい」と突っ込みもいれる。このやりとりが落語に出てくる長屋の連中のように可笑しいのも一興だった。トムがどこまでも子供っぽいロマンチストであるのに対し、ハックは徹底したリアリストということになるのだろう。●というわけで、リアリストとしての私は、当然ながら夏休みとか言って浮かれている場合ではないのだった。とはいえ、じゃあ何をしている場合なのかというと、それが分らないのである。宿題はまだ手つかず。だが宿題は何だったのか。●村松健に『夏休みの宿題』というアルバム(1990年)があったのをふと思い出し、聴く。


2003.8.23 -- わが青春に悔いなし --

●お盆休みに、高校時代の学年あげての同窓会があったらしい。私は東京に住んでいて住所不明だったせいか、連絡が来なかった。のではなく、単にみんなから嫌われているのではあるまいか? などという神経質が、溢れんばかりの懐かしさのなかにも微妙に巣くっているのが、十代の思い出というものですね。同窓会のホームページがあって今回の写真がアップされていると教えられ、ブラウズしてみた。たくさんあった。なべて和やかな語らいの風景だ。●これとは関係なかったのだけれど、その少しあとに、『地下室の手記』というドストエフスキーの中編(江川卓訳)を読んでみた。これがまあ、自虐と悪態の暴風すさまじく、読む者を否応なくなぎ倒していく。主人公は徹底的に嫌なやつ、酷いやつ。だからあるいみ凄いやつ。自分と世間の両方に対する、理詰めの、憎悪と癇癪が、めらめらめら…。この「め」に濁点でも打たなければ足りない、そんな尊大かつ卑屈な独白がつらつらと続いていく。いやぁまいった。●主人公は40歳になってそうした自らの人生と哲学を振り返っているのだが、暗澹たるキャラは十六歳にしてすでに全開だったことが明かされる。そう、彼の学生時代が回想されるのだ。同級生に軽蔑や敵意の目しか向けず、その結果か原因かはともかく、友情を育むといったこととは予想どおり無縁だった。ところが、主人公が成人し就職したあとのストーリーとして、とりわけ折り合いの悪かった同級生の一人が出世し転勤していくのを仲間たちが祝福するという飲み会に、誘われもしないのに割り込んでいく。その結果、レストランの丸テーブルでは目も当てられない会話が展開されていく。●「さすがにここまで無茶苦茶なやつは、このクラスにはいなかったよなあ、おれ以外には」……といった内心を覆い隠しているような人が、同窓会写真の一様に幸せそうな集団のなかに、一人くらいはいないだろうか。そんなやつは同窓会なんて行かないのか。●そういえば、ちょっと前、高校時代のいじめの仕返しに爆弾を作ってしまった人がいた。あれも郷里福井の出来事だった。

●『地下室の手記』でもう一つ忘れがたきエピソード。あるところで見知らぬ将校が自分のことを軽くあしらった。それが許せず、何年にもわたってその将校を追跡することになる。しかも、その将校は街路で自分とすれ違うときいつも堂々としているのに、自分はなぜかついよけてしまう。それがなおさら悔しくて仕方がない。●《どうしておまえのほうがよけて、彼のほうはそうしないのだ? 何もこんなことに規則があるわけもなし、法律できまっているわけでもないだろう? ひとつ対等に、つまり礼儀正しい人間同士が出合ったときのように、ふつうにやればいいじゃないか。向うが半分譲ったら、こっちも半分譲って、おたがい敬意をはらいあってすれちがえばいいじゃないか》。●そこで、自分は将校と対等な人間なんだということを証明すべく、立派な服装を借金してまで整え、機会を待ち、きょうこそ肩をぶつけてやるぞと真正面から近づいていく。こんな馬鹿馬鹿しくも渾身の闘いが、大まじめに実行される。●最近読んだ漫画『最強伝説 黒沢』(福本伸行)の、アジフライのあの涙ぐましき一件を思い出さずにはいられなかった。●また、吉田戦車伝染るんです』のかわうそ君も思い出された。作中、かわうそ君の苦悩は饒舌に記述されていたわけではなく、ポーカーフェースの呟きから内心を窺い知るだけだったが、家に独りでいるときは、もしかしたら『地下室の手記』みたいな日記を綴っていたかもしれない。 ●なお、『地下室の手記』の主人公には羞恥心、気弱さといった部分も相当あって、そこのところは大宰治っぽくもあった。ただ『地下室の手記』のばあいは、恥知らず、強情さといった部分が、それを上回ってしまうような具合なのだ。●それでまた思い出した。こんどは私が大学に入ったときの話。クラスメートの自己紹介をまとめた冊子が手づくりされた。質問項目に「感動した本は?」とかいうのがあったのだが、複数の人が同一回答をした本が一冊だけあって、それが『人間失格』だった。●でもこれ、まだちゃんと読んだ本が少なくて『人間失格』くらいしか思いつかなかったとか、『人間失格』なら回答としておさまりがいいだろうとか、にすぎなかった可能性もある。が、真相はわからない。また、「感動した本」に『人間失格』を挙げた人が、そのころから読書の深みにはまってさわやかな青春を送れなくなってしまった、かどうかも、もちろんわからない。『人間失格』と書いた犯人は誰だったのか。それも実は忘れている。そういうことは小説にでも書いてみないことには決着がつかないだろう。ということで、こんどは『ノヴァーリスの引用』(奥泉光)というのを思い出した。●読書の深みにはまるとは、たとえば、こういうこと。《…家にいるときは、ぼくはたいてい本を読んでいた。ぼくの内部に煮えくりかえっているものを、外部からの感覚でまぎらわしたかったのである。ところで、外部からの感覚のなかで、ぼくの手に届くものと言えば、読書だけだった。》(『地下室の手記』より)。

●なお、『伝染るんです』『地下室の手記』『人間失格』の類似を指摘した文章がすでにあったので、リンク


2003.8.18 -- 昇華しない --

芥川賞ハリガネムシ」(吉村萬壱)。●皮膚のもぞもぞ感が神経症的、微温的。しかしそれはやがてエスカレートし、気がつくとエログロ炸裂、また炸裂。その「ぞぞっ」「うわぁ」とくる度合いは、たとえばかの蓮コラと比較してはどうだろう。私は世に言うほど蓮コラに悪寒を覚えなかったので、こっちに軍配をあげたい。●くわえて、ダウンタウンの『ごっつええ感じ』などの不思議加味系コントにあった、可笑しいんだけれど、それ以上になんともいえずいやーな状況と展開ができれば目をそむけていたいのになんだかずるずる立ち去れない、そんないたたまれない哀しさが降り積もる。とりわけラストシーンはそれにつきた。●というわけで、村上龍氏の評とは逆に、この小説、私にはとてもリアルだった。むしろ、今さら取り上げるのもどうかと思うが、「限りなく透明に近いブルー」のエログロのほうこそ紋切り型で作り物めいている。ちなみに、「ハリガネムシ」の冒頭で主人公の耳に虫が入るが、おかしなことに、「限りなく透明に近いブルー」も耳の後ろの虫の羽音で始まるのだった。●また、「ハリガネムシ」の基本トーンは、銭湯帰りに深夜喫茶でまたピラフでも食うか、といった、とりえのない、さえない、そんな日常にある。これもまたあえて比較してみるなら、「限りなく透明に近いブルー」の、横田基地周辺という特別な場所でのドラッグや乱交という特別な物事を伴った特別な空虚さとは違って、「ハリガネムシ」は実につまらない空虚さだ。舞台もどうやら1987年という中途半端な年。だが、そのほうが少なくとも私には切実に空虚だ。ああ実りのない人生よ。●ただし、私はこれ、けっきょく純愛の話なのだと思って読んだというのが、結論。


2003.8.17 -- お盆は終ってしまったけれど --

●暗く静かな室内。黒い壁。肖像写真のスナップが横一列にずらりと並んでいる。各写真には名前が記され、その下には30センチ立方ほどの透明ケースがあって、それぞれの遺品が収められている。畳んだシャツやズボン、電気ヒゲそり、ノート、CD、靴などなど。パレスチナではインティファーダ(民衆蜂起)が00年から再会されたといい、その犠牲となった最初の100人をこうして追悼している。●「シャヒード、100の命」という展覧会だ。日本国内数か所を巡回している。東京展(終了)の会場が、わが家のあまりに近く、サンダルと短パンで行けるほど近くだったので、これは「イラクは他人事」だの「パレスチナは遠い」だのと言っている私のために、パレスチナが向こうからやってきたのだと感じ、足を運ぶことにした(サンダルと短パンではなかった)。●会場にあったカタログを見ると、多くの場合、デモや投石にちょっと出かけていった群衆の一人として、イスラエル兵などに狙撃されて死んでいる。●二つのことを感じとる必要があるだろう。ひとつは、100人が100人それぞれに好みや望みをかかえ、私たちと同じく平凡に暮していたという事実。このことは、写真の表情やケースの中の物品、カタログに書かれたエピソードなどを通せばそれなりに理解できる。もうひとつは、そういう人たちが日常のなかであっさり命を奪われたという事実。いや日常かどうかはさておこう。問題は死ぬというそのことだ。ある日突然死んでしまうということを、私たちはなんらか自分の体験に転換して身にしみることができるだろうか。すぐ思いつくスムーズな方法は、おそらく、自分の身近な人が死んだ体験あるいは想像を通してというものだろう。●では、私たちは、身近な人を亡くした経験はあるだろうか。想像した経験はあるだろうか。他人が死ぬことではなく、自分や自分に近い人が死ぬということは、それこそ「いちばん遠く」の出来事として常にあるのではないだろうか。●いや、本当は、問題はそうではない。かりに私たちが、身近な誰かを亡くしたことがあったとして、たとえば、これほど遠いパレスチナの見知らぬの人の写真や遺品をほんの1時間でもしげしげと眺めた、その程度でもいいから、その誰かを振り返ってきただろうか、ということだ。●パレスチナがいくら身近になろうとも、それに重ねるべき身近さが自分の側にないかぎり、それはたいして意味をなさない。私たちは、なにか本当に大事なことだけは、いつもいつも見失い、見損ねてばかり、ということはないだろうか。●リンク→『シャヒード、100の命 展


2003.8.16 -- 普通に生きるための技術 --

古谷実ヒミズ』を読んだ。無力感のうえにイラだちがつのってキレる寸前。そう、今という時代の避けがたい空気とは、まぎれもなくこういうものだ。それを私たちはこの漫画によってはっきり自覚しつつ分かち合う。冒頭から結末までその共感はまず消えなかった。●顔のインパクトがとりわけ強い。どうにもやりきれない人物が次々に登場し、ここぞというところでアップになるが、その表情はどれもほんとうに醜く、痛い。過剰だが誇張ではない。あんな表情は、そしてそこから読み取れるこんな醜さやこんな痛さは、やはり10年前、20年前なら、まだ存在していなかったのではないかと思った。●さてそのうえで、ちょっとネタばらしになるけれども、一言。主人公の少年は、世の中は凡庸であると悟り、だから自らの人生はただ普通であればよいと願っているのだが、にもかかわらず、その世の中の凡庸さゆえに、その普通であることがどうしても困難になっていく。それが父親を殺すこと、最後は自分が死ぬこととなって現れる。しかし、多くの人にとって、不条理とは、殺したり死んだりのどうにか一歩手前あたりで、それこそ凡庸にじくじくと蔓延しているのだと思う。それはストーリー中にも、いじめ、貧困、拝金、リストラ、ストーカーといった形で現れている。そこからすれば、殺す・死ぬという難題と挑戦は、けっして遠くはないけれど、やはり向こう側に行ってしまうことだ。言いかえれば他人事だ、漫画事だと、それこそ私たちは悟っているのではないか。そこをどうにかこちら側だけの話で持ちこたえつつ盛り上げていくという方法もあったのではないか。●借金を作って金をせびりにくるだけの父親をブロックで殴り殺して地面に埋めてしまう話のほうが、友人が何ヶ月もかけて完成させた漫画の原稿にうっかりコーヒーをこぼしてしまい怖くて逃げ出す話より、ずっと辛く苦しいとは必ずしも言えないのでは? ということ。いや、でもやっぱり殺しや死が免れないことこそが重要なのであって、それはやっぱり殺しや死の話によってしか描けないのか? どうだろう? ●ちなみに、稀に出現するあの化け物のほうは、漫画事だなどとは感じなかった。

宮台真司宮崎哲弥の対談本『ニッポン問題』では、『海辺のカフカ』を認めない二人が、そろってこの『ヒミズ』を絶賛している。特に宮崎氏は02年の文学ナンバー1に推奨し、「カフカくんで救われたり、癒されたりした連中は、『ヒミズ』を読んで絶望の淵に突き落とされるがいい!」と結んでいる。『ニッポン問題』はイラク、北朝鮮、ナショナリズム、日本経済などを縦横無尽に語っていて「なるほど」の連続だったわりには、あとから思い返すと「え〜と、どんなこと言ってたっけ?」という消耗品的な本だったかもしれないが、この『ヒミズ』のことだけは印象に残っており、それで読んでみて、正解だった。●流れに合わせて『海辺のカフカ』と比較するなら、ごく単純なことだけれど、たとえば現実社会でナマの人間を傷つけたり殺したりすれば、きっとこうした苦しさがまとわりつくのだろうということを、『ヒミズ』はありありと感じさせるのに対して、『海辺のカフカ』にはそういう現実感は薄い。ただ、『海辺のカフカ』は、いってみれば「春樹社会」としての強いリアルさ(なんだそれ?)は保っているので、なお読む価値があると思うのだが。●ついでに、最近見つけた『海辺のカフカ』評を一つ。当っていると思った。


2003.8.13 -- 語るに落ちたならそれでもよい --

●『重力02』に掲載されている「コンプレックス・パーソンズ」(大澤信亮)。レビューがほとんど見当たらないので、軽々しく紹介するのには慎重になってしまう。それでも、世界の重層的で根源的な困難さに思いを至らしめる力作。言葉は足らなくとも、いや言葉が足らないからこそ、黙っていないほうがよい。というわけで、こちらに感想。

●関連するようなしないような。《ネット批評では沈黙という価値が見失われてしまいがちである》(『Dravidian Drugstore』8.11)


2003.8.10 -- 炎天下、猫弛緩 --

●いろいろ読む。吉村萬壱「ハリガネムシ」(芥川賞)、『重力02』、乙一『ZOO』、宮台真司・宮崎哲弥『ニッポン問題』、福本伸行『最強伝説 黒沢』、中島京子『FUTON』。どれも面白い。お盆休みにいかが。


2003.8.7 -- ほんとうに困難なこと --

●気になる本。太田昌国「拉致」異論』。朝日新聞の書評にこうあった。《…いま必要なのは、(…)洪水のようにあふれる「正論」に誰もがぼんやり感じているだろう異和感を言葉にすることだ。だが、それは難しい。「異論を許さぬ、不自由な空気」が流れているから。けれども、著者は全身をかけてその困難に立ち向かうのである。》(高橋源一郎)●しかし、さらに気になること。太田さんや高橋さんは、その「異論を許さぬ、不自由な空気」がどこに流れていると感じているのだろう。おそらく、家族会や救う会の言動に、あるいは世論に、ということだろう。では、その「正論」は、太田さん自身の見解には最初からまったく存在していなかったのだろうか? もしも、その正論が論敵だけに存在しているのなら、異を唱えるのはさほど困難ではないと思うのだ。もちろん、これは仮の話だ。太田さんがそうした不自由な空気を外部にしか想定していないのか、それとも自身の思考にも感じているのか、それは少なくとも同書を読まないとわからない。


2003.8.4 -- グーグル脳 --

●もう御存知でしょう、「斎藤環氏に聞く ゲーム脳の恐怖」。(参照:「同ページ」のGoogleランクを上げよう 運動 )●こうした異議や啓蒙のアクションが、集会やデモを組織するのでも、政治家やマスコミに訴えるのでもなく、グーグルの操作という手法をとったところが面白い。やはり世界はグーグルとして存する。真理はグーグルに書かれている。グーグルに無いものは、無い。私はゲーム脳ではないが、ちょっとグーグル脳。


03年7月

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