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批評コンビニ幕の内(7)
鈴木淳史『クラシック批評こてんぱん』=本編= 

予告編

●批評の(四谷?)階段上り下り

『クラシック批評こてんぱん』は、音楽批評について書いた本であり、批評全般について書いた本でもあり、ついには書くこと全般について書いた本ともなる。すると面白いことに、この本自体を書くことについての本ですらあるように見えてくる。批評と作品の抜き差しならぬ関係が立ち昇ってくる。

この本を読むということは、3階段を上り下りする体験でもあった。つまり、作品/作品の批評/批評の批評。 あるいは、これを上り下りすることが批評?



●注文の多い批評ゲーム

ところが、この本の刮目すべきところは、そんな大それた実質が吹き飛ぶくらいの「楽しさ」にある。あらゆる記述は、絶対にまっすぐ安定しては進まない。遊戯、逸脱、洒落。3ページに1回は声を上げて笑う。

そんなゲーム観戦のうちに、批評というチームのメンバーが次々に姿を現わし、おのおの得意のピッチング、バッティングをぱしっと決めてみせる。こんな堅苦しいチームにこんなキャラいたっけ?と驚くことも頻りである。

たとえば、第4章「音楽批評実践講座」では、朝日新聞の「クラシック試聴室」という短いコラムを取り上げ、その簡潔美を誉めたあと、これをいくらか権威ある文章にしたければと、添削してみせた文章が、単に文末に「----吉田秀和」と書き加えたものであったり。それでもダメなら「----つんく」ではどうかとも。

この権威の話はまだまだ続き、ムラヴィンスキーのチャイコフスキー演奏を評した「そこに息づくロシア人ならではのほのかな体臭」といった常套句について、筆者は「論法が空虚な形式として物化されたもの」とロラン・バルトを引き、ついで水戸黄門の印籠にも喩える。おまけに、その印籠の権威が失墜する危険性をアリストテレスはつとに予測していたと断じる。その証拠として『詭弁論駁論』の一節を長々と引用し、《まるで、最近のディスク・ガイド的批評について述べたようにも思える文章だが、明らかにテレビドラマ『水戸黄門』を見て書いたものだと思われる。》とのたまうのである。このあたり、ヒット、盗塁、ホームラン、打者一巡のつるべ打ち。何度笑ったことか。

明治以降の音楽批評史を辿る第3章では、80年代になって台頭した音楽学者の音楽批評について、「鯛のうまみを味わうのに、鯛という魚を科学的に分析しても仕方ない」と谷崎潤一郎の文句を借りて評し、学問と批評はまったく違うのだと述べる。そして・・・・・・

音楽学者が音楽批評家を兼ねる。それって、昼間は1人の警察官として真面目に仕事をこなし、勤務後は裏通りの賭博場にいそいそと出掛けて、さすらいのギャブラーになってしまうようなものだ。彼らが情報収集としてその場に立ち現れるのか、純粋にギャンブルを楽しみたいのかはまだわからないことが多い。ただ、警官としても地が勝負の場でも現われるのか、それほど目立った大勝利はしていないようである(でも地道に勝っているところが公務員っぽい)。

そうか批評とは賭博だったか!

音楽批評の具体例をこれでもかこれでもかと茶化しつついくつも挙げて、そこから批評の様々な手法を抽出していく第2章では、「諷喩」という修辞法が挙げられていた。この諷喩こそ、筆者自身がこの本の記述においてとりわけ華麗に駆使する技とも言えよう。そこから思いがけぬエクリチュールが花開いていく。いま挙げた警官がギャンブラーになる体の説明がそれに当たるだろう。

ところで先の第3章では、小林秀雄「モオツァルト」も、吉田秀和や宇野功芳といった大御所も、現代の新しい批評家も、それぞれ魅力的に紹介されるが、その批評史の末端に登場するのは、なんと「2ちゃんねる」なのだ。引用されたスレッドでは、アバド、ヴァント、朝比奈といった巨匠指揮者の音楽性を、巨匠の巨根に見立てて評するというおしゃべりが延々続いている。これ自体秀逸だが、このような文章現象を批評として肯定的に位置付けるという野蛮。これはもうスレ立てなきゃ(立ってるか、とっくに)。2ちゃんねるの投稿連鎖は連歌であると見通し、そこに歌心すら味わっている。

ともあれ、さまざまの素材を、いったんゆがき、炒め、さらには焼いて、それから煮込む、そんな手の込んだ創作料理の趣だ。でもその素材って本当は何かな?



●離陸する批評、着地点はいずこ?

クラシックに不案内で、ましてやクラシック批評など知らない者が、なぜかこの鈴木淳史の批評あるいはこの本に引用された批評を存分に楽しむことができる。珍な話だ。

筆者が絶賛する若手批評家に黒田恭一という人がいる。引用された文章には、こちらも引き込まれてしまう。そして、こんな批評を引き出すなんてどんな素晴らしい演奏なんだと興味をそそられる一方で、批評の面白さだけですっかり自足してしまい、批評されたCDなどべつに聴かなくていいやとも思ってしまう。

こうした事情と相まって、音楽批評は、はたして音楽に似ているのか似ていないのか、どっちだか分からなくなる現象をいくつも孕んでいく。

この文体こそ、演奏そのものを表す雰囲気を宿していないだろうか。批評対象に入れ込めば、その批評自体が批評対象のスタイルに似てしまうことがある。》(1951年フルトヴェングラー「第九」を評した宇野功芳の文章について)

音楽用語ビンビンの批評を味読するには、その幻想の世界に入り込むのが手っ取り早い。言葉だけで音楽を説明できるという暴挙に参加することである。千葉県浦安市でディズニーの世界に入ることができる人ならば、言葉だけで音楽を聴いたような気分になることができる。

まったく批評とは何者なのだろうか。

総じて言えば、筆者にはやはり「音楽と批評は別物である」という基本認識がある。なにしろ本の冒頭から、《音楽を文章で表現するってことは》《ウキウキして楽しい気分で読経を表現するようなもの、骨折したのに内科へ行くようなものなのだ》と述べている。

もう一つ、筆者が踏まえているらしきこと。それは、《言葉で表現されたものはすべてフィクションにすぎない》という認識だ。これら二つの認識が通底し、この本の批評観・批評行為を支えていく。

そうした筆者だから、音楽批評をポルノ小説風やオッペケペー調に書こうとして編集者に止められるというエピソードも真実味を持つ。しかしこのことを、批評は作品とは別物だから何でもアリでいいんだ、何でも書けるんだという楽観と捉えてしまうと、それは違う。そのすぐあとに、《批評対象との関係がそのような文体を要請するのなら、書き手はそれに従わなければならないし、論理的な流れによっても文体は変わらなければならない。そっちのほうが批評という理に適ってるでしょ》という卓越した洞察がある。これを無視してはならない。

批評の謎は、むしろ次のようなくだりに最も深く潜んでいる。

書いた本人は演奏家を論じているつもりでも、結局は自分自身を語ることになるのが、批評なのだ。

わたしたちには、厳密に完成された物語を正しく解釈するより、そのスキから生まれる一人ひとり固有の物語を作り出すことを重視する傾向があるのかもしれない。》(ただしこれは、その傾向とは違う許光俊の音楽批評を取り上げる前段として出てくる)

「批評の対象が己れであると他人であるとは一つの事であって二つのことではない。批評とは竟に己の夢を懐疑的に語ることではないのか!」(小林秀雄「様々なる意匠」からの引用 )これを受けて 《批評とは作品を語るものではなく、その作品を媒介として、自己を語る作品だということである》。

こうした考察は、《批評には、どんなに覆い隠そうと、必ず書き手の顔が見えるはず。何かを書くということは、自身を読み手にさらす行為なのだから。》から、《音楽について書かれたすべての文章は、批評として読むことができるのではないか、という妄想》へと至り、批評総論ともいうべき最終章に繋がっていく。

かつて私は、加藤典洋『言語表現法講義』を読んで、「文章を書くとは、なにかを〈表〉すというよりも、そのたくらみをすりぬけて、はからずもなにかが〈露わ〉になってしまう見せ物なのだ」と感じた。『クラシック批評こてんぱん』が語ってくれたこと、あるいは語らずして示してくれたことは、まさしくそのようなことなのである。

まず、消化不良にさせてしまうような批評が好きだ。自らの消化器官がマイってしまうようなものをゲーゲー戻しながらも食べましょう、という辛くも啓発的な批評。その苦しい吐瀉物こそが、対象物とのはっきりした距離感を感じさせ、実に生々しい。



●伝説誕生

長嶋茂雄がホームランを打ったのに一塁ベースを踏みそこねアウトになってしまったという、冗談みたいな話は有名だろう。しかしこれは、野球の女神がミスターに微笑んだがゆえのミステイクだ。そして100年に一度の伝説誕生。そう捉えるしかない。

『クラシック批評こてんぱん』の著者名が「鈴木淳史」でなく「鈴木敦史」と誤って印刷発行されたという前代未聞の珍事。これもまた、この著者なればこそ批評の天使がきっとウィンクしたのだ。これほど絶妙なポカはいくら願っても起こってくれない。著者名の誤りを正すために挟み込まれた紙片、その言い訳がまた傑作だ。



●図の説明

ところで、最初のページにあった「作品と批評の構造図」はどうなった?と疑問を持たれるむきもあろう。映画なら予告編でみたシーンが出てこなかったけど・・・というやつだ。図を使った説明の本義については、赤瀬川原平『科学と抒情』のあとがきなどを参照されたし。


Junky
2002.1.26

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著作=Junky@迷宮旅行社http://www.mayQ.net