クオリア 心脳問題
心を生みだす脳のシステム 「私」というミステリー
    茂木健一郎 著(NHKブックス)




●それは錬心術なのだという

「心を生みだす脳のシステム」。そんなものを解明しようなんて、いかに破天荒な計画であることか。いってみれば中国の三峡ダム建設に匹敵する大事業・難事業? いやそれすらオモチャ遊びに見えかねない。

ところが、もっと凄いことには、そんな馬鹿げたプロジェクトを、人類というやつは、見切り発車ながらも大マジに進めて行こうとしているらしいのだ。いや三峡ダムではなく、脳の解明の話。

では、この無茶計画に参入してくる脳科学・認知科学のゼネコン各社は、今どんな図面を引き、どんな道具を揃え、まずどの岩盤からどう砕こうとしているのか。その最新の選りすぐりをコンパクトに報告したのが、この一冊ということになろう。

無茶計画なんて言うと怒られるか。しかし著者の最終章の問いは、《いかに「錬心術」を超えられるか》というものだ。

私たちは今、一つ一つをとれば心など宿らないニューロンが1000億集まって脳というシステムを作ると、そこになぜか心が宿る、そのメカニズムを解明しようとしている。いわば、心がない状態から心を合成する、「錬心術」の原理を解明しようとしているのである。

この本で展開した全ての議論は、実は、「錬心術」レベルの議論である。これは、私だけの問題ではない。今、世界中で行われている心と脳をめぐる議論は全て、このレベルの議論なのである。誰も、物質である脳の振るまいから一体どうして心が生まれるのか、その第一原理を理解している人はいないからだ。心を生み出す化学というものがあるとすれば、私たちはいまだに、心の化学誕生の前夜にいるのである。

著者は、脳と心の探求はここ20〜30年で景色が一変するほど発展したと明言し大いに期待を向ける。そうではありながら、この無茶計画はまだまだ端緒についたばかりであるとも強調し、その完遂には極めて慎重なのだ。

心脳問題については、それがいかに大変な方法論上の困難に直面しているかを認識することが最初で最後の課題と言ってもいいのかもしれない。「最後の課題」というのは、結局心脳問題は解けないかもしれないからである。

では、突破口は存在しないのか。辛うじて持ち出されてくる手がかりの一つが「クオリア」だ。クオリアを親方にした突破集団は、どんなトンネルを掘っていくのか。



●クオリア

クオリアは、著者・茂木健一郎氏の代名詞といっていいだろう。

それはともかく、クオリアのごく簡単な定義。

薔薇を見た時に心の中に浮かぶ赤い色の感じのように、私たちの心の中に浮かぶ質感を、「クオリア」(qualia)と呼ぶ。

たとえばリンゴを見たときの「赤い感じ」そのもの。手に持ったときの「つるつるした感じ」そのもの。リンゴを齧ったときの「甘酸っぱい感じ」そのもの、耳に届く「シャリッという感じ」そのもの。「そういえばリンゴの丸齧りなんて久しぶりだなあ実に爽快という感じ」そのもの。でも歯ぐきが弱かったので「ウグググときた感じ」そのもの。「リンゴを齧ると歯ぐきから血が出ませんか?のCMが思い出される感じ」そのもの。

このクオリアは「感覚的クオリア」と「志向的クオリア」の二つに区別される。ここは重要ポイントだ。

感覚的クオリアとは、例えば「赤い色の質感」のクオリアであり、視覚で言えば、色、透明感、金属光沢など、外界の性質が鮮明で具体的な形で感じられる時の質感である。「薔薇」をそれと認識する前の、視野の中に広がる色やテクスチャ(きめ)などの質感が感覚的クオリアである。

一方、視野の中の「薔薇」を構成する感覚的クオリアを、「ああ、これは薔薇だ」と認識する時に心の中に立ち上がる質感が志向的クオリアである。
別の言い方をすれば、言語的・社会的文脈の下に置かれた質感ということになる。

リンゴの例でいえば「そういえば・・・久しぶり・・・」という感じや「・・・CMが思い出される」という感じは、志向的クオリアということになろう。

さらに、両者には次のような関係がある。

志向的クオリアは、「何かに向けられている」という性質を持っている。例えば、「ああ、これは薔薇だ」という志向的クオリアは、視野の中の「薔薇」を構成する感覚的クオリアに「向けられて」いる。

感覚的クオリアと志向的クオリアという二つの異なる表象の要素が存在することは、私たちが世界や自分自身を認識するプロセスを考える上で、きわめて重要な意味を持つ。
私たちが心の中で何か「外」のものを表象する時は、必ずこの二つのクオリアが対になってマッチングがとられている。



●私という謎

では、このクオリアとりわけ志向的クオリアというアプローチが、乱立する脳科学・認知科学ゼネコン業界において特に注目される点はどこか。

それは、クオリアが、どうやら「私」「自己意識」「主観」というミステリーと切り離せない点、そしてそのミステリーになんとか迫ろうとする手だてでもありうるという点だ。

脳のニューロン活動は、単なる物質的過程ではない。ニューロン活動は、私たちの心を生み出す。主観的体験を生み出す。そして、主観的体験は、さまざまなクオリアに満ちている。このクオリアは、数量化を拒絶するのである。

「赤のクオリア」が単独で存在するのではなく、「私が赤のクオリアを感じる」というように、必ず、「私」という視点と対になってクオリアは成立するのである。

クオリアが、脳の中のニューロン活動からどのようにして生まれるかを説明する理論は、必ず、「私が○○を感じる」という自己の成立の構造をも説明する理論でなくてはならないのである。

著者は「クオリア」というメーリングリストを主催している。そこでの議論を(たまに)読むかぎり、著者は脳と心の研究における自然科学的アプローチ・哲学的アプローチの両方に詳しく、日々更新されていく冒険的な知見や思索にも常に敏感に反応している。

そういう人が、つまるところ「私」という現象が不思議でしょうがない、という素人素朴ともいうべき疑問・興味からその探求を始めており、しかもその観点は決して捨てないように見える。さらには、その観点を欠いたアプローチには一線を引こうとする。

物理的、化学的にいくら脳を詳細に記述しても、例えば、私が現に感じている「赤」という色の生々しさ、それがニューロン活動によって引き起こされているということの驚異自体には、全くたどりつけない。

「心脳問題は解けないのではないか」とまで呟くのも、大ざっぱに言ってこの観点への拘りだろう。私としては、こういう拘りへの信頼というか親近感というか、そういうものがあるので、理解にはほど遠いながらも「クオリア」メーリングリストを、なかなか辞められない。



●「ミラーニューロン」「心の理論」

こうしたクオリアというアプローチを軸にしつつ、 この本では、 様々なトピックがいくつも挙げられ解説される。その筆頭は「ミラーニューロン」だ。

自分がある動作を行う時にも、他人がその動作を行うのを見る時にも、同じように活動するニューロン群があるという。これを「ミラーニューロン」と呼ぶ。この発見(1990年代初頭)は脳科学者をあっと驚かせた。どう驚いたのかというと、早い話が「脳って思ってたよりずっとずっと複雑!」ということだったらしい。つまり、脳みそを切り開いて「この部分はこの機能、こっちはこの役割」といった単純なやり方を積み重ねても、「心」や「私」はいつまでたっても姿を現わさないということが、決定的になったということだろう。『脳の中の幽霊』を著したラマチャンドランは、ミラーニューロンの発見は、DNA構造の発見にも等しいと評価しているという。

このような脳科学の劇的な変化を、「システム論的転回」(systematic turn)とでも言うことができよう。
機能局在的な見方で脳の地図を書いていったとしても、それだけでは、脳の中にある1000億のニューロンの関係性の本質には迫れない。ミラーニューロンの発見以降、もはや、感覚情報処理と運動情報処理を分離して理解しようとするアプローチは不十分であるという認識が広がっている。

後半では、「私」という謎に直結するものとして、「心の理論」が詳しく述べられている。

心の理論とは、簡単にいうと「他人の心を読みとる」能力の分析だ。この「他人」という認識こそが、「私」という認識の起源であるとも考えられるのだ。しかし、チンパンジーなどを使った実験からは、一定水準の「他人の心を読みとる」能力は、 今のところ人間にしかないという見方が有力らしい。

このように興奮せずにはいられないテーマが次々に出てくる。このほかには、脳と、環境、身体、感情それぞれとの相互作用、あるいはニューロンの物理的時間と心理的時間の相違などが示される。どれも脳や心の解明に不可欠の手がかりだ。それぞれに深い内容だが、サイエンスに少々うとくても抜群に分かりやすかった。それでいて勇み足のないよう冷静に述べられてもいると感じた。だから極端な誤解はたぶんしていないだろう。



●言葉の意味が立ち上がるとき---志向性と言語

これは第三章のタイトルだ。個人的には、クオリア、ミラーニューロン、心の理論の各章にも増して、この章が飛び抜けて面白かった。

だいたい、言葉ってどうしようもなく不思議ではないか!

もともと空気の振動に過ぎない音刺激が、「ブラジル」という音素として認識され、それが地球の反対側の国を指し示すという言語の働きは、驚くべきものである。言語は、さらには、「集合」のような数学的概念や、「一角獣」のように、実際には存在しないものさえ指し示すことができる。》

やはり私は(多くの人がそうだろう)、「心」や「私」というものはとんでもなく不思議だが、「言葉」というものがまた、それを上回るほどとんでもなく不思議だと感じる。この章では、全体を通してそのことをつくづく思い知るのだ。

言葉の意味の問題は、結局、脳の中のニューロン活動からいかにして私たちの心が生まれるかという、心脳問題と同型である。物質である脳のニューロンの活動から、いかにしてクオリアに満ちた私たちの心が生まれてくるかという心脳問題が難しいとすれば、言語の意味の問題は、少なくともそれと同じくらい難しいのである。

では、この問題をどう解明するか。その手がかりが、また、志向的クオリアなのである。

言葉の意味を支える神経機構は、脳の中のより一般的な志向性のネットワークの中に位置づけられる。このような視点からは、言葉の意味がいかにして成立するのかということについて、新しいイメージが浮かび上がってくる。
「猫」というシンボルを構成する視覚イメージは、私たちの心の中では、感覚的クオリアとして感じられている。一方、これらの「シンボル」の意味するもの、指し示すものは、シンボルを構成する感覚的クオリアによってではなく、むしろ、それに貼り付けられる志向性によってこそ担われている。どのようなシンボルにどのような志向性が貼り付けられるかは、文化的コンテキストによって変わってくる。

ここにある「志向性」とは、「志向的クオリア」を生み出す元になる働きのことだという。志向的クオリアは意識されたものであるが、「志向性」には、クオリアとして意識されない部分も含まれるということのようだ。

このあたりは、うまくまとめきれないが、ともあれ、この章の最後には、言語とミラーニューロンや心の理論との関わりが強く示唆される。

相手が何かを指し示す。その指し示しが、あたかも、自分自身の行為であるかのように感じられる。そのことによって、相手が何を指し示したのかを理解する。その理解に基づいて、今度は、自分が自分の行為によって何かを指し示す・・・・。
私たちが、会話において行っているのは、まさにこのようなプロセスである。ミラーニューロンの存在は、このように相手の指し示しているものが何であるのかを交互にやりとりしつつ理解する言語というコミュニケーションの手段がどのように発達してきたのか、この難問にいくつかのヒントを与えてくれるように思われる。
言葉の意味という、もっとも抽象的なものが、お互いの身振りという、もっとも具体的なものを起源として生まれてきたのかもしれない。



●う〜む、なかなか難しい

あれこれ説明してきた。しかし、一冊の本をうまく伝えるというのは、根本的に難しい。

本の真価というものは、各章に書かれていることを別個に説明していくことではないのだ。やはり、本に局在するいろいろな機能(内容)を、なんらかの志向性によって統合していく高次のネットワークとして、「本読み」という作用があるのだ。

なおさら分からないという方は、ぜひ一読を。



●補足

なお、先日は『ロボットの心 7つの哲学物語』(柴田正良著・講談社現代新書)という本を、私としてはこれまた最大級に力を入れて紹介した

心の謎という山があるとすれば、『ロボットの心』はいわば「人工知能ルート」であり、こちら『心を生みだす脳のシステム』は、「脳・人間ルート」の登山ということになるのだろう。

たとえば『ロボットの心』でいちばん刺激的だった「コネクショニズム」の話は、『心を生みだす脳のシステム』では触れられない。脳というシステムは、ニューロンがコネクショニズム的に作用することによって立ち上がる----そういうことは、ありそうだが、脳そのものを調べて確かめたわけではない。脳自体を記述する技術や方法は、まだまったく薮ばかりの道を延々歩いている段階なのだと思う。

あるいは、両者の登山が、同じ「心」という名前の、ぜんぜん別の山を目指していたということもありうるだろう。もしそうだった場合は、ロボットの心、人間の心、両方がそろっていっそう深い薮に入っていくということなのかもしれないが。

また、クオリアについて『心を生みだす脳のシステム』の説明がスタンダードだとした場合、『ロボットの心』では、ロボットのクオリアということを考えつつ「主観から客観へ」という大胆な一歩を踏み出しているようにも思えた。これはなんだかとても大変なことなのではないか。


Junky
2002.2.5

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フォルダ「意識・脳・心」 著作=Junky@迷宮旅行社http://www.mayQ.net