ソウルでわしも考えた。

■ソウルがニッポンのパラレルワールドであることは、1988年オリンピックの年に初めて訪れた時の最大の印象だった。先日ソウルを再び歩き、それを再認識した。
滞在は2泊3日。諸事情あって自由時間ほとんどなし。それでもソウルの繁華街ションノ(鐘路)テハンノ(大学路)を夕刻から数時間歩き、ホテルで韓国のテレビを寝る前に眺め、市内をバスや地下鉄であちこち移動しながら思ったことである。
■パラレルとは?
ソウルで大量に消費されていそうな商品項目(アイテム)がニッポンとほとんど変わらないように思える一方で、それぞれの商品名(ブランド)がニッポンとはことごとく違うということである。
たとえばソウルには乗用車という工業製品がニッポンと同じように存在し、同じように消費され、同じようなシンボルになっているらしいのだが、実際に走っているのは、カローラ2ではなく、インテグラでもなく、ヒュンダイ(現代)社をはじめとする韓国の会社が生産した車ばかりだった。
テレビ番組ももちろん存在した。 KBSという国営放送局はチャンネルがふたつあり、のど自慢みたいな番組や西洋人が朝鮮語でしゃべるバラエティー番組まであったが、出てくるのは宮田輝(古い!)ではなくデイブスペクターでもない。そのテレビはリモコンで動くがパナソニックでもソニーでもない。電化製品や食品から受験関連、コンピュータにいたるまで洗練されたコマーシャルががんがん流れたが、どれも知らない韓国商品ばかりだった。
歌謡曲の流れるコンビニには客がカップ麺にお湯を注いだり雑誌を立ち読みしたりしていたが、小室哲也ではなく、ローソンではなく(セブンイレブンやサークルKはあった!)、ラ王ではなく、ビッグコミックスピリッツ(これは洋書専門店にノンノなんかといっしょに置いてあった!)でもない。
とにかく「ニッポンとアイテム同一、ブランド別個」がすみずみまでいきわたっている。
ソウルの近代文明や消費生活というものは、ニッポンの都市におけるそれと実にパラレルなのである。
■そもそも、都市の構造や生活の構造がソウルとニッポンはパラレルなのではないか。
表通りの新しいビルならば、それがどういう店なのかニッポンの類推でだいたい想像がついた。洋服のブティック、レストランしかり。ファンシーショップ、ファーストフードしかり。間違えて入ることはまずない。たとえばイスラム圏の商店街を歩いたとき何の店なのか見当もつかないことがよくあったのとは、えらい違いだ。
地下鉄がまた似ていた。車内の造りが同じなら、吊り広告があって雑誌なんかの宣伝をしているのも同じ。ドアには「指を挟まないように」とかいう丸いシールが貼ってあり、その下半分が広告になっているのもニッポンの地下鉄といっしょだ。並んだ人の顔つきはまるきりいっしょではないが、服装や表情はきょうびのニッポン人と変わりないように見えた。仮に東京や大阪の地下鉄と入れ替わってたとしても、気づかないのではなかろうか。
街にはコートと眼鏡とネクタイのサラリーマンが忙しそうだったし、茶髪の若者がたむろしていた。ゲームセンターもあれば、寄った女性を抱えるようにして歩く男性もいた。
しかしである。ニッポンの都市と似た構造をしたソウルを、僕はガイドブックなしではどこへもいけないのだ。街はどこまでいってもハングルのみしかないからである。あらゆる看板がハングル。あらゆる人々がハングル。ニッポン語では右も左もわからない。地下鉄の駅名がハングル。放送もハングル。ある公園でギター青年が一人歌いしゃべり、ぐるっと囲んだ聴衆が笑ったり感動したりしていたが、それも全てハングルであった。マクドナルドの「いらっしゃいませ、お持ち帰りですか(かどうかわからなかったが)」もハングルだ。ニッポン語は全然ない。まあ、当たり前すぎる話だけれど。
こんなにも大阪や東京に似た都市に、こんなにもニッポン語が消滅し、代わりにハングルばかりがどこまでも続いているというのは、実に壮観である。これぞパラレルワールド。そう呼ぶにふさわしい光景だ。
■一方、品目そのものがニッポンにはちょっと見あたらない、あるいは、その物の周囲との関係における構造的な位置づけがニッポンとは違うものがないわけではない。
その代表がキムチだ。実においしかったが、まそれはそれとして、キムチとはニッポン食で言えば何なのか。漬け物や梅干しのような添え物品目ではないと思うし、主食副食吸物といったニッポン食の構造には収まらない熱い力が、キムチにはある。
また、実は繁華街も一歩裏へ入るとわけの分からぬ怪しい雰囲気がにわかに醸し出され、そこはニッポンの都市のパラレルではなく、まさに異界、迷宮の相を呈していた。
つまり、近代文明と大量消費、高度消費社会がおおよそニッポンのパラレルになっているのに比較して、伝統的といわれるようなものはパラレルの視点では分析できないように思えるのである。
これはなかなか面白い。韓国の車や韓国のテレビはニッポンの類推でかなり語れる。しかし、韓国のキムチはニッポンからの類推では語れないのだ。
■さてこれらの論から僕らが引き出せるものは何だろう。
■日本列島の中では、どこの都市へ行っても売ってる品目が同じなら品名も同じだ。カローラ2はコマーシャル、現物ともに東京でも大阪でも福井でも見られる。ローソンではラ王とかボンカレーとか同じ商品名が並ぶ。ハングルの商品を買えないごとく、カバヤなんていうお菓子も買えないのは、名古屋のローソンも福井のローソンも同じであろう。同じような学力の学生が同じようなバイト料(650円)で働くのはどこのローソンのカウンターでも同じであるが、それだけではなく、その学生が聴くCDや見るテレビ番組も同じでありうるのであり、多分実際全く同じなのである。もちろん、使う言葉は同じ日本語だ。
東京とソウルがパラレルであるのに比べて、東京と大阪は、東京と福井とはパラレルワールドではない。同類にすぎない。
だから便利なのだとはいえるが、だからつまらないのだともいえる。
全然違う歌謡曲が全然違うメーカーのCDプレーヤーで流れるニッポンのどこかの都市を夢想する僕である。
■さらに、キムチのことを忘れてはいけない。
つまり、ニッポンの都市が東京のパラレルワールドであるばかりでなく完全な迷宮都市になりうる可能性である。それは東京がソウルの、ソウルが東京の単なるパラレルワールドから脱却する可能性と同じである。
高度に発達して世界に張り巡らされた資本主義、それこそインターネットにまで行き着いた情報流通、あるいは西洋で主にはぐくまれた科学技術とかが、たぶん、東京とソウルをパラレルワールドにしてしまった犯人だと思うとき、それを免れることの難しさを思う。
しかしである。ホテルロッテワールドでは黙っていてもスクランブルエッグやソーセージの朝飯が食べられる一方で、 チョンノの裏町の飲み屋では身ぶり手ぶりで名前も分からぬ辛い鍋物と初めて見た焼酎がようやく出てきたのである。それを思えば、少し期待も勇気もわくではないか。
日本列島のどこかで迷宮都市に出会いたい。

Junky
1996.2.21

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