6月


19日

旅に出たら何か大きな決着が付くというわけではないだろう。でも旅に出たいと思いながら出ないでいたら、いつまでも一歩を踏み出せないのだ。
旅はどこかにたどり着くために出るのではない。とにかく動き始めるために始めるのだ。

じゃ、遊んでよし。


20日

「アメリカの友人」
映画100年をヴィム・ヴェンダース抜きで語る文脈が、そりゃまあ時と場合によっては存在していいかもしれません。しかし、人生の意味そして無意味を考える上でヴィム・ヴェンダースを欠くことは少なくとも僕には不可能です。
ならば「パリ、テキサス」「ベルリン天使の詩」といった彼の代表作をここに出すのも手でしょう。でも実はそれを超えてものすごく切なかったのが「アメリカの友人」なのです。だからあえて一票。時代の証人は正直にいきます。
生きていく気力、勇気などというものは「人生なんてそもそも悲しく空しくうまくいくことなど滅多にありえない、そのことをあなたも感じているんですね」と思えた時にしかわいてきません。そういう瞬間を味わえた最大のものが僕にとってはこの映画なのです。なにかを確かめるかのように自分の顔にポラロイドカメラを向けていたデニス・ホッパー。車が乗り捨てられた海岸沿いのラスト。そんな場面が特に印象に残っています。

じゃ、遊んでよし。


21日

「あなたには水子の霊がついております」
こんなことマジで言う人が重宝がられ、嘘を承知で事業のために言う人はケイサツに捕まる。
しかしだまされた人、つまりニセの祈祷をしてもらった人は、そもそも水子の霊なんてものがホントに存在すると思ってんでしょうか。で、今度は水子の霊とマジに対決してくれる立派な祈祷師のところへでも行くんでしょうか。
もうひとつ妙だと思うのは、こういうニセ祈祷師がでるとすぐ「宗教にあるまじき・・・」とかなんとか非難するワイドショー方面の方たち。その方面の方たちに限って、水子の霊を信じたかどうかは知らないが少なくともハルマゲドンの存在は堅く堅く信じたカナリア真理教(仮名)に対しても「あんな団体は宗教じゃない、即刻解散だ!」とか言いがちなこと。じゃ、どんなのが宗教だってんでしょうか。水子もハルマゲドンも天国も地獄もホントはないんだけどホントはあるわけだからそういうことはまあそれぐらいにしておいてとにかく大人になりなさい! そういうのが宗教なんでしょうかね。
僕は宗教の本質は救済だと思う一方で、宗教に絶対欠かせない要素が迷信の存在であるとも思う。だから僕はどんな宗教よりも個人の思考のほうが尊いと思う。でも逆に「天国も地獄も水子の霊もあるわけないでしょ、金儲けだけしましょうよ」なんていう宗教団体があったらそれも確かにいやですね。
宗教とは何ぞや。

じゃ、遊んでよし。


22日

サロンへどうぞ来て下さい
サロン三角テーブルは予定通り土曜に新栄商店街などの新しい店を見て歩き、西武とパルの間で好き勝手なことを言い、元町アーケードに面したオープンスペース風の喫茶店で真面目にピザを食べ、最後は路面電車のシートに並んで座ってしみじみする、という、けっこう忙しいロケを済ませました。
木曜日14日午後8時からは、スタジオでそのビデオを見ながら、また考えます。ロケに来た人がけっこう多くなんか嬉しかったです。しかしその分スタジオでしゃべるのも同じになりそうで。どうかみなさん今回は特に遊びに来て下さい。
テレビを道具にしてしまうことはもちろんですが、テレビをテレビでテレビルこと。テレビによるテレビのためのテレビのテレビ。テレビが結局テレビ的でありテレビ的でしかありえないということをテレビ的に対象化する。
(テレビがなんかへんな単語に見えてきた。)
つまりこういうことなんじゃないかなって(何がという主語が抜けているところがお茶目ですが)最近思うんですよ。 ま、そんなこと思ったりするから「木で鼻をくくる」なんて批判されるのですが。でも、そういうところに志があるのだから仕方ない。
なんの話か僕もよくわからないですが、「テレビ」を「演劇」に置き換えたり、「テレビ」を「パソコン」に置き換えたりして考えてみよう。

きょうも蒸し暑いね!


23日

かつて僕の住まいは六畳二つが仕切りもなしに続いていた。
ところが、ある日、マックがうちに登場して以来、
一方に「えへん、こっちはインテリジェントルームである」という意識が生まれた。
そしたらもう一方が、いつからともなく「物置き」という目で眺められるようになった。
もともと、単なる汚い一つの住まいでしかなかったのにね。(民族論)

じゃ、遊んでよし。


24日

ウンドーする側はしばしば言う。ウンドーをヒハンする人は、ヒハンするだけでなんにもウンドーしない、と。
ヒハンする側もこう思っている。ウンドーする人は、ウンドーするだけで、ちっともヒハンを聞かない、と。
行動と思考はこうしていつまでたっても混じり合わず、結果としてウンドーは進歩しない。ヒハンは空回りする。
どうしたもんでしょ。
ある問題では僕もウンドーする側に立つ。そうすると「そんなやり方では伝わらんぞ」「もっとこっちに焦点を絞って主張しないと駄目や」、そういったヒハンがすぐ聞こえてくる。
「おめえらホントにウンドーの趣旨に共感してるのか。だったらとりあえず意見より手足を貸してくれ。それともなにかい、生じっかこの問題に知識があるということの確認のためだけにヒハンをするのかい。だったら黙って無視してくれ。邪魔だ邪魔だ。あるいは邪魔をすると言う自覚だけはもって邪魔してくれ。」
などと思うことがある。
ある問題では僕もヒハンする側に立つ。そうすると「机上の空論か」「考えてばかりいたってちっとも力にならん」「現実をしりなさい」とくる。結局ウンドーは本質からずれカッコもワルイ。
「ちっとも人の心をつかまないばかりか、丁寧な議論も無視してばっか。こんなに行動してわたしは偉いなあ、そう感じるためだけのウンドーなら、やめてしまえ。無駄であるばかりか、害悪や。だいたい、俺たちはそんなにバカじゃない。ここ一番大事なところでは、あんたらに指図されんでも動くわい」
などと思うことがある。

じゃ、遊んでよし。


25日

岸田秀いわく「すべては幻想である」。10年以上の昔この文句に魅了された覚えが 僕にはあります。
たとえば人間が性の相手を「甲さんより乙さんの方がいいわ」などと選択する時、そ れは生物的本能に依存しての選択ではない。なにしろ人間は本能が壊れてしまっている のだ。しかも、本能は徐々に消えたのですらない。人間には初めから本能がなかったの さ。さあ、そこで。魚やけものは本能の命令する通りに餌をあさり交尾するのであんま り悩まないが、その本能が壊れた人間は、何をするにもぴたっとくるやりかたが分から ない。しかたないので、四苦八苦して風習や制度や道徳や、つまるところの文化一般を わざわざ作って、それを壊れた本能に代用させる。しかし文化は本能と違って勝手にで っち上げた幻想にすぎないから、いつかうまくいかなくなるのが定め。さあ困ったとい うわけで、人間はどんどん文化を更新させていくが、やはりそれはすべて、犬がおいし い臭いをかぎわけるのとは違ってどこかに無理があり、ますます人間は混乱する。
以上、「ものぐさ精神分析」をはじめ岸田さんの本を3、4冊読んだ僕が、なるほど と思ったエッセンスを自分の言葉で述べました。(だから、岸田さんの趣旨とずれてい た場合でも、僕の考えとしては正確です。)
「ものぐさ精神分析」はたぶん岸田さんの最初の著作。そのあとは「二番煎じ・もの ぐさ精神分析」「出がらし・ものぐさ精神分析」と続き、「すべては幻想である、これ を繰り返し語っただけですよ」というふうに本人も述べていたはずなので、岸田さんの 唯幻論を知るにはどれか一冊でも読めばいいと思います。しかも、どれも面白く読みや すかった記憶があります。ここが出発点になって僕は丸山圭三郎氏の考え、そしてソシ ュールという人の存在を知るにいたりました。
さあ、そこで。岸田さんいうようにすべては幻想かどうかをひとつ考えませんか。た とえば、最初にあるように「僕たちは何を根拠に性の相手を選ぶのか?」という問いで はどうでしょう。僕は、岸田さんがいうように、本能とは全然別のところで欲情したり しなかったりしてるのだと考えます。犬が感じる性の気持ちよさと人間が感じるそれと は根本的に違うと言い換えてもいいです。

じゃ、遊んでよし。


26日

お金では買えないものがあると人は言う。それはそうだ。命は売ってないし、愛を並べた店もない。しかしそれとは別に哀しい事実がある。それは、この世に売っているものはたいていの場合お金でしか買えないということ。
世の中はまず金である。少し考えればわかることだ。現実の暮らしで身に染みてもいる。金より大事なもの?今僕は即答できない。哀しい。だからこそ、金より大事なものを探し見つけることが生きていくことの意味となる。

じゃ、遊んでよし。


27日

フランス政権への抗議行動というのは、まさに世論の尻馬に乗ることではあるけれども、少なくともそれは、核兵器を正当化して抗議行動を青臭いと嘲笑するじじい連中の尻馬に乗るよりは、生きてる甲斐もはるかに感じられようというもの。
ひとつ、このネットに関わる僕たちでなんか考えましょうか。ちょっと気の利いた抗議行動とやらを。

結局なにもしなかったなあ・・・


28日

筑摩書房から「頓知(とんち)」という月刊誌が創刊されたので、さっそく買ったら、表紙になんと「天下無敵の呑気雑誌」とあるではないか。
「のんき」という形容は数年前から僕の周囲のある狭い界隈でにわかに脚光を浴び、僕などは自らのアイデンティティにすら位置づけていた言葉だったのです。
さてこの頓知、執筆陣が養老孟司、大槻ケンジ、鶴見俊輔、小林よしのり、橋本治、筒井康隆、糸井重里、森毅、南伸坊、赤瀬川原平などなどと、僕の好みにぴったりです。「頓知」という日本語の雑誌名も考えつきそうで考えつかないし、題字が縦書きなのもかっこいいと思いました。
ま、そういうわけでこの雑誌が「呑気」という言葉に注目したことが、うれしいような、ちょっとくやしいような、そんな気持ちであります。

じゃ、遊んでよし。


29日

**さんが心配する肖像権というものについて。
建物の外観は誰のものかという問いを立ててみます。
公の道路に面した建物は、そこに生活する人や行き交う人がいやでも目にします。 つまり環境に影響を与えているのです。だから、建物の外観に対しては周囲にいる人 がむしろ文句のひとつも言っていいのであって、所有者だけが外観を好き勝手にでき るというものではないと思います。
こういう角度で考えると、景観に常に割り込んでくる建物をそこに居合わせた人が 写真に撮る行為を、その建物の所有者であるというだけの理由で必ずしも禁じていい とは思えません。
肖像権とは写真や絵にされたりそれを流用されたりしない権利を指すのだろうと想 像します。ただ、それが、著名な建物や著名な人物にさほど力もない個人がカメラを 向けることの是非ばかりがうるさく言われ、たとえば通勤客を遠くからそっと撮影し たり事故の車を世のためだとばかりに撮影したりするマスコミの行為があまりとがめ られないのはどうしてでしょう。
肖像権を金儲けなどのために主張することよりも、小さな個人の肖像権を守ること を意識していたいです。
**さんの質問の答えではありませんが、私たちが「これ写真に撮っていいかな」 と心配する場合に、忘れてしまいがちな点を二つ述べました。

☆たまには感想文を書いてみよう


30日

街では今、亜牟呂浪江(変換めんどくさい)を真似た服装が流行ってるらしい。 全然知らなかった。
思えば、これまででいちばん街へ出かけない一年を過ごしたような気がする。ひたすらコンピュータの前に座ってじわりじわり腰を痛めながら。
ストリートとかいう場所というか、概念というか、そういうものがあって、そこはファッションとか音楽が生まれたりするところのようで、そこから遠ざかるのは、あまり気持ちよくない気がしてきた。
なぜなら、亜牟呂浪江ファッションなど見たこともないのにテレビでそれを知ったということが情けないのだ。テレビより先んじたいというマーケティング人種なのではなくて、ホントは少しくらい気がついていても良さそうなはずなのに全く知らなかったことについて、テレビでポンと知ってしまったこと自体に、あいまいだが強い危機感を覚えるということ。
いけないと思う。毎朝、嫌いだ嫌いだといいながらワイドショーを眺め、ストリートについてはなにも知らないのに、八代亜紀が「子供は作りません」と言ったことなんかについては、やけに詳しくなってしまう自分がいやだ。

じゃ、遊んでよし。













7月の宿題へ