鎌田哲哉 進行中の批評 早稲田文学


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批評コンビニ幕の内(1)
鎌田哲哉 進行中の批評1


Googleで「鎌田哲也」を検索してみると、わずかしかヒットしない。。秋田市役所の「鎌田哲也」さんが大森山動物園勤務になったとか、そんなのばかり。おかしいな、これほど知られていないとは。・・・よく考えてみたら「鎌田哲哉」だった。あらためてサーチするとけっこう出てくる。おなじみの高偏差値なサイトが目立つ。

鎌田哲哉が丸山真男について書いた評論がこの世に存在し、それが1998年の群像新人文学賞(評論部門)を受けた。しかし、鎌田哲哉はまだ著書が刊行されていないこともあり、その文章に直接触れた人は少ないだろう。今年になって『早稲田文学』に連載を始めたものの、この『早稲田文学』という雑誌がまた、そこらへんの書店やそこらへんの図書館にはめったに置いてない。いや「そこらへん」というなら、鎌田哲哉こそそこらへんの物書きとは別格と目されているようなのに、どうしたことか。

・・・しかしこの「そこらへん」というのは嫌な言葉だ。たとえば「私のカレはそこらへんにいる男とは違うのよ」なんて聞こえてきたりすると、気分が悪くなる。それなのに使ってしまった。もう止めよう。終り。

ともあれ、21世紀の普通人類は「丸山真男の文章」など長いこと見かけていないのが実状だろうし、「丸山真男について書いた鎌田哲哉の文章」すらなかなか入手できない。にもかかわらず、おもしろいのは、「丸山真男について書いた鎌田哲哉について誰かが書いた文章」ならばネット上にけっこう存在するという事実だ。これはなかなか珍奇な事態ではなかろうか。キリストはもういなくて弟子が書いた本だけでキリスト教が作られていくみたいな。

『日本文学盛衰史』もネット上では決して読めないが、『日本文学盛衰史』の感想ならば湯水のごとく垂れ流されている。浅田彰も『逃走論』とか『構造と力』とカは忘却されつつ、こういう無料デジタル論文(本人の著作だが)ばかりが、今後ずるずるコピコピと蔓延していくことになろう。*追加=こういうサイトもあった

ちゃんと書籍や雑誌を購読しろよ。しかし。今どきブロードバンドのユーザーとあれば、サーチエンジンで表示された版図だけが実世界なのだ。どうしようもない。こうして、原典が静かに埋もれていくそばから、原典に「ついて」の文章だけが世界に流通していく。そして鎌田哲哉という十年に一人(かどうか知らないけど)というような批評家の、稼ぎも、もしかしたら同時に乏しくなっていくのか。

それと関係あるのかないのか、今月号の『早稲田文学』で鎌田哲哉は、「経済的自立は精神的自立の必要条件である」と傍点を振って述べつつ、だからこそ批評で食っていこうなどとは考えない、という趣旨の宣言をする。しかし私は、そのことについても、先日大きな書店に出向いた折りに、片隅の文学雑誌コーナーの、そのまた片隅にやっとあった『早稲田文学』を開くより先に、こちらのサイトですでに知っていた。

私は、鎌田哲哉が話すのを見たことがある。1999年『批評空間』のシンポジウムだ。紀伊国屋ホール。輝かしくデビューしたばかりの東浩紀が超舌技巧の喋りを披露する隣で、むっとした表情を隠さず、なんだか論文そのもののような口調(言文じゃなく文言一致体)で、自説を展開していた人。

柄谷行人が群像新人賞の審査員をしていた90年代、柄谷系と呼んでいい批評家がたくさんデビューしたと言われている。いわばその最終兵器が鎌田哲哉ということになろうか。その柄谷系評論はどれも、文芸誌などで読む・・・のではなくパッと見るだけの印象としては、あたかも「バターやジャムが塗ってなくて焼いてさえいない食パン」だ。味も素っ気もない。したがって、暇だから軽く読んでみるか!という気がなかなか起きない。それでも、鎌田哲哉の場合は、話をきいたことがある、ただそれだけの理由で親しみがわくのだから、不思議なものだ。

しかしだからどうだというのか。インドに一度だけそれも十日間ほど都市を観光しただけなのに、インドと聞くとつい一言いいたくなる。それどころか意見を求められ返答する資格と責任が私にはある、などと勘違いする。ヒンズー教のこともカースト制のことも全く知らないくせに。それと同じような調子で、鎌田哲哉について一回見たことがあるというだけで、私が今あれこれ書いてしまうというのは・・・・。鎌田哲哉=北海道のタラバガニだとすれば、弁当に入れるのはカニではなくカニかまぼこだということになろう。カニかまでなく本物のカニを、どこかで食べるべし。

余計な話ばかりしていてもしょうがないので、件の『早稲田文学』を少しだけ読んでみた。いちおう本物のカニ。同誌は2001年から批評にあえて重点を置いて再スタートしたらしい。その第一段の一月号は、柄谷行人のインタビューが冒頭に掲げられている。同時に連載が始まったのが、鎌田哲哉の「進行中の批評」だ。文芸誌にふつう主流を占めるはずの小説がほとんで載っていないというのは、なかなか異様な眺めだ。小説に傾き過ぎの文芸誌が、むしろ偏っていたという見方もあるようだが。

「進行中の批評」第一回は、NAMのサイトに掲載された原理的な文章を真正面から取り上げている。それを丹念に読んだ鎌田哲哉は、文中にあった、たいていは見逃されそうな、というか見逃してやってもいいんじゃない?というほどの、一見ささいな、しかし鎌田の論を聞いてみれば極めて本質的な、ある錯誤に対し、徹底した批判を加える。恩師ともいうべき柄谷行人の言動についてもまったく容赦しない。もちろんこれは、近ごろの日本の言論状況においてNAMにこそ唯一の期待を向けているがゆえの厳しさであると思われる。

こうして鎌田哲哉の文章を読むと、「なにかを正確に書く」ということの命賭けぶりに圧倒されてしまう。かといって、読む人を放っておいて高踏的に華麗に論を展開していくというようなところは、意外にない。むしろ丁寧で親切かもしれない。それがくどいということは言えるかもしれないが。批評の対象にしたNAMの文章についても、私はこれを真面目に読んだし妥協せず意見を述べるからもし間違っていたら言ってくれ、とそんなことをいちいち前置きしながら論を進める。愚直。しかし、この態度こそ批評が欠いてはいけないものなのではないか。敬遠されがちな難しい言葉の連続であっても、でもこれは間違いなくある一人の生きている人間がいろいろ迷いつつ怒りつつ一行一行筆を進めたんだな、というリアルさに触れられる。

実は最近(というかずっとかもしれない)、小説を読むのが苦痛に感じることがある。小説に退屈するのは、書き手でも登場人物でもどっちでいいがともかく誰か一個人の切実さというものが、描写や会話の白々しさの中でだんだん希薄になって消えてしまった時かもしれない。いったいこれ誰が誰に向けて書いているのか、それが感じられなくなってしまうというようなこと。ところが、あろうことか、機械的で無味乾燥としか予期していなかった柄谷系批評文において、そのような個人的切実さに触れてしまうとは!

今号(9月号)の連載も読んだ。先ほど書いたとおり、批評や小説では食えない、文学誌だって採算なんか取れない、だからこそ、もの書きとは別の経済的自立がちゃんとものを書くための絶対条件なのだ、というシビアな話。こんど「重力」という雑誌を鎌田哲哉が中心になって創刊するらしく、それの心積もりと金積もりを吐露していく。気取りも遠慮もない生真面目さ激昂ぶりがむしろエンターテインメントしていると言おう。少し引用。

<批評で「飯が食える」ことが、いついかなる場合でも「批評」の社会性の条件だとは思わない。もちろん認識および文体上の強度の差異はある。大体私は極端に遅筆だ。以前ある三文小説の文庫解説を書いていて、おそれく自分は作者が本文にかけた以上の時間を費やしている、と心から情けなくなった>

<ある経済的自立が自力で勝ち取られたものでない場合、我々は決して自己欺瞞に陥るべきではない>
<最小限彼らは「純文学を守れ」等の正義面をせず、正直に自分の生活のためだ、と言うべきだ。雑誌の目的が存続のための存続、正確にはリストラを恐れる編集者や書き手のための存続で、それが何らかの理念と全く無関係であるのを認めるべきだ>

<「経済的自立が精神的自立の必要条件である」のは確かだが、それは結局必要条件であって十分条件とは違う。水路の整備は、それ自体では湧出する水量の増大を意味しない。真の勝負は内容なのだ。たとえば、現存する特定の批評家を選んで、その最近の言動に手抜きをせず論評を加えるのがこの連載の大まかな目標である。その作業は終っていない(著作を全部読んで、認識の盲点とその前提を明白にする作業は面倒だ。今回は暇がなかった)。特に、仕事をしないかその水準がろくでもない割に、大衆的な影響力を何故か行使している人々を叩く試みに私は全く手をつけていない。だがはっきり書けば、そのうちの誰にも私は自業自得の先験的な枯渇しか感じない>

もうこの辺にしておこう。この全身批評家に対して、こんな半端な引用では著しく礼儀を欠く。それと、私が綴ってきたこの文章、ここまで我慢して読む人はいるのかという疑問。そういう人がいたとしても、『早稲田文学』の連載をすでに読んだか、少なくともこれから読もうとしている場合だろう。だったら、私は新しい情報を何も加えられていない。

ところで、その『早稲田文学』をきちんと読む人って、いったい何人くらいいるのだろう。そうそう、『早稲田文学』はウェブサイトがあって、編集室日記にこれまた正直な心情を述べているのが気持ちいい。同誌の原稿料についてもあれこれ思案し、それに制作費、人件費を足すから部数はこれだけ必要で、となると価格はこれくらいが妥当、といった具合。小さな商店主の親父の苦労を彷彿させる。そして、ふと頭をよぎる。『早稲田文学』を購読する人の数は、この編集室日記を読む人の数に間違いなく負けてしまうのだろうと。

鎌田哲哉と『早稲田文学』をめぐる、散漫で実のない随想になってしまった。でも最後に一つだけ有意義な発見。それは「興味をひかれたものはとにかく読んでみるべし」。なぜなら、興味を持ってしまったからには、読んでいなくても自分の頭であれこれ考えるのを避けられないからだ。だったら早いとこ現物をちゃんと読んで、そのうえであれこれ考えるほうがはるかに効率が良い。・・・う〜ん、それも当たり前か。

幕の内といいつつ、おかず一品しか作れなかった。続きは後日。

ちょっと追加


Junky
2001.8.29

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