早稲田文学


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批評コンビニ幕の内(3)
大杉重男「知の不良債権----批評閉塞の現状」


総じて「批評なんて難解で複雑でどうにも食えないね」と私は感じている。それは、「そもそも批評とは何をすることなのか」「よく名前を聞くあの人たちは、何をそんなに言い争っているのか」の基礎がなっていないせいだろう。それを克服すべく、たまには文芸雑誌など開いてみる。しかし批評自体は、そういう初心者向けの平易な説明などなかなかしてくれない。そんな中で、『早稲田文学』2001年1月号で読んだ大杉重男「知の不良債権----批評閉塞の現状」は、もともと講演用の草稿だったせいもあろうが、批評全般の大ざっぱながら分かりやすい見取り図となっていた。まさにこれ自体が幕の内弁当、ありがたく頂戴すべし。

さて大杉重男は、いきなり「どうせ俺なんか話が下手だよ。批評家失格さ」というボヤキから始める。

<なぜなら批評家とは現代において何より現前的な存在であり、シンポジウムや対談のような他者との対話がなされる一回的な現場において知性の劇を演じる役者であることを期待されているように見えるからです。この意味では私はシンポジウムなどで観客を喜ばせるパフォーマンスはできそうにない。いずれにしろ私は[中年男C][青年男D]のような売れる批評家ではないので、幸いそのような機会に呼ばれることもありません。>

まあそう言うなって、人生誰だってうまくいかないこともあるんだから、と肩のひとつも叩いてやりたくなる。批評が友達を作るやり方としては、なかなか効果的なのではあるまいか。

そのうえで、批評の定義および80年代から現在にいたる批評の推移と現状を、面白いことに、貨幣経済そして今やすっかりおなじみの日本経済の窮状になぞらえて概説していく。

<批評の対象となる作品、小説なり映画なり演劇なりアニメなり音楽なりといったものは、売れなければならない商品であるわけですが、批評そのものは商品に値段をつけるものであるにしろ、むしろ値をつけるからこそそれ自体は商品であってはならない部分がある。実際最も一般的に言って、批評とは世界において何が価値があり何が価値がないのかを判定するべき公平無私の趣味判断の基準を提示することである・・・・・・>

<私がまず確認したいのは、現在この批評の信用、よってその批評の信用によって運営されて来た価値の秩序が慢性的危機状態にあるという事実です。>

<「知の不良債権----批評閉塞の現状」というのが、私の選んだ題目です。不良債権とは言うまでもなく、回収不可能の債券ということです。この比喩はあまり厳密なものではありませんが、現在批評は一種の恐慌状態にあって、身動きのとれない閉塞状況にあるように見えるということを言いたいのです。>

<マルクスによれば、景気が良い時、商品がつつがなく売れている時は貨幣は単なる透明な価値の尺度であり、商品そのものの中に価値が内在しているように見える。ブルジョアジーは商品そのものが貨幣だと考える。ところが恐慌になると、逆にただ貨幣だけが商品であるという転倒が起こり、他の商品は価値を失い、人々は貨幣を求め、貨幣飢饉が起こる。このマルクスの恐慌論は、批評についても応用できるように見えます。先に批評は商品ではなく、商品に値段をつけるものだと言いましたが、それは批評とは商品よりは貨幣に類似するものであるということです。実際通常の流通秩序においては批評は貨幣と同じく透明な価値尺度に過ぎないわけで、批評なしでも作品それ自体の価値で作品は流通しているように見える。作品こそ批評であるというわけです。しかし貨幣恐慌というものがあるのだとすれば、それは作品が内在的価値を失い、批評そのものが作品であるという転倒が起こり、批評飢饉が起こる状態であるわけです。>

「作品=商品」、「批評=貨幣」、「作品が価値を失って批評そのものを求める傾向=恐慌状態」、このように喩えたうえで、現在の問題を「知の不良債権」とみなす。そして、それを処理するためにどのような解決策を講じているのか、という形で、4人の有名な批評家を論じていく。ここからそれをひたすら引用していこう。

4人の批評家はもちろん実名で出てくる。が、このページではあえて[初老男A][老人男B][中年男C][青年男D]と呼ぶことにした。実名が明白であれば、誰かがここを読んで「なるほどよくわかった、じゃもう『早稲田文学』は買わなくてもいいや」となることがありうる。しかし伏せ字にすれば、「これは**のことかな。きっとそうに違いない。絶対そうだ。そうだと言ってくれ。ああ、これはもう『早稲田文学』のバックナンバーを買わなくちゃしょうがないか」となることが期待できるのではないか。高潔かつ清貧な『早稲田文学』の、営業の邪魔ではなく支援がしたいということで。

さて。大杉重男によれば、「知の不良債権をどう処理するか」という問題に4人が取った方法は、次のように一覧できる。
[初老男A]資本制の外部で処理・コミュニズム的実践
[老人男B]資本制の外部で処理・国家的官僚制に頼る
[中年男C]資本制の内部で処理・知を放棄する
[青年男D]資本制の内部で処理・知を再生産する

詳細は以下。

[初老男A]
80年代から現在までの批評状況を左右した最大の人物と位置づけられる。知の恐慌状態を[初老男A]がどのように作り出してきたのかが、この論文の主眼であり、分量としても最も多い。したがって、全文掲載ではないにしろ、引用も限りなく長い。

<八〇年代固有の現象として指摘される批評の自立とは、この意味において既に一つの恐慌状態の出現であったと言えると思います。それは知の恐慌、デフレーションであり、知の対象の空洞化です。もちろん他方八〇年代はたとえば文学においては村上春樹や吉本ばななの時代であり、そこでは批評なしでも作品はそれなりに売れているように見えていたと言える。加藤典洋がカフカから借りてきた「君と世界の戦いでは、世界を支援せよ」という標語は、批評的自意識など必要なく、作品そのものの中に批評性を見れば良いというメッセージだった。たとえば村上春樹が広く読まれている以上、個人的に気に入らなくてもそこには何か批評性があるに違いないというわけです。これは一面の真理であって、消費社会においては批評は価値尺度としてはもはや無用の長物に過ぎないものとなる。そうした中でなおかつ批評的であろうとすれば、批評は逆に価値尺度を積極的に混乱させ、白を黒といい、黒を白というノイズになりかねない。実際批評はノイズであることに積極的なアイデンティティーを見出すようになる。このことはこの時代を代表する批評家である[初老男A]の批評において一目瞭然です。[初老男A]の批評というものは『へのへのもへじ』(著書)が典型的に示しているように、既成の文学史や思想史のような制度的言説の転倒を暴露することにその魅力があったと言える。・・・・・・これはすなわち文学史や思想史によって価値づけられて来た文学作品や哲学書の価値尺度を破壊すること、つまり恐慌状態を引き起こすことを意味します。・・・・・・この恐慌への意志は、[初老男A]自身によっても表明されていたことであり、それは資本主義を揺るがすものとして恐慌を待望したマルクスの姿勢を反復するものであると言える。しかし[初老男A]はこの恐慌がもたらす半面の効果についてはあまり自覚的でなかったように見える。>

<すなわち恐慌においては、一般的な価値システムが機能不全に陥ることの代償として、フェティシズム的な欲望が強化されるということです。経済において商品よりも貨幣を欲しがる転倒と同じことが、文学や思想のレヴェルでも重ることになる。[初老男A]の批評文が「マルクスは・・・と言った」「キルケゴールは・・・と言った」という文体を取ることはこのことの徴候です。渡部直己が戒厳令的と形容したこの文体は、まさに知における恐慌そのものを示していると言える。そこにおいてはマルクスが現実に何をいったか、キルケゴールが現実に何を言ったかということより、マルクスという名前、キルケゴールという名前の方が重要になり、欲望されている。[初老男A]の批評を読むと、そこに論じられている対象はどうでも良くなって、羅列されている名前だけを読んで満足するという経験を味わうことがよくあります。・・・・・・[初老男A]の読者は無駄なことをしなくて済んで得した気持ちになる。たとえば国木田独歩は制度的で、漱石は制度を疑ったといった物語を子守歌のように聞けば、読者は独歩を読む必要がないことを改めて確認し、漱石はやはり偉かったと安心して眠ることができる。しかしそれは実はマルクスが言うところの守銭奴のよろこび、快感であるわけです。・・・・・・それを極端にしたのが浅田彰といっていいでしょう。浅田こそ知の固有名のブランド化を完成した批評家であり、固有名を蒐集してため込む貨幣退蔵者、守銭奴である。浅田はその本を書かない態度も含めて、知の恐慌状態を身体的に体現していたように見えます。この時期批評が対象から自立したと言われるのは、この恐慌状態がもたらした固有名崇拝をその実質としていたということです。>

<そして経済において恐慌が資本主義を瓦解に導かなかったように、知の恐慌もまた知の制度を解体することはなかった。むしろ八〇年代において恐慌はバブル経済と結びついていたのです。経済学の話ばかりしているようですが、日本において真の意味での経済成長は石油ショックで終ったとされる。しかしにもかかわらず実質的な成長がないのに、景気が良いという状態がその後来たわけです。そこではお金が巷に溢れているように見えていたわけですが、それらはすべて本当のお金ではなく借金だったわけです。そしてそれにはいつか返済期日がやってくる。しかしその期日を引き延ばし続けることができる限り、繁栄を謳歌することができるわけで、未来の借金はふくらむかもしれないけれど、今が良ければいいというコンセプトで九〇年代になだれこんだわけです。そしてバブルがはじけ、不況が目に見えるものとして現れてきたのですが、知的領域においてもほぼ同じことが起きたと言える。既に述べたように知の恐慌と呼ぶべきものは八〇年代において既に全面化していたのですが、その実体が九〇年代においてあらわになった。すなわち八〇年代は「本物の日本銀行券は贋物だった」という浅田彰のエッセイが示すように、紙幣は紙切れであるけれども、紙切れである故に価値があるものだったのだ、九〇年代にゴルフの会員券や株券が紙切れになってしまうと、やはりお金は本物のお金でなければならないということになる。何らかの形でやはり本物でなくてはならないという衝動、本物を求める飢えのようなものが起こってくる。そしてこの恐慌の現前に対して、批評家はそれぞれの態度決定を迫られることになる。>

<しかしそれは固有名崇拝が衰えるということではなく、むしろますます固有名に執着することにつながったように見えます。マルクス的恐慌においては、貨幣は金銀という物質的な商品形態を身体として持っていなければならないわけで、岩井克人などはそれを批判してそこにマルクスの限界を見ていますが、むしろ貨幣の不透明な物質性にこだわったことにマルクスの単なる経済学者を超えた思想的固有性があったとも言える。経済学者はともかく批評においては批評家は自分自身が物質的身体性を備えた固有名となること、自らが根拠を持った貴金属、オーラを帯びた存在になること、批評の金本位制で危機に対処するように迫られたように見える。>

<(90年代から現在にかけて)[初老男A]は資本的貨幣経済の廃棄という古典的なコミュニズムに回帰するように見える。そこでは貨幣的なものは否定されるわけで、これは固有名的なものの否定でもある。・・・・・・しかしそれは資本主義的貨幣が偽金であって本物の貨幣ではなく、また資本主義的固有名が本当の固有名ではないということに過ぎない。そこでは本物の貨幣や本物の固有名への飢餓が強化されることになる。マルクスは『共産主義宣言』において「ブルジョア階級は恐慌を、どうやって克服するか? 一方では大量の生産力を無理に破壊することによって、他方では、新しい市場の獲得と、古い市場のさらなる徹底的な搾取によって。結局それはどういうことを意味するのか? つまり、より全面的な、より深刻な恐怖を準備し、そしてまた恐怖を予防する手段をいっそう減らしてしまうことである」と述べていますが、結局[初老男A]はこのブルジョア階級と同じことをしているだけなのではないか。>

[老人男B]
<八〇年代において[初老男A]と相補的な役割を果たした[老人男B]は、九〇年代においては「****」という官僚制度に根拠を求めることになる。これは[初老男A]と対象的に見えますが、資本性の外部に根拠を求めた点において、コミュニズムに行くか官僚制に行くかというのは見かけほど大きな差異ではない。・・・・・・資本性の外部というものは結局大学、つまり究極的には国家的制度しかないというのが[老人男B]のフローベール的リアリズムであって、それは私を含めて多くの批評家が**関係者であるという事実によって裏付けられる。このことに目をつぶることはできません。>

[中年男C]
<これに対して資本制の内部で、知の不良債権に対処する方向を考えることもできる。[中年男C]はこの文脈において重要な存在といえるのかもしれない。・・・・・・ファシズムもまた資本主義を越える運動であるのかもしれないのですが、理想はともかく、[中年男C]が現実にしているのは借金をしている人間にさらに借金をさせ多重債務に陥らせて、その過程でマージンを取ることであるように見える。それは知そのものを放棄したりたたき売りにすることです。・・・・・・[中年男C]の批評家としての役割は、純文学が市場原理に完全に飲み込まれるに当たって、その摩擦を和らげソフトランディングさせる道化師のそれであると言える。>

[青年男D]
<資本制の内部で知の不良債権を処理しようとしているように見える批評家として、もう一人[青年男D]を揚げることができます。・・・・・・[中年男C]と違って知を放棄するのではなく、あくまで知の生産性を上げること、新しい情報を生みだし続けることによって不良債権を償却しようとしていると一応は評価することができる。・・・・・・しかし・・・・・・[青年男D]は節約と同じくらい浪費する批評家である ・・・・・・[青年男D]は決して***に対してシニカルなのではなく、積極的に***が好きで「*えて」いるのです。そしてそれは知的エネルギーの莫大な浪費でもある。・・・・・・[青年男D]の批評は一方では固有名批判でありながら、他方では固有名へのフェティシズム的欲望をあおるものでもある。・・・・・・節約した分だけ浪費せざるをえないのだとすれば、不良債権の償却にならないと思われる。といって節約だけしているのでは浅田彰的な八〇年代シニシズムへの逆戻りです。>

「知の不良債権」を処理する4人それぞれの方法について、大杉重男は<どの選択も決定的なものではなく、批評の閉塞状況を打破するには不十分に見えるというのが私の印象です>と述べる。ではどうしたら良いのか。

<それでは他にどのような方向がありえるのかということになりますが、正直言って私は積極的な見通しを示すことができません。私は予言者ではない。というより予言的なふるまいをすることはその予言を担保にしてまた借金をすることであり、不良債権を増やすことにしか貢献しないと思われる。>

それでも、小さな希望だけを最後に述べて、「知の不良債権」は終る。

<繰り返して言えば、恐慌とは商品が無価値となり、貨幣そのものがフェティシズム的に欲望される状況であり、更にいえば、紙幣が紙切れとなり、貴金属そのものの物質性が露呈する状況です。この時、無価値となった商品の価値を回復しようとするのは反動的だし所詮無理でもある。しかし無価値となった商品のもはや商品ではない「作品」としての物質性に注目することは一つの道かもしれない。それは決してテクストに再び過剰な交換価値、商品価値を与えるのではない、そのようなやりかたでテクストを読むことです。問題はそこにどのような享楽、あるいは快がありうるかということですが、少なくとも私が今一番希望を持っているのはこの方向です。>

批評って、こうして読んでみると、相当に深いものがありますねえ。どう深いかというと、そう、少なくとも、ニュース番組よりは深い。いやそれどころか、ニュース番組に比べて、限りなくサービスに富んでいるという印象なんですね。・・・とこのように、本来かけがえのない物質性をはらんでいるはずの「この事件=この批評」に、まるでニュース番組のごとく寸評を加えてしまう。それによってこの批評を、遠慮がちながら横柄に、まるめこんで把握したつもりになる。


Junky
2001.9.3

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