日の丸・君が代
「あんにょんキムチ」
「新しい神様」
近ごろの思いつきを羅列



私にとって、日の丸・君が代は、ノドに刺さった小骨のようだ。気になってしかたがない。しかし、処理のしかたが、今もって、よくわからない。

いっそ、日の丸を揚げ君が代を歌ってでもみるとか。いやいや、そんなことをすれば、この骨はますます深いところに入っていくばかりだろう。

じゃあ真っ当に、日の丸・君が代反対を叫ぶか。いや、それでもどうもこの骨は除去されないみたいなのだ。それどころか、「日の丸反対」の旗を掲げることが、ときとして、「日の丸」の旗を掲げるほどの気持ち悪さを伴うことすらある。



そうこうしているうちに、シドニーオリンピックがやってきた。テレビの前で日本チームや日本選手に熱狂したりしていた。

私にとって日本とは何だろう。国家とはなんだろう。国家と国民という関係は、どこまで必然的なのだろうか。その歴史性と未来性を見極めることはできるだろうか。

英和辞典をひくと、ネーション(nation)の訳語が「国民」である。ステート(state)の訳語が「国家」である。

それにしたって、シドニー五輪サッカー決勝リーグで日本がアメリカに破れたときの、あの悔しさの正体は何だったのだろう。



日の丸・君が代の強制と反対をめぐって学校長が自殺した広島県立世羅高校では、国旗国歌法成立後のことし春、卒業式で日の丸・君が代が実施された。それに反対する400人の生徒は国歌斉唱に着席をして意思表示をしたという。この高校の生徒会長だった人が、週間金曜日(9月22日号)で発言している。

(日の丸・君が代自体に反対なのか。強制に反対なのか。国旗・国歌の存在そのものに反対なのか、との質問に対し)
「私は国旗・国歌そのものに反対です。人を一人殺してしまうようなものを認めたくない」

私も同じことを聞かれたら、結局のところ、同じことを答えるだろう。しかし、この人は、これに続けてこう述べている。

「自分では日本人だなんて思ってないし、日本人である前に一地球人、人間だから、そんなたかが国旗や国歌に振り回されたくない。」

自分は日本人だなんて思ってない

そう書きたくなる気持ちはわかる。しかしそれはハッタリではないのだろうか。

こう言われると、私としては「自分では日本人でないなんて思ってないし」といじわるなことを書きたくなる。「日本人である前に一地球人、人間だから、そんなたかが国旗や国歌に振り回されたくない。でもどういうわけか、つい振り回されてしまうんですよ」と書きたくなる。そして今、現に書いた。

かつて日本人と呼ばれた者たちが悪業を積んできたらしいことや、今なお日本人と呼ばれる者たちが悪業を積んでいるらしいことは、ともあれ不本意なことである。それだからといって・・・。

しかし、この人が、この列島を統治している政権や、この列島に居住している人々に、他人事ではない関心や理解を持っていることは、想像に堅くない。その関心と理解は、私もまた共有している。この時代とこの地域。その共通性をもって、「私たちは同じ日本人ですよ」と、言わなければならないわけではないが、言ってはならないわけでもないだろう。



そうこうしているうちに、「あんにょんキムチ」(松江哲明監督)というドキュメンタリー映画を見に行った。在日韓国人三世として生まれ幼少の頃に両親とともに日本国籍を取得した松江さんが、自分のお爺ちゃんが捨てた朝鮮について、お爺ちゃんが拾った日本について、そしてキムチの食べられない自分について、ポップに、真摯に、首をひねり、お爺ちゃんの生まれ故郷を尋ねロードムービーする。

たとえば「在日コリアン差別を許さない市民集会」といった場でそれを議題にしたら差別反対なんだか差別賛成なんだか判別できなくなるような、また、重苦しい悲痛な叫びというのではないが、だからといって、「まいいか」といったん忘れてもいつかまたどこかで「どうもへんだよ」とぶり返してくるような、そんな疑問の存在を、この映画は、そっと指し示してくれる。

それは、たぶん、松江さんにとっての、ノドの骨? キムチの骨?

恨みとか罪とか恥、しかもそれが日本と朝鮮の歴史にまつわるたぐいの恨みとか罪とか恥が存在するとして、それにともなって個人が感じるかもしれない、あるいは感じなければならないかもしれない、恨みとか罪とか恥とかが存在するとして、それについて語る場合に、私と松江さんは、別の立ち場ではなく同じ立場で語ることができるのではないかなという気がした。そして、そういう立場とはどういう立場なんだろう、と考え続けていく。

補足 
よい文章を書くコツとして「説明するな、描写せよ」というのがある。素晴らしい指摘だ。しかし私は今「あんにょんキムチ」について説明はしたが、描写はしていない。しかしそれは当たり前といえば当たり前で、なぜなら、「あんにょんキムチ」についての描写といったら、それはすなわち「あんにょんキムチ」という作品そのものであって、ここでそれ以上の描写など望むべくもないのだ。「あんにょんキムチ」についての私のヘンテコな説明によって、あなたが「あんにょんキムチ」についての描写を求めたくなったならば、つまり「あんにょんキムチ」が見たくなったならば、それは当然であり、またそれは幸いなのである。まだ上映しています。東京のボックス東中野にて。この作品が卒業制作(日本映画学校)でもある松江監督は、この映画館でバイトもしているというのがおもしろい。



そうこうしているうちに、いやそうではなくて、「あんにょんキムチ」を見たのと同じ日なのですが、「新しい神様」(土屋豊監督)という、これまたドキュメンタリー映画を見にいった。こちらは渋谷ユーロスペース。これもまだやってるはず。

説明1
右翼パンクバンド、というものがある。それが「維新赤誠塾」。ライブにおいて、天皇、民族、国家への意識を強烈に訴える。その一方で、女性ボーカル雨宮処凛さんは、これほど希薄な自分など天皇陛下なくしては存在の拠り所を失ってしまうのだ、というわかりやすい構図を素直に認めてもいる。

説明2
この雨宮さんに興味を持った土屋監督が、彼女やバンドのメンバーと親密に意見を交わしながら、日常のただ中にカメラを持ち込む。

この作品、なんというか、私には、ノドに刺さった骨が気になるどころの騒ぎじゃなく、傷口が一気に化膿してしまいそうなインパクトがあった。

しかし、自らのノドの骨を気にせずに、化膿もさせないままで、天皇について民族について国家について考えることなど、本当はできるはずがないのだ。自分が無傷でいられるような「天皇陛下万歳」などあり得ない。それと同じく無傷でいられる「天皇制反対」があるならば、そんなもの、どこかまやかしなのではないか。なんだか私はそう思った。



ところで、もちろん土屋さんは、天皇制を、現代日本社会を閉塞感の中に覆ってしまう皮膜のような存在として批判する。そのようなモノローグを自ら作品の中で語っている。そして「国家は幻想である。個人として生きよ」というシンプルなメッセージを、雨宮さんに託していく。

国家と個人を対比した場合、私だって、国家なんてフィクションだ、個人として生きよう、そんなことは当たり前だ、と思ってやってきた。ところが、破れかぶれの維新赤誠塾ライブを見ていたら、ふとこんなことも思った。

さまざまな人々やさまざまな目的によって多元的に構成されているはずの国家が、あたかも一つの命として成り立っているかのように意識するのは錯覚であるとするならば、もしかしたら、さまざまな記憶やさまざまな欲望によって多元的に構成されているはずの個人が、あたかも一つの人格として成り立っているかのように意識するのこともまた、錯覚でないとは言えないんじゃないか、と。

きょうび「国家を生きる」なんてカッコわるいの代表とされている。逆に「俺は個人として生きる」と宣言すれば、それはまあカッコよく響く。だったら、個人として生きる人の錯覚よりも、国家として生きる人の錯覚の肩を持ちたい、というヒネクレた感情もわいたのだった。



「ドキュメンタリーを擁護したい」。べつに私が擁護したからといって、どうってことはないだろうが。

「あんにょんキムチ」の松江監督は、家族や親戚のおばさんにカメラを向け、大真面目にインタビューする。自分にもちょっとインタビュー(?)する。その不自然さ奇妙さが、心地よかった。我々が行うあらゆるコミュニケーションの不自然さ奇妙さに通じるような気がして。

「新しい神様」は、展開が読めず、どんどん迷路に入っていくのが面白い。ほんとうは誰が何について語ろうとしているのか、それも最後までわからない。物語が物語の枠を壊していくとでも言えそうな、そういう醍醐味に、気付く。

ドキュメンタリーとは、なにか途方もないもの、微妙なものが、当初の予想を大きく超えたところで露わになっていく、ひとつの流れであるのだろうか。あなたの「日の丸・君が代」が、その露わさを超えるほどの「君が代・日の丸」であるならば、あなたの「日の丸・君が代反対」が、その露わさを超えるほどの「日の丸・君が代反対」であるならば、それは議論に値する。さあ、話をしましょう。


Junky
2000.10.15

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フォルダ「国家・差別・戦争」 著作=junky@迷宮旅行社http://www.mayQ.net