デスパーニア『現代物理学にとって 実在とは何か』 現象を説明するモデル 言語とは マグリット「無謀な企て」
実在とは何か(とは何か)


最近気になっていることは「実在とは何か」ということです。
また唐突にこんなことをいうと、「はあ?」と思われそうですが、
じわじわ説明します。
たとえば、
今目の前にある机でもいい、コップの麦茶でもいいし、自分の爪の先でもいいですが、
これらの「物」をどこまでも細かく細かくしていくと、
最後にはだいたい原子さらには陽子・中性子・電子といったものに行きつく
というふうなことで、我々は一応納得しています。

あるいはもう少し詳しく、
たとえば
原子核の回りを電子がぐるぐる回っているなんてのは、
たんなる方便にすぎなくて、
実際は、
そんなはっきりした粒が、
そんなくっきりした軌道を回ってるわけではないとか、
あるいは、
陽子や中性子も、
実はもっと細かいクオークとかいうやつが組み合わさって出来ているとか、
そういうことも、なんとなく知っています。

そういう知識を念頭において、
じゃあ「物」の究極ってホントはどうなってんだろう、
なにが「実在」してるんだろうと、
物理学の本などを開いてみます。
すると、どうも根本から疑わしいのです。

たとえば、
<血液は赤血球や白血球などの成分から成っていて、それが血管の中を流れている>
といった話なら、
血管や赤血球という「物」が「実在」してるのだ、と言っていいでしょう。
しかし、
こと原子とかさらにその内部を見極めようとかの話になると、
電子が丸い粒なのかどうかなんて、もちろん見ることはできないし、
それどころか、
電子の位置や動きというものも
絶対はっきりとは測定できないようになっているらしい。
だから、
そういうものが、はたして
赤血球などと同じレベルの「物」であるのかどうか、
同じレベルで「実在」しているのかどうか、
そういうことが、かなり疑わしいのです。

たしかに、
原子と呼ばれる一定の範囲において、ともかくいろいろ現象が起こっている。
そのことが何度も観測されてくる。
その観測された現象をどうにか説明したり予測したりするために、
ここはひとつ陽子・中性子・電子というものを想定してみよう。
その陽子・中性子・電子が、こんな構造になっていて、
こんなふうに振る舞っていると仮定すれば、
これらの現象はうまく説明できる。
じゃあ、そういう陽子・中性子・電子が
そういうふうに存在しているということにしましょうよ。
・・・なんだか、物理学って
こういう<モデルによる現象の説明>に過ぎないのではないか
との疑いが、濃厚なわけです。

あるいは、
たとえば
電波って何なのだろうと思いませんか。
波というけれど、何の波でしょう。
音という波が空気の濃淡によって伝わったり、
海の波が水の上下運動で伝わっていくのは、なんとなく実感できます。
しかし
電波というのは、
空気だの水だのといった媒介が全くないままに、
真空中をただ伝わっていくのです。
もちろん見えもしないし触れもしない。
時には電波も光子という粒なんだとか言われますが、
その光子の粒には質量すらないのだそうで。
だったら電波はホントに「実在」してるんでしょうか。
電波という「現象」は、テレビやラジオがあるから経験はしているわけです。
しかし、
電波という「実在」はどうかと考えると、これもなんだかわからない。

もひとつ例を。
地球が太陽のまわりを回るのは、
太陽が地球を引っ張っているからだということになっています。だいたい。
これがニュートンによる重力(引力)の説明ですね。
しかし、
太陽と地球が糸で結ばれているわけではないし、
大気の揺れのようなものが津波のように押し寄せるというわけでもありません。
太陽の重力は、
なぜか何もないところを伝わって、遠く離れた地球に作用するのです。
こうなると、
重力も、さっきの電波と同じで、「実在」しているとは言い難い。
やっぱり、引力も、
ある現象を説明するためのひとつのモデルにすぎないんだという気がします。
実際、アインシュタインあたりは、
この現象を、
ニュートンとは全然違うモデルで説明してしまいました。
今じゃ、これがだんぜん正しい説明だ、
ということになっているのでしたよね。

とはいえ。
仮に、
電子や電波や重力が<現象を説明するモデル>に過ぎないとしても、
その現象を起こす「物」が「実在」することだけは間違いないんでしょう? 
その「物」が今はまだ見極められないだけで、
電子や電波や重力に近似したなんらかの「物」が、
「実在」することだけは間違いないんでしょう? 
・・・そう思いたいですよね。
ところが、
どうやらそれすら疑わしいように最近の私には思えるのです。
つまるところ、
物理学は、
「物」があるかどうかを語らないまま、
「性質」だけを語っている
といった感じでしょうか。

世界の究極の姿を見極めようとしたら、
そこに「物」は「実在」せず「性質」だけがあった??? 
たとえば
「たんじゅん」とか「しつこい」とかいうのは「性質」ですね。
ふつう「性質」ってのは、
その「性質」を担っている
「小泉さん」とか「鳩山さん」とかの「物」が必ずあるわけです。
だとしたら、「物」がなくて「性質」だけがあるなんて、
おかしいじゃありませんか。
そう、物理学ってのはおかしなことになってるわけですよ。
この「性質」ってのは「法則」とか「数式」
とかの言葉に換えてもいいでしょう。
「もの」でなく「こと」がある、というふうにも誰か言ってましたけど。

さて最後に。
私は今、物理学は「実在」を語らず「性質」だけを語っていると言いました。
しかし、ここで視点をポンと変えてみて、
「実在とは何か」の答は、
「実在とは性質のことなんだ」「性質こそが実在しているのだ」としてもいいんじゃないか
と思ったりもします。
つけたしみたいに述べたにしては、
ここまでの話をひっくり返すようなことで、
たいへん恐縮ですが、述べておきました。

「実在とは何か」という私の疑問が、どういうことなのか、
ある程度わかってもらえたでしょうか。

このあたり、
物理学とりわけ量子力学を含めた現代物理学を勉強する人からは
「そんなのとっくの昔から思案されているし、だいたい、きみの理解は間違ってるよ」
と言われそうではあります。
また、哲学系の人からも
「物とか実在とか現象とか、それぞれきちんと定義して使わないと、おはなしにならない」
とか言われそうではあります。
が、それは、きょうのところはおいておくとして。

このことは、しばらく前から一人でいろいろ思案していました。
そうしたところ、さいきんになって次の本に出会いました。

『現代物理学にとって 実在とは何か』
著作=デスパーニア
監訳=桝瀬睦男 訳 =丹治信春
培風館 1988年

親切であろうとするあまり、緻密にすぎるような本です。
それだけ解読に時間がかかりますが、
じわじわと進んでいくうちに、
私の漠然とした疑問の正体がすこしはっきりしてきたと感じます。
それでともあれ上の文章を書いてみました。
私の問いの設定は、この本のタイトルと完全にかぶっていますが、まあそういうものでしょう。

しかしこの本、それほど有名ではないようです。
というのも、Googleで「デスパーニア」を検索してみると、
サイトはわずか7つ。
しかし、そうなると、マイナーなものの読者同士ということか、
親近感がぐっと増します。

そんなサイトの一つを紹介。
http://www10.u-page.so-net.ne.jp/sf6/gravity/verstehen.html
大学の研究者ですが、アウトローっぽい人のようです。
トップページはこちら。
http://www10.u-page.so-net.ne.jp/sf6/gravity/Yamame.html
この本を私が知らなければ、この人を知ることもなかったのでしょう。
本との出合いには、
インターネット時代だと、こういう出会いがくっついてくるわけですね。
チャンスがあれば、個人的に講義を受けてみたい。

このほか「実在とは何か」でも検索したところ、
書名でなくフレーズとして引っ掛かった中に、
こんなサイトがありました。
http://ha3.seikyou.ne.jp/home/donsai/vw/v2100.htm
「世界観の組立方」と題する長い論文の一部のようです。
http://ha3.seikyou.ne.jp/home/donsai/new_vw/index.htm
合計3部・13編・41章・189節に及ぶ目次をたどっているだけで、
頭がクラクラしてしまいました。
この人にもぜひ教えを乞いたいと願う一方、
「実在とは何か」なんてことに本気で取り組みだすと、
やがてこうなる運命なのかと、末恐ろしい気もします。

さて、実をいうと私は、
「実在とは何か」ということで考えていることのうち、
きょうはまだ半分しか書けませんでした。
あとの半分は、
やはり、
「実在とは何か」ということと
言語との関連であります。
言語もまた、
<なにかの現象を説明するためのモデル>
にすぎないのでしょうか。
それとも
<言語こそが実在しているのだ>
なのでしょうか。

たとえば、
私がここまで書いてきたこの文章によって、
なにかのある性質が記述されているとも考えられます。
この文章は<ある現象を説明するためのモデル>にすぎないと言ってもいいわけです。
そうすると、しかし、
今あなたが読んでいるこの文章「●●●●●●●●●●」が性質であるからには、
その性質を担っているモノ「○○○○○○○○○○」が実在するはずだ
と思いたくなります。
では、
その「○○○○○○○○○○」とは、どういうモノなのでしょうか。
文章のようなモノではない
のでしょうか。

それとも、
「●●●●●●●●●●」が性質にすぎないとしても、
実在しているのは
その性質「●●●●●●●●●●」だけであって、
「○○○○○○○○○○」などは
どこをさがしても出てこないのでしょうか。

というわけで、毎度のことながら、この辺で終了。
詳しくは、次回をお楽しみ(お苦しみというか)に。

ちなみに、
冒頭のイメージは、マグリットの絵画「無謀な企て」です。
深い意味はわかりませんが、
逆に、いくら深読みしてもいいのではないでしょうか。
しかしマグリットの絵は、どれも、こういうテーマにぴったりですね。
http://www.asahi-net.or.jp/~nn2h-ssk/Pages/Town/ToyotaArt.htm


Junky
2001.7.17

From Junky
迷宮旅行社・目次
著作=junky@迷宮旅行社http://www.mayq.net