TOP

▼日誌
    路地に迷う自転車のごとく

迷宮旅行社・目次

これ以後


2003.3.31 -- 鼻曇り --

●卒業しない人生。それは留年と呼ばれる。入学しない人生。それは浪人と呼ばれる。(参考文献:宮沢章夫『青空の方法』)


2003.3.25 -- うずうずの渦中 --

●ニュースのたびに熾烈を極めるイラク戦争。だが反戦のほうもいろいろ極まっているようで、ボケっとしてはいられない。とりわけその極北→モテたい運動。こんな画像も流れついた→霊長類の情動表現の比較研究。なに、すでにご存知と? さもありなん。よい運動はすぐに広まるものなり。これも→桃色ゲリラ。●「イイ」と言うほうが、「イヤ」と言うのより、イイ。

●かとおもえば、ラブ&ピースのラブは余計だろ、という説もあり(3月18日)。


2003.3.23 -- 肥やしになる --

岩波書店のシリーズ「21世紀 文学の創造」全9巻・別巻1、と聞くといかにも堅そうな、重そうなイメージだから、どうせまた図書館のヌシ、というか壁や棚そのものと化すタイプの書物だろうと思いきや、意外に小ぶり、柔らかく軽そうな本だったので驚いた。実際ソフトカバー(というのか)で、カジュアルなカラー写真が目を引く。華美な服装は駄目よという岩波風紀の乱れ? 第4巻『脱文学と超文学』(斎藤美奈子編)と第8巻『批評の創造性』(高橋康也編)をツマミ読み、味見。●第4巻、佐藤良明は、60年代以降の文学が同時代のポップ音楽に導かれてきたという説を開陳する。村上春樹の文章を、読んでいくリズムと強弱および全体のその起伏、さらには内容もまた内容としてのリズム・強弱・起伏、といった唯一無二の視点から、満を持して評価する。じつに新鮮。村上春樹をもう一度ぜんぶはじめから読み返したくさせる。●第8巻では松浦寿輝が、批評とは何か、それは対象への接吻なのだ、しかもそれは欠如としての欲望なのだ、といった絶妙の喩えを熱く熱く貫いていて、興奮。●両巻ともごった煮の印象がむしろ手に取りやすく、どうやらこれは「21世紀に文学とは何か」を定義する本ではなく、それを実践する本とみていいか。他の書籍で読んだおぼえのある石原千秋「入試国語のルールを暴く」(4巻)や、坪内祐三「一九七九年のバニシング・ポイント」(8巻)も収録されていて、親しみが増した。


2003.3.21 -- どうせ役に立たないなら、カッコ悪いのくらいは避けたい。でも難しい --

●「ニーツオルグ」というサイトにこうあった。《俺的には爆弾が落ちて死んだら痛いので、あと人が死ぬのは怖いので、戦争はよくないと思う。戦争について把握できることなんて、ホントはその程度なのに、デモやったりミュージシャンが反戦サイト作ったりして実に気持ちが悪い。そんなことに何の意味があるんだ》(普通#97)。ああまったく(同感)。たぶんネットにこうした声は少なくないだろう。だがこの簡潔さが人を振り向かせた。自分でもまたあれこれ考えずにはいられなくなってしまった――。●「戦争とは政治の延長だ」。いまさらなんだよと言われそうだが、それがやけに身にしみる。米英国軍がバクダットを爆撃しているが、あれは戦争という政治をしているつもりだろう。フセインにしたってこれまでの政治のぴったり延長にこの戦争があるみたいじゃないか。日本国の米国支持という政治も、はっきり戦争を支えている。●先進国の一員たる私には、まずは「戦争になんかつきあっていられるか」という気持ちがある。それは「戦争という政治になんかつきあっていられるか」ということでもあり、やがて「そもそも政治になんかつきあっていられるか」という気持ちになる。ところがこの気持ちは人によって分かれていくようで、戦争は拒否しても「政治になんかつきあっていられるか」とまでは考えない人がいる。各国の首脳はもちろんそんなこと言わない。日本の各党もそんなことは言わない。テレビのキャスターや識者もめったにそんなことは言わない。というのも、イラク戦争が政治という場で生じているように、国連安保理とか、平和憲法に日米同盟、あるいは国際秩序や社会正義ということだって、すべて政治という場に置かれて初めて作用する力学だからだ。欧州も、対イラク戦を回避しようとした立ち回りから、今度は対アメリカ戦を回避しようとする立ち回りまで、政治という一つの舞台上で演じている。●《デモやったりミュージシャンが反戦サイト作ったり》が、ときとして《気持ちが悪》く感じるのは、彼らもまたそうした政治という同じ次元に立つようにみえることが気持ち悪いのではないか。つまり《爆弾が落ちて死んだら痛いので、あと人が死ぬのは怖いので、戦争はよくないと思う》という《その程度》にとどまれず、つい政治に立ち入ってしまいそうな気持ち悪さだ。とはいえ、上に述べたとおり、もしも彼らが戦争という現実に本気でぶつかろうとしているのなら、戦争とのつきあいすなわち政治とのつきあいは避けられないのだ。戦争を止めるために政治という場にわざわざ出向いていくのは道理なのだ。そうすると、デモや反戦サイトが気持ち悪いという立場は、戦争はもとより政治ということの一から十までがバカバカしく思う立場ということになる。●そうだ、私ははっきり言って、戦争がバカバカしいのと同じくらい政治がバカバカしい。それどころか、経済がバカバカしい。仕事がバカバカしい。しかし、この身に降りかかる戦争や政治や経済や仕事のバカバカしさを遠ざけておこうとすることは、まわりまわって、そのバカバカしさをこの身にまとうことになっていく。そのことがもう分かっているといういっそうのバカバカしさ。それなのに「現実をバカバカしいなどと言わず、しっかり受けとめねばなりません」と諭されたりすることの、ますますのバカバカしさ。夜中に爆弾が頭上に落ちてくるバカバカしさは、いかばかりか。ましてや「それもバカバカしいなどと言わず、しっかり受けとめるしかありません」と諭されるようなバカバカしさがあったとしたら、それはいかばかりか。●真摯にであろうと、シニカルにであろうと、いま私たちの思考はどうしても、こうしてイラクの戦争に巻き込まれていく。真摯さとシニカルさとは同根なのかもしれないし、それらがいつか重なり合うところに、なにか納得できる結論もあるように思う。とはいえ、こんなふうにつまみ食いのようにじっと考えていたところで、誰かがそれで救われるということではないのだろう。でも考えている。これくらいの懸命さでしかないが、考えてはいる。


2003.3.19 -- 今さら遅いか、でも更新(長文注意) --

日本語に関する本は、似たようなタイトルで次々に現れるため、手にしたかどうかもしっかり憶えていられない。そんななか、『日本語は進化する』 (NHKブックス・02年)という一冊は強く印象に残った。それは著者の加賀野井秀一という名前が妙に長ったらしく、もしかして萬流コピー塾の師範格だった? と思わせるからではない。もちろん本の中身がよかったからだ。●内容は「日本語が明治の言文一致と翻訳という苦心によって細密さ柔軟さを獲得してきた、その経緯」「しかし日本語の性質は論理展開を得意とする西洋語とは根本的に異なる、その実状」といったところ。おなじみかもしれない。それでも、日本語が日本の人の思考に大いに関わってくることになるその歴史、その実際について、同書の考察は隅々まで示唆に富んでいて、何度も感心させられた。思えばこの日本語は、今なお誰もが使っているわけだ。いやそれ以上に、ある人々にとっては頻繁に更新していくウェブ日記をつづるのに毎度使わされる道具。改めて見つめてみて、そこに他人事でない強い驚きや発見があるのは、当然のことだろう。●その面白い中身のうち、本旨たる言文一致等についてはもはや書ききれないので、ずっと進んだころに出てきて、とりわけ今の私の心情にじんわり触れてきた2点のみ、紹介してみる。●1点めは、敬語について。時枝誠記という日本語研究のえらい人が、尊敬語(先生がおっしゃる)と謙譲語(私が申す)は、ただ表現素材(先生と私)の上下関係を識別しているだけで、本来の敬意を含んでいるのは丁寧語だけだ、と分析したらしい。それを受けて著者は、尊敬語が「話し手と言及対象」の関係をあらわすのに対し、丁寧語があらわすのは「話し手と聞き手」の関係であり、しかもそれは「上下」の関係ではなく「親疎」の関係だと言う。なるほど!●どうだろう、私たちも、自分の日記を誰かに向けて書いたり、誰かの日記を黙って読んでいる時、たとえばその日記が「ですます」になったり、そうでなくなったりするあたりに、なんらか互いの関係を測っているような気持ちにならないだろうか。この「親と疎のバランス」という見方には、その「です」と「だ」に揺れる微妙な日記文体の秘密があるのではないか。●丁寧語による親疎のバランスは、明治の言文一致によって成し遂げられた「ホンネとタテマエ」のバランスにも似ていると指摘される。《ホンネが下卑てはいけないように、何事も親しければいいというわけではない。また、タテマエが空疎であってはいけないように、何事も敬して遠ざけておけばいいというものでもない。ホンネでタテマエを語る日本語が必要であったように、ここでもまた、「へだたりのなかで親しさを語る日本語」と言うべきものが必要になってくるのである。なるほど仲間内の分けへだてない言葉もいいものだ。あるいは、土の匂いのする故郷の方言も捨てがたい。もちろん、それはそれで大切にすればよろしい。ただし、私たちの間で、今や最も必要とされているのは、そうした仲間や故郷から離れた者同士で語りあう日本語ではないのか。つまり、たがいに「他者」同士で語りあう日本語ではないのだろうか》。●もう1点は、そもそも日本語の文章が、西洋語に比べて、分析的であるより記述的だということ(念のため言うが「日本語はあいまいだ」という主張ではない)。これは同書の本旨そのものに近く、長い時代にまたがる多くの例文をもとに展開される。これもこの手の本にはよく出る話かもしれない。ただこの御時世、先日の国連安保理で西洋の首脳たちがカッコよく議論していたあの光景がどうしても思い浮かぶ。しかし著者は、日本語の慰めにもなるような、いや日本語はもっと胸を張っていいんだとまで思える見解を、最後の最後に示してくる。西洋語が、正しいか間違っているか二つに一つしかない演繹的な物言いであるのに対し、日本語は逆に帰納的な言葉だというのだ。このことを、日本語では「象は鼻が長い」のように「〜は」を使って主題が提示できる特性、さらには、日本の郵便が西洋と違って「××県××市××町×丁目×番地×号」の順で記されること、そんなことまで絡めて示している。そして――。●《…西洋語の論理は、あらかじめ論者のなかで決着のついたことがらを戦わせるには好都合だが、日本語のように、探索し、帰納し、協調して、不確かなものから徐々に結論を創造してゆく論理にはなりにくい。》《その意味では日本語の論理の方が、実は、はるかに「発見的」であり「創造的」なのだ……》。●しかしこの文は、まるで何かを予言していたかのように、こう続く。《……が、いかんせん、国際会議あたりで論争するうえでは分が悪い。さらにまた、日本語の論理は、私たちが「探索的」であればこそ、その全き論理性を発揮するものであるにもかかわらず、わが同胞には、不確かなものを不確かなまま放置して、いっこうに動じないふうもある。

●ここで話は、サイト「DEMO」にある「でもの哲学」という文章へと飛ぶ(昨日知った)。ぜひ飛んでみてほしい。はっとするものがある。●世界中でわき上がる戦争反対のデモに、どこか齟齬を感じてしまうとしたら、それは「デモなんてそれこそ西洋語の演繹性に支えられているだけじゃないか」といった疑念が底にあるからではないか。ところが「でもの哲学」を読んでみると、それとは全く逆で、デモとは、実はきわめて探索的な、発見的な、いうなれば日本語のごとき記述の力にこそ満ちているのではないか、ふいにそんな気がしてくるのだ。

なんというかまあやっぱりブッシュとかってけっきょくバカぽいってかんじかなあみたいな ←日本語は退化する? 「ブッシュはバカだ」というコードストローク(G7→C)にのりつつ、のらりくらり語りつぶやきをやめない日本語?


2003.3.18 -- 最後通帳 --

●3月17日は確定申告の期限でもあったので、雨のなか電車とバスを乗り継いで税務署まで赴いた。国民の鑑。いえ源泉分のなにがしかを返してもらうだけです。とはいえ時給にすれば破格の稼ぎ。これでまたなにがしか生き延びるぞ。●久しぶりにエクセルなど使う。それよりも、久しぶりにボールペンで字を書いた。どちらも苦手。


2003.3.15 -- 胸のうち --

●小便がこのごろ我慢できなくてまた洩らしてしまった爺さんを前にしたような「しょうもなさ」をいくども感じたのが、高橋源一郎の『ゴヂラ』や『君が代は千代に八千代に』だった。群像に連載している「メイキング・オブ・同時多発エロ」のほうは、それでも小さなことからコツコツと考えていこうとする真面目さがエロの中にも感じられ、それに手を引かれるようにして、どうにか読み続けている。●さて今号は、フセインらしき王様が、どんな願いもかなう魔法のランプを、2ちゃんねるの噂とヤフー・オークションを通じて手に入れ、それを使って形勢がきわめて不利な戦争に勝とうとする。ランプの精が教えた秘策は、敵のブッシュらしき大統領の盗撮セックスビデオをネット上にばらまくというものだった。●今イラク情勢について説得力のある言葉を誰もが探し求めている状況下で、またもやこんな「しょうもない」パロディーが堂々と飛び出してきたことに、くすくす笑う以外、どう対応していいのやら。●このところずっと高橋源一郎は、9.11自爆テロには大衝撃を受けました、でもそれがどういうことかが分かりません、さらには、この連載もそれを考えるために書いてます、くらいの率直な発言(趣旨)を繰り返してきたと記憶する。これもその一つ。●9.11直後に書かれた評論「テロリストを撃て」(小説トリッパー)では、テロのニュースを見た体験をそのまま扱ったかのような辻仁成の小説に注目していた。ほめ殺しなのか本当にほめたのかは判断しかねるものの、それが事件後にすぐ書かれたことと、それが小説であったことが《素晴らしい点だ》と、高橋源一郎は述べる。それに続けて、かつて湾岸戦争に対して文学者として自ら発言したあの出来事が持ち出される。これについては、それが愚かしいがゆえの選択だったのだというような自問自答が、湾岸戦争当時も、また『文学なんかこわくない』(98年)でも強調されていた。またもやそれが、辻仁成の小説と並べて蒸し返されたわけだ。《わたしの考えでは、作家というものは、知らないこと、うまくいえる術がないことについてこそ、なにかをいうべきなのです。誰よりも早く、間違ったことをいう、それ以上に作家にふさわしい行いはないのではないか》●三浦雅士との対談(群像02年)でも、それに近いような拘りが感じられた。高橋源一郎は《本質的だと思えることばかりやっていてはいけない》と言う。それに絡めて、《明らかに攻める人間の好餌になってしまうようなことを評論で書いてしまった》大江健三郎や、《小説でもっときちんとやっているのだし、クオリティーの問題も含めて不純だしつまらないし、もうやめなよというのが正しいのかもしれない》村上春樹の『アンダーグラウンド』を取り上げ、それを否定するのではなく、そこにむしろ光明を見ているかのように思われた。●今号の「メイキング・オブ・同時多発エロ」を、高橋源一郎のフォローワーなら、当然そうした意識につながっていくんですよね、とかすかな信頼をたぐりながら読むことになるだろう。しかし、テロや政治に対するあまりに真摯な問いかけと、それをめぐっているらしき小説のあまりの「○○さ」との回路を、どう繋いでいけばよいのか。「愚かしい」「間違ったこと」「本質的だと思えることばかりやっていてはいけない」といった姿勢のなかに、そのヒントがあるようであり、実は全然ないようでもあり。あまりに分からないから、高橋さんの胸のうちを考えるくらいなら、フセインさんやブッシュさんやシラクさんの胸のうちを考えるほうが、まだちっとは実りがあるんじゃないか、なんて思ったりして。


2003.3.14 -- 賢明な市民というより懸命な市民 --

●ウェブサイト「ソキウス」の野村一夫氏が書いた『インフォアーツ論』(洋泉社新書)。インターネットの誇り高き将来を精密に設計していく本。でも、私やあなたが「ウェブってこれだからやめられないね」と、夜ごと更新していくこの驚きについては、ちっともかまってくれないのだった。●インターネットの先住民たる知識層にはネットワーク市民としての弁えや心得があったという。ところが、あとから大量になだれこんだ連中の質が悪かった。そのせいで、近ごろのインターネット言論は暗澹たるものだ。そうした窮状が、まずは次々に抉りだされる。それを著者は「沈黙のらせん」「第三者効果」などメディア理論から引いた気の利いたキャッチフレーズに照らして、過不足なく解説・整理していく。どれも適正。●それをうけて、なし崩しにされた市民主義的ネット文化を回復させるには、ユーザーを教育しなければならないと説く。しかし、大学や高校に導入されつつある情報教育ときたら、工学系のコンピュータ技術ばかりに偏っており、「IT革命」の題目による利権もからんでお話にならない。しかもそれを批判できる人文系の人たちは、逆にコンピュータが今ひとつ苦手。そこで今求められるのは、インフォテーク(情報技術)とリベラルアーツ(教養教育)を兼ね備えた、新しい知的素養だ。それを著者は「インフォアーツ」と名付ける。●しかしこのネット的コレクトネスに満ち満ちた授業、私は根本的になじめなかった。後半は、その「インフォアーツ」の理念や細目について講義がずっと続くが、ノートを取るのがだんだん面倒になり、ケータイでメールを打つ。●前半で上げていくインターネットの窮状は、じつは私たち自身ネットしていれば必ずぶち当たり「どうよ」とすでに重々考え込んでいたたぐいのことだ。そんな近所の話なのだから、他人にああだこうだ解説されたくないという気持ちがある。その解説にしても、たとえば、お天気情報でいうところの「日本列島は大きく冷え込んでいます。それは西高東低冬型の気圧配置のせいです」といった概況では、もの足りないじゃないか。また、その対策が「新しい知的素養の教育インフォアーツ」あるいは「眼識ある市民」だと言われても、いわば「防寒着でお出かけください。傘もお忘れなく」といったレベルを超えているとは思えない。●だいいち私にしてみれば、インターネットを覆っているこの寒波はたしかに困ったことだが、それに伴って局地的に降る豪雪や暴風といった現象が、実は面白い。遭遇したいとまで思う。なぜかって? いい質問だ。なぜそう焦がれてしまうのか、その謎にこそインターネットその可能性の中心がある。そう思ってこの本を読むと、数々の各論にことごとく違和感が生じた。●私は市民社会的なインターネットに一番の価値があるとは思わない。かといってそれが壊れたほうが面白いというのでもない。出会ってぞくぞくする日記や出来事の多くが、その指標では測れないだけだ。ブロッグだってアンテナだって2ちゃんねるだって全然違う。これらは、インフォアーツによる理想のインターネットが実現したとしても、べつに面白くもつまらなくもならないだろう。●もう一つだけ。野村氏は、現在のインターネット問題は、旧来の社会学理論で十分解けるだろうと踏んでこの本を書いた。ネットを「現世ではない別世界と想定する根拠は薄いと思う」からだと言う。でもそうだろうか。ここで誰でも思い当たる。明治の初めと終りとで日本語が唖然とするほど変化してしまった事実に。そしていま私たちに(野村氏指摘のとおり)ドッグイヤーとして夜ごと現れているこの変動。この二つだけは、読み書きに「別世界」が訪れた例として数えていいのではないか。毎度ながら私はそう感じる。詳しくはまた。


2003.3.13 -- 能あるたかがヤマガタ本(爪を隠さず) --

●本を読むのはとても自由。何を読んでもどう読んでも自由。いくら読んでも自由、自由。だが、その自由を貯め込むのではなく、使ってみる。拙いレビューに換えて手放してみる。これも自由のトレードオフ? というわけで、山形浩生『たかがバロウズ本。』


2003.3.11 -- 見守る会×想う会 --

●なるほどたしかに「タマちゃんはドブ川にいたら早死にする」のかもしれない。しかし「タマちゃんはドブ川にいたら幸せじゃない」と言われると、なんだか首をかしげてしまう。「タマちゃんがドブ川にいたら私が幸せじゃない」というなら、うなずいてもいい。タマちゃんを保護する自由、保護しない自由、どちらもアリだと思う。そんなヤツはいないだろうがアザラシを食べてしまう自由だってアリだ。もちろんそれを必死で止める自由もアリだ。「タマちゃんを食べる」とはさすがに書かないのも自由。そういうあれこれをテレビで見て笑ってしまうのも自由。じゃあイラクはどうだ。イラク情勢に対して私が今とれる態度もあまりに自由すぎやしないか。まったくどうしたものか。


2003.3.9 -- 魔法の口座 --

●ネットの銀行もどんどん進化していて、今じゃメールひとつで送金ができるというのを、いまごろ初めて知った。イーバンク銀行の「メルマネ」というサービスだ。振り込む側はここに口座を作ることになるが、振り込む相手についてはメールアドレスさえわかればOK。相手の口座はどこでもいいし、そもそもどの銀行にどんな口座があるかをまったく知らなくても、振り込みを代行してもらえるのだ。ちょっと練習してみますか→hoge@hoge.jp。●気に入ったサイトや表現に出会ったら「投げ銭」をしよう。ひつじ書房などがずいぶん前からそう呼びかけてきた。最近では「ろじっくぱらだいす」というサイトも取り上げている。刮目すべきムーブメントだが、現実には盛り上がりに欠けていた。その投げ銭の土台がいよいよ出来たかという予感がする。それがメルマネというまるきりの資本制度によって築かれるというのも、おもしろいではないか。●ちょろっとメールを送るとか、さくっと掲示板に書き込むとか、ぺろっとリンクを貼るとか、それがなんだか交換・交易(コミュニケーション)のように感じられるごとく、チャリンと金を送るのも、まあコミュニケーションなのだと軽く考えようではないか、君。どっちもキーボード入力やクリックをするだけのことなのだし。「お金って何なの、よくわからない、なんだか怖い」。それはリンクも同じです。●それにしても、私たちが「投げ銭」するなら、まずはこのサイトではなかろうか(いろいろな意味で)。だが、なんということだ、ここはメールアドレスを明かしていない!(過去ログも突然消えて、さびし)


2003.3.7 -- 大将の透きとおった服で裏地見るのは無理 --

ナボコフ透明な対象』(若島正・中田晶子=訳)。堪能というか、胆嚢というか、そんな消化吸収中毒的な形容がこれほど相応しい小説はない。読者はその作用で何度も眩暈に襲われるだろう。●それにしても私はいったいナボコフを読んでいるのかワカシマを読んでいるのかどっちなんだ。これもその眩暈の一つに含めていいかもしれない。その若島氏のあとがきは、本編のデザートあるいは胃腸薬の役割を超えて読み逃せない。なにより「この小説の謎めいた語り手」について触れているのだ。しかし、ナボコフの小説でそうした答えを発見する喜びを読者から奪うのは犯罪的だとして、若島氏は次のヒントを示すのみ。「語り手の正体は、読者がうすうす勘づいているにせよ、決定的には最後の一行で明かされる」。なんだって? あっ!●さて、ごぞんじ山形浩生氏はナボコフ推奨者でもあり、さすが抜群の書評を朝日新聞に載せていたようだ。下のリンクでそれは読める。NG稿まで併記するやり口が毎度ながら愉快だ。もちろんどちらも絶妙。ただし注意! その語り手の正体を、この書評は自明のものとして扱っている。この小説をこれから読もうという人に、この前菜はきわめて食欲をそそるのだが、我慢せよ。我慢せよ。●我慢できない!


2003.3.6 -- そう張り切るなよ、仕事みたいに(だったらいいが) --

もう十分満腹したと思っていた舞城王太郎を、また読んでしまった。『阿修羅ガール』。長編としては過去に読んだ2作品よりずっと楽しんだ。たぶん誰もが抱くような感想でしかないが、いちおう書いてみた。

それと、今さらながら、TVブロスの一件について、どうもなんか引っかかるので、書いてみた。理屈。

●ところで「きょうは蟄居です」。…あ違った、啓蟄か。


2003.3.5 -- きょうはリンクがんばりました --

●ネットでは世界がすべて繋がっているという実感がある、とか下に書いた。それはそうなのだがその一方で、この手のサイトは縁がなかったな、こんな凄まじいのをなんで今の今まで知らなかったんだろう、という出会いもまた無限に生じる。最近でいうと、……いやだから皆さまはとうにご存知でしょう、既知のサイトでしょうが……、こちらの「花とゆめ」とか「あばら骨心中未遂」とか「」とか。サイト同士はリンクが通じて群を成しているらしいことも見逃せない。まるで新大陸を発見したような驚きだ。●ネットの宇宙は広大無辺でありすぎ、物理的にはすべて繋がっているものの、無数にちりばめられどこまでも深いリンクの中から、ある一個のサイトにたどりつくチャンスは、確率を計算すれば相当に低いものなのかもしれない。同時代に生存していて互いに交信があってよさそうなサイト同士でも、実際にはそうした機会を欠いたまま、やがて孤独に消滅していく……。見あげてごらん、夜の星を。●なお、これらのサイトは「荒川だより」というサイトのリンクから知った。そういうときは宇宙船の探査日誌を傍受したような気分である。●これと関係あるかないか、「春眠」というサイトでは、《個人の日記を登録してあるサイトの登録者一覧を端からひとつひとつみていくという作業をここしばらくつづけている》と書いていた(03年2月11日)。それは「コネクション」を取り除くと同時に、ハプニングとしての出会いを求めることでもあると言う。さらになるほどと思ったのは、固有名詞が出てこないサイトには出会いにくい状況があるのでは、という指摘だ。そうか、検索が機能するにも大抵は固有名詞によるものかもしれない。普通名詞ばかりの日記は、検索を逃れ、ただ暗闇を漂うのか。●ちなみに「関心空間」にも普通名詞はそぐわないかも。「はてなダイアリー」のキーワードで普通名詞による繋がりは今後どうなることだろう。


2003.3.4 -- あしびきの山鳥の尾のしだり尾の長々し前置き --

●ネット上ではあらゆるトピックが「リンク」され「検索」できる。すべては既知だ。既知でないトピックはない。リンクや検索とまったく無縁であれば、そのトピックはそもそも存在しないのだ。そんなわけで、きょうはこのネタで日記を、というばあい、必ずそれは既知のネタとして扱われることになる。さっき知ったニュースはもちろん既知だ。それに対する主だったコメントや論争も既知だ。さっき思いついた私の意見もたぶん既知だろう。「これは誰それがすでに紹介したようですが」。「これは誰かがたぶん主張したでしょうが」。まだるこくも奥ゆかしい前置きが、こうしてウェブ日記の特徴になっていく。クセあるいは枕詞・序詞のようになっていく。いまイラク情勢について何か物を言うなら、きっとそうなる。『TVブロス』の件について記そうとしても、そうなるようだ。雑誌もウェブもハリウッドもユダヤもマルコポーロも、無限にリンクされ検索されていく。世界はすべて接続されている、というのは、私たちの想定であるが、実感でもある。


2003.3.3 -- テポドン注意 --

「「「ドストエフスキー」を論じる小林秀雄」を論じる鎌田哲哉」を論じる重力の面々(5)。批評の殿堂、伝道、ここにあり。これぞ理屈の帝国。いやちがう、批評とは理屈の群衆あるいは共和国か。それを見せつけられたようであり、ながら、たとえば鎌田の論述そのものにしても中枢の中枢だけは理屈ではなくなぜか感覚の王に支配されているようでもあり。重力批評主義人格共和国。←こんな軽々しい物言いこそテポドンか。恐縮、自沈。


2003.3.1 -- 春風停滞 --

●鼻水あり、雨あり、FDP不具合あり、外出不能。

●業務連絡。今後、日誌の最新は、常にこのURL(http://www.mayQ.net/junky00.html)に置くようにします。


これ以前

日誌 archive

著作=Junky@迷宮旅行社(www.mayQ.net)