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    路地に迷う自転車のごとく

迷宮旅行社・目次

これ以後


2004.4.29 -- --

世界は今あちこちで地獄絵図だが、日本は鳥獣戯画というかなんというか… 我々のルートは、峠というものを実はあらかた越えてしまっていて、もはや下り坂しかないのではあるまいか。あとはどう下るかの問題。怪我だけしないよう、できるだけ緩いところを選び、黄昏ていく風景も慈しみつつ、迂回して迂回して降りていく。


2004.4.27 -- 手製ローテクの過激 --

映画『太陽を盗んだ男長谷川和彦監督・1979年

うつろな日々を送る一人の高校教師(沢田研二)が、東海村に侵入してプルトニウムを盗み出し、自宅のアパートで原子爆弾を手作りしてしまう。どうやら日本国を相手に闘争したいらしい。ところが強迫はしたものの要求が思いつかない。やがてあるラジオ番組に接触し、原子爆弾があったら何をしたいかの案をリスナーから募ることになる。この低テクノロジーの闘争が低テクノロジーの革命を予感させ、冗談と知りつつ、いや冗談ぽいからこそ、心はいっそう踊り騒ぐ。

国家への要求を欠くだけでなく、そもそも教師が原爆を作ろうと思い立った動機も語られていない。ひたすら「空虚」に包まれている。それと裏腹に劇場性は前面に出る。「テレビ野球中継の途中終了をやめさせろ」と口走り、ついにはラジオ番組から拾い上げた「ローリング・ストーンズ日本公演」の要求を突きつける。おまけに渋谷東急百貨店の屋上からは5億円の札びらをばらまかせる。これらは、映画の序盤で教師が遭遇するバスジャック事件と極めて対照的だ。こちらの年老いた犯人は、先の戦争に落とし前をつけるべく「陛下に会いたい」と要求するのだから。あるいは『新幹線大爆破』(75年)という別のテロ映画を持ちだすなら、山本圭の扮した犯人は新左翼の生き残りで、逃走に成功したらと問われ「革命が成功した国に行ってみたい」(引用不正確)と遠い目をしていたが、それとも異なっている。となると、『太陽を盗んだ男』の空虚さゆえに過激な面白半分は、経済成長がいつしか高度消費へとカーブしてきた直後の気分と言えるのだろう。

しかしこの気分は、今の今に至るまで結局ずっと延長されてきたのではないか。戦後が長いのみならず、四半世紀も続いてきたとおぼしき高度消費時代がもう本当に長いのだ。ということは、もし今『太陽を盗んだ男』のような物語を示されたら、同じように共感できる一方、さすがに既視感に満ちていて「もういい、恥ずかしいよ」と受け流すことになりそうだ。映画に出てくるラジオ番組も「ダメなあなたとダメなあたしの共犯放送」(引用不正確)という女性DJの呼びかけで始まるのだが、こうしたフレーズのセンスもとっくに疲弊していて、今ではとても使えない。空虚さもさすがに飽きた我が日本。空虚さが変わったのではない、空虚さが変わらず長いがゆえのいっそうの空虚さが、現在だ。

それともこれは私だけが感じる歴史観だろうか。69年にはまだ子供で89年にはもう大人で、でも79年には間違いなく若かった者として。国家にも警察にも原発にも資本にも天皇にも曖昧なままの反感が抜けず、逆にゲリラや反権力といった記号には闇雲に注目したくなる――ずっと温存されてきたこうした気分は、『太陽を盗んだ男』や79年あたりに原点があったとも考えられる。

しかしこれには懐古による偏向もある。日本では地下鉄サリンというかなり奇抜なテロが実際起こったわけだし、先日はイラクのゲリラが私のその気分の中にまで忍び込んできた。いつまでも79年ではないのだ。だいたい『太陽を盗んだ男』の手製原子爆弾は、かつての秋葉原電気街に並んでいたような計器だけで作動した。コンピュータのハイテクなど影も形もない。教師は強迫のために公衆電話を使い、警察はそれを大仕掛けの逆探知で迎え撃つが、この抗争も携帯電話の現代ではまったく様変わりするはずだ。それどころか、通信記録の捕捉など警察はもう朝飯前かもしれないし、いつのまにか張りめぐらされた監視カメラが、そもそもこうしたアクションを徹底して不可能にしているのではあるまいか。

やはり時代は変わっている。もちろん79年の段階でも、権力に勝とうなどともう誰も本気では考えなかった。それでも権力は苦々しい存在ではあった。その後もずっとそう感じられた。では04年の日本はどうか。もはや、それらが苦々しい異物だという実感すら、あるいはそれには勝てないことの空虚さすら、人によっては消えつつある。『太陽を盗んだ男』の空虚な過激さ。それは、先の大戦や60年代の政治闘争を生きた人には理解されなかったかもしれない。しかしまったく別の意味で、整然と秩序だった実利闘争ばかりが熾烈な現代日本でも、この気分を受け入れる余地は一気に失われつつある。そのように見える。

 *

話は変わる。

この映画には、ハイジャックされたバスが皇居の奥に本当に突入していくカットがある。妊婦に女装した沢田研二が一人きりで国会議事堂の門をくぐるカットもある。これらはまさにゲリラ的に撮影が敢行されたと聞く。こうした逸話が長谷川和彦のヒーロー伝説をますますもりたてるのだろう。しかしこうした無茶は、映画製作の物理的な困難をただ反映しているだけとも言える。許可など取れるわけがないし、金も人手もないし面倒くさいし、といった事情が一般的には考えられる。

また、この映画は後半になってだれるという批判がある。たしかに、教師役の沢田研二と警官役の菅原文太が一騎打ちするシーンなど、そうかもしれない。沢田「お前もただの権力の犬だったんだな」(引用不正確)とか、菅原「爆弾でお前が殺したいのはお前自身さ」(同)といった陳腐な台詞のやりとりも、漫然と間を持たせただけにも見える。しかも菅原文太は撃たれても死なず、沢田研二はビルから落ちても助かるのだが、もうその場しのぎの破れかぶれに見える。このほか、捜査本部のビルにターザンの真似をした教師がガラスを破って突入し爆弾を奪い返すというやり方も、まるで「ルパン三世」みたいで面白いが、アイディアや展開の行きづまりを打破する苦肉の策だったという指摘もある。

とはいえ、映画というのは限られた数の人間が限られた装置と期間で手作りするものに他ならず、これらの断行はそのことを図らずも映し出している、と見てもいいだろう。撮影場所を選ぶにも、役を演じるにも、カメラを構えるにも、生身の人間が生の現場でやるしかない。とくにロケでは、そこにある現実・現物がどうしたって入り込む。そこに制約があれば、その制約がそのまま映り込む。映画とは、そうした物理的あるいは時代的な制約、言い換えれば、限定された生の人間や生の時代が反映される創作物だとも言えるだろう。ローリング・ストーンズを来日させる要求は結局実現されないが、それは教師や警察にできなかっただけでなく、長谷川監督自身だってそのようなシーンを作ることはやっぱり不可能だっただろう。

これが小説の文章であれば、どんな設定もどんな行為も思いのまま実現させることが原則としては可能だ。もしも、小説という創作を規定し制約し、その結果その創作のなかに自らを映し込むものがあるとしたら、それは言語そのものだろう。小説の本質が言語であるように、映画にとっては、時代的で物理的な風景とか身体とか物体こそが本質なのかもしれない。この特有さがまた映画の面白さかな、とも思った。

 *

『太陽を盗んだ男』は公開時に映画館で観たはずだが、内容も存在もかなり忘れ果てており、今回たまたまビデオで観て、あまりの刺激にまじまじと見入ってしまった。現在はDVDが出ている。なお、先日「はてなダイアラー映画百選」で『田園に死す』について書いたが、今だったら『太陽を盗んだ男』を選んだかも。


2004.4.22 -- 胸算用 --

●iBookのキーボードに水がかかってさあ大変。あたふたした甲斐もなく、二つばかりキーが反応しない。嗚呼。もうdamepo。機械の病気は気合いでは治らない(いや人間の病気も)。 まさに覆水盆に返らずだ。 嗚呼。万札が頭の中をひらひら。 翌朝、対面修理のクイックギャラリー(渋谷)へ持ち込もうと、まず銀行から金を引きだす。 同じ失敗を過去にもしているので、恐ろしきその額が想像できるのだ。マシンの痛みより財布の痛み。まったく国民健康保険は使えないのかと、政府の無策を糾弾する。「いいよ、5万円のつもり貯金さ」。意味の通らない慰めに逃げこむ。●ところが、クイックギャラリーはサービス方式が変わり、今は交換部品を置かないらしい。したがって、自宅引き取り&宅配サービスのほうが便利でやや安いと教えられ、それを利用することにした。さて見積もり額のほうは2万1千円也。5万円台を覚悟したのは記憶違いだったか。気がつけば3万円の貯金ができた気分。何か買いたいものはなかったっけ、と少々浮かれる始末。●というわけで、ここ2、3日は別のマシンを使う。OSは同じだがクロック数が今どき250M。iBookは500Mだから、およそ半分か。たしかに「はてなアンテナ」も「アサヒコム」も表示がふだんよりちょっとずつ遅い。メール受信もちょっとだけ待つ。まあこれは今までも感じていたことで、インターネットとはこの「ちょっと」の待ち時間をクリックのたびに果てしなく積み重ねていく体験ではないか。これを全部足したら相当なものであり、ためておいてどこかへ持っていけば、たしか車イスがもらえたはずだ。


2004.4.21 -- 最低のわからず屋とは --

高橋源一郎が朝日新聞(19日夕刊)に書いた「どこかの国の人質問題」という文章が話題のようだ。●劣化ウラン弾の被害を調べたり、野宿の子供の世話をしたり、誤爆による民衆殺害を撮影したりといった活動をしていた人たちが、誘拐され人質にされ、解放された。その人たちが人生相談するという形式を借りたうえで、こう問いかける。《こわかった、死ぬかと思った。でも、やっと解放され、目の前に突き出されたマイクに「これからも同じ活動をしたいと思います」といったら、わたしたちの国の政府やマスコミやいろんな人たちに「反省しろ」とか「謝罪しろ」とか「迷惑をかけるな」とか「ふざけるな」とかいわれています。いったい、どうなっているのでしょう。わたしたちは問違っているのでしょうか?》●対する高橋の回答は、このバッシングを見聞きする鬱陶しさを、さっと一吹き一拭きしてくれるものだった。ちなみに結論は《こんな恩知らずの国のことなんかもう放っておきなさい》。●予想どおりとはいえ、私も源一郎氏とまったく同じ気持ちだと感じた。こうした意見もまたけっして少なくも弱くもないのかなと安堵したうえで、しかし、あえてあえてちょっと一言。●いま、イラクの武装勢力とやらを最悪の敵とみなす人が大勢いるなかで、彼らの声に精いっぱい耳を傾け共感できる余地を探ろうとする人もいる。人質になった5人はたぶんそうだろう。源一郎氏もそうだろう。私もまあ何もしていないが、どちらかといえばそうだ。●では、いわゆる「テロリスト」にかくも優しくなれる私が、どうして、「反省しろ」「謝罪しろ」「迷惑をかけるな」「ふざけるな」の「テロ」にだけは、かくも厳しく不快で最低の敵とまでみなしてしまうのか。そんないっそうへんな違和感が頭をよぎる。●外国人を誘拐し殺害も辞さない集団には、そうするだけのそうなるだけの理由があるに違いない。一方、「反省しろ」「謝罪しろ」の罵倒を辞さない集団にも、やはりなにがしかの理由はあろう。でもこっちだけは100%容赦なく殲滅すべきなのか? イラクの武装勢力と日本の罵倒勢力。それを並べて比べるのはナンセンスだ、とするのは常識だろう。しかし、いかんともしがたい熾烈な世情が自分の周りを覆いつくすなかで、殴りつけてもいい相手を必死に探し、筋違いのおそれを感じつつも、ただ「ふざけるな」と憤り暴れるしかない、そんな極まった情動において、両者が共通しているとは考えられないだろうか?


2004.4.17 -- 現実感の存在証明 --

日本人人質3人が解放されると、まだ2人の行方が知れないことをつい忘れる。しかもイラクでは戦闘によって大勢の人がどんどん命を落としてきたことも、もうおざなりにしか思い起こさない。だから今もこうして一段落した気分で書いてしまっている。私はそういう「現実感」のなかで日々を送っている。それを認めないわけにはいかない。しかし逆に、この「現実感」をもっと強く見つめてみることで、やっと解ってくることがあるとも思う。

日本政府は、自衛隊の撤退はしないと最初から断言し、そのうえで、ただ3人の国民のために方法はどうあれ底力と面子をもって可能なかぎり動いたように見える。「そりゃそうさ、どっちも当たり前だろ」というのが日本の常識・世界の常識だったのかもしれない。でも、国とは何か国民とは何か、その「バラバラ」ぐあいではなく「まとまり」ぐあいの強さというものに、私はこの事件を通して改めて触れた。正直そう思う。

だれもが知っているこの世の実状として、国というまとまりだけは相当に強固だ。○○県出身とか××会社社員といったまとまりとは違う。また、これほどのまとまりは国を超えた次元ではやっぱり見当たらない。だから、イラクで行方不明になった日本人を、かりに現地の政府(今は存在しないが)や国際組織が、あるいは出身地(道庁は親切そうだが都庁はどうかな?)や勤務先が手をこまねいていたとしても、日本国だけは余裕があるかぎり見放さない。大阪府の住民が福井県で雪山遭難したからとって、その救出に最終最大の責任を追うのが大阪府であるわけではないのと、好対照だ。もちろん今回は、いわゆる国益や軍事に大きく絡む事態だったろうし、そもそも政府は法に従うという大原則があるから、3人の肉親でもない総理や外務省が、内心苦々しく思いながらも金も労もいとわず任に当ったのは、これまた当然なのだろう。その揺るぎなさが私には「へえ」とすら感じられたのだ。「次はもう知らんぞ」と総理が言うのも、それでも動かないわけにいかないからこそだろう。

この揺るぎなさをもって「国あり国民あり」は証明できた。もう四の五の言う余地はないじゃないか。たしかに国際社会あるいは日本政府の「現実感」とはそういうものだろう。そうした「現実感」のなかに、アメリカのイラク戦略も日本の自衛隊派遣もあるのだろう(イラクの人がどしどし殺される事態とともに)。この「現実感」は日本人の多数が結局共有していることも、今回よくわかった。

いや、最初に書いた私の「現実感」だって、それとかなり似ている。繰りかえすが、国と国民の実相が今回こそありありと示されたと感じるのだ。しかしだからといって、この「現実感」が至上でも普遍でもないということも、やはりわざわざ考えてしまう。たとえばではあるが、もし3人が在日コリアンだったなら日本政府はどう動いたのだろう。マスコミはどう伝え、日本国民はどう思ったのか。また拘束した集団たちは、韓国人や中国人と同様に3人をすぐに逃したのか。それにも関わらず日本政府に自衛隊撤退を要求する、なんてことはありえないのか?(ふと映画『天国と地獄』を思い出した)

このように国と国民という唯一強固なまとまりを軸にした「現実感」。そして国と国、国民と国民との間では利害の対立や殺し合いすら避けられないという「現実感」。しかし、これとは違ったもう一つの「現実感」に立っている人たちも、やっぱり本当にいた。そのことも私は同じくらい「へえ」の気分で受けとった。今回の事件は、そちらの「現実感」にも改めて目を向ける機会だった。

一つはイスラムの人たちの「現実感」だ。日本や日本人とはかなり違った仕組みや感覚で成り立っている社会や人間が、どうやら確実に存在している。これまでさして知ろうとせず無いことにすらしていたかもしれないが、それほど単純にこの世は出来ていない。そのことを思い知らされた。そしてそのイスラムの人たちが、3人を日本人という理由だけで拘束し「焼き殺す」とまで述べたことは事実だが、「日本人は日本政府と別だ」「日本人は日本政府に自衛隊の撤退を働きかけてほしい」(趣旨)と明言したことも事実だ。それは半分はったりだとしても、私はそれ以上の重みを感じ取る。私たちの揺るがない「現実感」を揺るがすものがここに顔を出すからだ。だからといって、私がイスラムという法や「現実感」を生きているわけではまったくない。たとえば、女性をまず強姦の対象として見てしまうような代議士に強い反感を覚えるほどではないが、女性だけは殺してはならない(男性は殺してもいい)し握手すらしないという彼らの態度にも、ことさら同調したいとは思わない。

もう一つのオルタナティブは、やはり世界市民といった「現実感」だろう。それはおおよそ「プロ市民」「サヨク」と嘲笑され蔑視された人たちの「現実感」であり、人質になった高遠さんや今井さんやその兄弟も、同じ「現実感」を生きているように見える。それは典型的には以下のようなものだろう。やや長いが、『aml』のメーリングリストに投稿されたコリン・コバヤシという人の見解の一部だ(友人が転送してくれた)。

私たちは私たち市民としての可能な限りのネットワークを広げることによって、市民社会の連帯パワーの可能性を夢見させてくれたと思います。そのきっかけとなったのは、なんといっても今回拉致された三人の方々です。彼ら、彼女は日本政府が主張しているようなアメリカの大義のない戦争に 自衛隊を持って加担するのではない方法、すなわち愛情と友愛の原則に基づいて、勇気を持って関わろうとした数少ない方々です。(中略)政府が日本の大半の民意を代表しようとしないとき、市民は市民独自の判断で行動を起こす権利があります。そのことを実践したのが、これらの方々でした。そして、拉致したイラク人たちは、政府とは違う良心と愛に基づいた日本市民たちがいたことに気がついたからこそ、またそのような市民を無為に殺傷することはイスラムの精神に反すると説いた宗教指導者たちがいたからこそ、彼らは開放の呼びかけに答えたのだと思います。(中略)私たちはこの連帯と共感をより広げ、イラクやアフガニスタンやパレスチナなどの最も抑圧された民衆へと繋がっていくことを期待します。

高遠さんの弟さんが、しばしば「世界中の人たちが」という言葉を使うのが気になっていた。そういう「まとまり」の存在を揺るぎなく感じ、しかもその「まとまり」の力によってこそ姉の命は救えるのだと本気で信じているように見えた。これと対称的に、「日本の皆さん」や「日本の政府」との連帯に期待しているようには見えなかった。

こうした「現実感」は素晴しいと思う。心からそうあってほしいと思う。しかし同時に、疑いもまたどうしても頭をもたげてくる。今この世の中は、残念ながら、それほどきれいには出来上がっていないのではないか、と。きたなすぎる「現実感」を受け入れたくはないが、きれいなばかりの「現実感」にもなにがしか違和感を覚えるということかもしれない。

多数の国が拠って立ち日本もその仲間入りを果たそうとしている「現実感」。そしてそれに代わりうる、たとえば世界市民あるいはイスラムという「現実感」。私の「現実感」はそれらのどこでもないところを漂っているようだ。そのとき、日本政府の「現実感」だって世界市民の「現実感」だってイスラムの「現実感」だって、私の「現実感」と同じくらい幻かもしれないと言いたいのと同時に、それでも、このいずれもが何らかの「現実」によって産みだされてきたことは間違いないと言いたい。では「現実」は一つではないのか? 人間には「現実感」しかなく「現実」そのものを知ることは不可能だ、という原理は今はおこう。やっぱり、これらの「現実感」のうちどれか一つが最も正しく現実に立脚していると考えるべきなのだ。

自分の「現実感」をおろそかにしようとは思わない。しかし私は今それ以上に、ほとんど知らずにいたかもしれない現実そのものが知りたい。イラクは今どうなっているのか。アメリカと国連はこれから何をしようとしているのか。そして、日本人3人はどのような現実によって拘束され、どのような現実によって救出されたのか。それをぜひ知りたい。情報は必ずしも隠されてはいないだろう。


2004.4.16 -- この世は無駄に満ちている --

●文字入力プログラムの設定に拠るが、たとえば人名で「今田」と書きたいのに「今だ」か「未だ」が出てしまう。それがどうもしゃくだから、近ごろは裏をかいて「いまださん」と呼び込んで「今田さん」にしてから「さん」を消す。「内田」も同じだろうと、「家だ」「内だ」を避けるべく「うちださん」と勝負に出たら、なんと「打ちださん」と反撃され、半分むかつき半分わらう。こうなったら、「うちだひゃ」くらいで「内田百間(間の字は門がまえに月が正しい)」と一発変換できるよう文字登録してしまおうか、などと考えるこの頃だ。●以前勤めていた郷里の会社で、ある上司が温厚な風体でどことなくえびす様を彷彿させることから、部署のワープロを「えびす」と打てば「○○社△△局 ××××局長」に変換するよう設定しておいたところ、当の××局長自身が文書作成かなにかで「東京都渋谷区恵比寿…」とやろうとしたら、なぜか自分の名前が出てきて大いに首をひねった、という実話がある。●というわけで、内田さんの随筆集を最近またちびちび読み返しているのだ。これがまあ「シブおかしい」とでも言おうか、百間の魅力はちょっと古い壷や茶碗の世界に似ているのかもしれない。●「間抜けの実在に関する文献」「百鬼園先生言行録」等がその粋を極めると思われるが、それは改めてということで、きょうは「百鬼園新装」という掌編が面白かった。新装というのは、外出の服を貰いものの外套などでずっと済ませてきたが、いよいよボロボロになったので新しいのを買わねばならない。しかし金はない。さあどうするという話だ。それがなぜか教授室の場面になり、同僚が湯たんぽで手に火傷したという話を聞いていた百鬼園先生が、この事態は「水から火が出た」のだと考えるに至る。しかし物理の教師は「そんな事は出来ない」とぴしゃりと否定、「それは焼ける物体の発火点の問題ですよ」とたしなめる。化学の教師も出てきて「諸君、火と云うものを知らないから、そんな解らない議論をするのだ」と言うと、火傷の本人がここぞとばかり「知ってるよ君、火とは、さわれば熱いものさ」。すると「いや違う」と百鬼園先生、「火とは熱くて、さわれないものだよ」。しかしその帰り道、百鬼園先生と連れになった数学の教師が一言「さっきのお話は大変面白かったですね。しかし、水は物質で、火は現象ですよ」。●これを受けて百鬼園先生は、つらつら考えだすのだが、そこはもう引用するに如くはない。《百鬼園先生思えらく、金は物質ではなくて、現象である。物の本体ではなく、ただ吾人の主観に映る相に過ぎない。或は、更に考えていくと、金は単なる観念である。決して実在するものでなく、従って吾人がこれを所有するという事は、一種の空想であり、観念上の錯誤である。》●これでもう十分おかしい。だが真骨頂はそのすぐあと。長くなるがやはり直接味わっていただきたい。《実際に就いて考えるに、吾人は決して金を持っていない。少なくとも自分は、金を持たない。金とは、受取る前か、又はつかった後かの観念である。受取る前には、まだ受取っていないから持っていない。しかし、金に対する憧憬がある。費った後には、つかってしまったから、もう持っていない。後に残っているものは悔恨である。そうして、この悔恨は、直接に憧憬から続いているのが普通である。それは丁度、時の認識と相似する。過去は直接に未来につながり、現在と云うものは存在しない。一瞬の間に、その前は過去となりその次ぎは未来である。その一瞬にも、時の長さはなくて、過去と未来はすぐに続いている。幾何学の線のような、幅のない一筋を想像して、それが現在だと思っている。Time is money. 金は時の現在の如きものである。そんなものは世の中に存在しない。吾人は所油しない。所有する事は不可能である。》●私はもう、ありがたさゆえか、脱力ゆえか知らないが、ひたすらこうべを垂れるのみだった。しかもこれはまるで岩井克人『貨幣論』ではないか。いや、百鬼園先生の思索はそのような枠に収まりきるものでもない。なにしろ、この「百鬼園新装」など五編をまとめた題名が「貧乏五色揚」となっていることの馬鹿馬鹿しさなど、愛でる言葉がまったく思い当たらない。●現在、ちくま文庫から「内田百間集成」シリーズが続々刊行されているのが話題だ。私もいくつか読んでいて、『大貧帳』なんていう一冊もあった。でも今回は新潮文庫『百鬼園随筆』から。昭和8年に百間最初の随筆として出版されたものだという。芥川龍之介が百間を描いた図が表紙になっているところも見落とせない、というかいや、こんなもの見落としても本の中身と同じくちっとも構わない図、というか。●さてさて、金がないという困難は、ゆめゆめ生易しいことではありえない。それで人生や世界を呪ったりしても十分納得できる理由だと思う。しかしそれでもやっぱり、たかが金じゃないか。そうやって時にはふっと楽になってみるのも悪くない。たしかに金がなければ、冗談じゃなく死んでしまうのかもしれない。それでも、金がないからといって、いくらなんでも自分から先回りして死ぬことだけはないじゃないか。どうも「長生きしますね」と言ってやりたい内田百間だが、実際かなり長生きした。●『百鬼園随筆』 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4101356319/


2004.4.14 -- 映画百選 --

●この日誌を転載している「はてな」で、思い入れのある映画を各人1本ずつ100本になるまで次々に紹介していこうという企画があります。私も参加しました。何の映画を選んだかというと……→http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20040414


2004.4.12 -- 考える力がまったく足りない --

●「人質を盾にした言い分など絶対に聞くべきではない」は、限りなく正しく強いのか? 常にそう言い切るしかないのか? ――自分の不明や恥を上塗りするようだが、やっぱりそこをぐるぐる回っている。米軍の攻撃や自衛隊の派遣への反感は大いに関係するが、厳密には別のこととして。●考えは膠着。撤退もできず。

以下、特に心に引っかかった意見。

http://d.hatena.ne.jp/solar/20040411
http://d.hatena.ne.jp/kmiura/20040412
http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20040411
http://www.neats.org/(ありふれた事件 #65)
http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20040411


2004.4.10 -- 日本人人質事件について 追加 --

●浅田彰氏  http://dw.diamond.ne.jp/yukoku_hodan/20040410/index.html

●以下は、私が内輪のMLに書いたことから転載。

(1)

3人の命を救う手だてが
自衛隊撤退(への動き)しかなさそうであることは、
政府も予感していると思います。
それにもかかわらず、
その手だてだけは、最初から絶対無視しているように見えますが、
そこが私はどうも理解できないんですよ。
やっぱり、
アメリカとの関係や国際社会の常識といったものが、
そこにあるということでしょうかねえ。
しかしねえ、
今そこにある危機から救える可能性の高い人の命以上に、
そんなもの(アメリカとの関係や国際社会の常識)のほうが重いというふうには、
私は思いたくない。
(ダッカ事件はさておくとして)

テロリストに屈することだ、とも言い切れないと思います。
むしろこれを機に、
イラクやイスラムの武装勢力と日本政府が
独自に対話を開始できる可能性もある。

テロを克服するために、テロリストと対話するのは、
非現実的ではなく、とても現実的なのではないでしょうかね。

テロリストなんて、対話などもってのほか、撲滅するのみ、
と考えるかどうかで、
見解は大きくわかれてくるでしょうが。

(2)

日本政府が自衛隊撤退の可能性に少しでも言及すれば、
そのときは、彼らも約束を守る可能性は十分あると思う。
それは期限いっぱいまでになんらかコメントすればいいと考えれば、けっして遅くはない。

それにしても、この自衛隊撤退の要求は、
日本はどうせ応じないだろうと考えたうえで
あえて突きつけた、ということはないだろうか?
つまり、日本政府と交渉するつもりもコンタクトのルートもなく、
ただ「我々は日本を許さない。さあ日本よどうする」という問いを世界に伝えることだけが目的。
予想外に日本政府が少しでも動いたなら、それはそれで儲けものというような感じ。
そして、内心で予想したとおり自衛隊がそのままでいたら、
それみろ日本は敵だと、自らをいっそう奮い立たせることができる。
そしてまた、じゃあこの3人は殺してもしかたない、と言い訳もできる。

あるいは逆に、彼らが、もし本当に、無意味な人殺しを嫌うような集団であれば、
パフォーマンスが終われば、人質はそのまま解放する、という選択も、
まったく甘いのかもしれないが、ちょっと期待したい。
日本人を殺さないと気がすまないというアラブ人は、
米国人を殺さないと気がすまないというアラブ人に比べたら、
かなり少ないのではないかと思うので。

(3)

この際、自分の戸惑いも勇み足も顧みずに言うと――

自衛隊が行くことに、私は反対だったけれど、
国民の一定の支持があることを思えば、
その感覚のほうが正しいのかと考えることはあります。
少なくとも、日本や世界がそうした価値観で成り立っていることは、
認めざるをえない。

しかし、今回の事件を見ていて、
「自衛隊はなにがなんでも撤退しない」という決意
(理由は=テロリストの要求だから+自衛隊だから+国際貢献だから)
を、
ブッシュ政府はたぶん促すだろう、とは予想したけれど、
日本政府までが、まるきり同じ感覚で、
しかもこれほどすぐにその感覚をさらしてしまうということは、
私は意外だったのです。
それこそ福田赳夫の感覚のほうが、
私の感覚や日本人の平均的な感覚だと思っていたから。

こういう場合に、
「テロに屈して自衛隊を撤退せよと言うのではない。
 自衛隊はもとから撤退すべきだったのだから、今こそ撤退せよ」
という主張もあるけれど、本音はそうではないように見える。
少なくとも私は
「少々テロに屈してもいいから、3人を見殺しになんてできるわけないじゃないか」
というのが本音です。

人質と引き換えに自衛隊が撤退するような道理は存在しないのかもしれない。
そういう価値観で世界は成り立っていて、それは正しいのかもしれない。
それでもなお、
「3人を見殺しにはできないじゃないか」
という価値観もまた、独立して存在していると思うわけです。
どっちも正しいのに、一方だけの正しさだけが重んじられる状況は、おかしいじゃないか、
というのが、私の違和感かもしれません。
3人の命が危ういという状況は、
もう終わった話ではないのですから。

今「何でも言うことを聞け」とまで言えないとは思います。
もし仮に「3人の命と引き換えに、自衛隊はアメリカ人を殺害せよ」という要求なら、
そのときは完全に出口がない。
それに比べたら
「自衛隊の撤退くらいやれよ」と思うわけです。

(4)

こういうやり方(大使公邸の占拠とか、日本人の人質)をする集団がない世界であってほしいけれど、
こういうやり方をする集団がやっぱりあるのが、この世界であるように、
こういうやり方(ただ抹殺してしまうこと)をする政府がない世界であってほしいけれど、
こういうやり方をする政府がやっぱりあるのが、この世界だなあ、と
空しく思うばかりですね。


2004.4.9 -- テロ問題なのか、自衛隊問題なのか --

もしこれが「一人100万円、計300万円よこせ」
という要求だったとしても、
「テロには屈しません」として
無視するような神経の持ち主しか、
日本政府にはいないのではないか?
いや、さすがにそうではないのか。
とすると、
自衛隊の撤退だけはなにがなんでもしない政府なのであって、
テロにだけはなにがなんでも屈しない政府なのではないことになる。
もっといえば、
アメリカ政府にだけはなにがなんでも抗しない政府なのかもしれないが、
まさか今なお全くそういうことなのだとしたら、
それはいくらなんでも、テロに屈する以上に、アホらしい。


2004.4.7 -- 宇宙も思考も晴れ上がりそうで、なかなか --

池田清彦に言わせれば、ビッグバンなどという超自然の神秘現象を信じるのだってまあオカルトみたいなもんだ、ということになるらしい。「言えてるかも」と思いつつ、佐藤勝彦宇宙96%の謎――最新宇宙学が描く宇宙の真の姿』(実業之日本社)という本をぱらぱら読んでみる。「インフレーション宇宙」というのを唱えた一人がこの人で、ホーキングの著書なども訳している。96%とあるのは、この宇宙が「暗黒物質」など全く正体不明のものに満たされていて、我々が知っている通常物質はたった4%に過ぎないという話からきている。そうした新しい研究が絡んで、ビッグバン理論も今や思いのほか複雑で難解になっているようだ(そのもっともらしさがよけい怪しい?)。●それにしても、宇宙が風船のように膨張していると聞けば、「じゃあその外ってのはどうなってるわけ?」という疑問は誰しも一度は浮かぶだろう。また、宇宙がまったく何も無いところから生まれたと言われれば、「でもそのとき、何も無いということ自体は有ったのでは?」と首をひねり、「いやいや、無いというのは、有るとか無いとかいうことそのものが無いんだよ」と一人問答が終わらない。かたや、真空というのは無ではなくエネルギーに満ちているんですよと言われたりして、ますます混乱する。●とはいえ、私も結局ごく平凡にオカルトはまったく性に合わず、はっきり「科学」を信仰しているのだけど、その一方で、たとえば宇宙の「外」とか「前」といった問いを発してしまうことを通じて、言い換えれば「宇宙にしろ物質にしろ、有るとか無いとかすらはっきりしない不思議な現象のようだけど、そうした現象自体は、どうしたって生じているわけで、だから、少なくとも今ここに、なにかは有るのであって、まったく何も無いのではないだろうという、そのことそのものが本当に不思議」ということを通じて、私はやっぱりどこか「*」を信じているように思う。

デカルトさん。「あれこれ思っている私っていうのが、なんでか知らないけど、そもそもあるんだよねえ」という不思議から始まって、その不思議をずっと大切に考え続けていったところ、なんと「あっそうか、だからほら、どうしても神があるってことになるじゃないか!」というところに至った人。先日そのルートをさして期待もせずたどり直してみたところ、意外にも切実な思考手順だったので驚いている。●それが『デカルト――「われ思う」のは誰か』(斎藤慶典・NHK出版)。薄っぺらな入門書だが、考え悩んでいる神経の一本をすっと引き出してくれるような語りだ。「我思う」の「我」を、「なにかを感じたり思ったりするもの」ではなく「なにかを感じたり思ったりすること」と捉えたところがミソと思われる。●それで最後にどうなるかというと――。《かくして、「われ思う」に外部は……。「われ思う」には他者は……。「私」はここに続けうる有意味な言葉を持たないのだ。これが唯一可能な「他者(すなわち外部、すなわち神)の存在照明」であることを示したのである。どういうことか》。どういうことでしょう? それは同書をぜひ。べつに秘術ではなく出版物なのだから、言語として再現可能かつ客観的。「死んだものとの対話」として始まる「哲学とは何か」という序章がまた異様だった。ひとりきり細道を行くという迷いのなさが、永井均風。

●そんなわけで、デカルトは考えを詰めに詰めていってふっと思考不可能な壁に行き当たってしまい、しかしそれを通じてこそ触れられる不可能な何かに思い至った、という構図だろう。これはやはり、ビッグバンのことを考えていて「宇宙の外部」とか「無いものが有る?」などという屁理屈のなかからふっと深遠な世界が覗けたような気がすることと、まあ重なってくる。そこに感動もする。ところがしかし、これがまさにあの「否定神学」という落とし穴なんだなと、そんなふうなこともまた強く思うのであった。●というのも、このあいだとうとう、東浩紀存在論的、郵便的』を読破した。最後はこういう結末だったのか……。この本が出版された99年、紀伊国屋ホールでシンポジウムがあった。その席で東氏は、松浦寿輝がこの本の書評かなにかを書いたことにふれ、でも松浦さんはたぶん僕の本を最後まで読んでいないはずなんですよ、といった趣旨のことを述べたのを覚えている。その意味がやっとわかった。また、浅田彰は『構造と力』がついに過去のものになった、というもてはやし方をしたが、実際にはこれ柄谷行人を超えた本と言ったほうが正しいだろう。『構造と力』はデリダをほとんど扱っていないし、柄谷の著書や『存在論的、郵便的』のように論をつめた根をつめた魅力とは質が違う。この本については今後もずっと考えることになりそうだが、荷が重すぎるとは言える。●ちなみに、宮台真司が『存在論的、郵便的』を評した、だいぶ昔の談話がウェブ上にあった。同書のテーマはルーマンなどの社会システム論がとっくに指摘していたことで、べつにさほど新しくないよ、とか言っている。是非の判定はまったくできないが、とりあえず参考までに。

●さてさて、この日記で何が言いたいのかというと、「私は『存在論的、郵便的』も無理やり読んでしまうほど勉強熱心だ」ということです。●……すいません、ココロ社』が独自に開発した口調を無断使用しました。素晴しい発明品です。それに比べたら、青色ダイオードなんて目じゃないよ。ついでながら、有名になった「Google八部(の刑)」という造語も画期的だった(『圏外からのひとこと』)。でまた予言どおり、『悪徳商法マニアックス』がほんとに一部「Google八部」になったとかいう話も、聞き捨てならない。それこそGoogleシステムにとっての神秘なるシニフィアン?


2004.4.3 -- ネット言論にも対幻想あり、とか? --

●草ナギ剛と木村拓哉の演技の比較について、たとえば北海道の人と沖縄の人がすらすら論じ合えるのは奇妙なことだが、家庭の食卓においても、人間や社会の実相にいくらか迫った会話が成り立つとしたら、会社や学校や近所の出来事や人物を通してではなく、こうしたテレビやニュースの題材を通してであることが多い。●『kom's log』に《吉本隆明タームを使えば、対幻想と共同幻想がテレビ的なるものを通じて著しくオーバーラップしている》とあったのは、こうした事態をめぐっているのだろうと理解している。●kom's logは、この事態をさらに絶妙なたとえで解説している。《みんなテレビのスクリーンに向かっているー各シートに小さな液晶スクリーンがついているJALの国際線のような世界で、隣人よりもスクリーンの中に親しい世界がある。あるいは、満員電車で背中に感じるおねーさんの乳房を感じないふりしてウォークマンを聞きながら文庫本に集中しているうちに本当に乳房を忘れてしまう私》。●しかし重要なことは、これを逆にひとつの可能性に転じようとしている点だ。この事態にも関わらず我々は《満員電車で背中に感じる乳房に、うれしいけどこまったな、とすくなからず悩む自分》であることも可能だ、というふうに。つまりこの事態はなにも《国の話を家族的な感情を投影してしか理解できない、ということではない》というわけだ。そしてこれを《「長期で安定的な関係」@id:solarさんの問題提起》にもつなげている。一方で《逆に言えば、今はやりのセキュリティは「おねーさんの乳房を背中に感じないシャツ」を提供してくれるのだろう》と楽観できない状況にも目を向けている。●我々の言論環境は、今やテレビでもネットでもそれこそ満員電車なみにぎっしり鬱陶しいものになっているが、たとえばこうした指摘の感触こそ、まさにその背中に感じた僥倖と呼ぶべきだろう。いやもちろん言葉はあくまで身体ではない。それはそうなのだが、言葉がこうして現(うつつ)として触れてくる瞬間が、ブログにはごく稀にある。そしてこの体験は、他のほとんどの言葉が幻であること、言い換えれば、液晶スクリーンの窓から眺められる言葉でしかなかったことを、思い知る瞬間でもあるのだ。●ちなみにこれは、六本木森ビルの事故について『極東ブログ』から発した議論がネット上で高速回転しているところを、私の頭は通り抜けできず挟みこまれてやっと停止した地点でもある(?)。●それはそうと、イラクで米国人が殺され燃され吊るされたという例のニュースだが、これだけは、一般の戦闘のニュースと違ってなんだか背中に直に触れてくる。さあそれはなぜだ。


2004.4.2 -- 科学の素、科学論の素 --

●科学は普遍でも万能でもないことが、意外にもオカルトとの対比によってさっくり示される。そんな一冊。池田清彦科学とオカルト』(PHP新書・98年)。●池田は、錬金術などのオカルトが19世紀に大衆化されて科学が生まれたのだと見る。その際、技術や理論に公共性が求められた結果、オカルトの私秘性が解き放たれ、もはやオカルトとは言えなくなって科学と呼ぼうというになったのだと言う。●かくして科学はオカルトとは正反対に、客観性と再現可能性をなによりの条件とさせられた。しかしこれは科学の限界を示すものでもあるとも言える。たとえば、私が数十年後に老化することを科学は予測できるが、その時私がどんな病気にかかっているかは予測できない。なぜなら、老化は誰にでも繰り返される現象だが、ある時ある所である人にある病原体が取りつくのは一回限りの出来事なので、科学はあずかり知らぬというわけ。《我々は自然の中から、くり返し起こることを見出して、それを法則という形式で記述したのだ。くり返さなかったり、たった一度しか起きないことに関しては科学は無力なのである》。科学は万能であると思いがちだが、こうした特性や由来を思い出せば、そんなことは土台無理だと知れるわけだ。●しかも、事実を客観的に記述するとか、同一の現象を再現するとかいうことも、厳密には不可能なのだと池田は説く。たとえば、我々の周囲にある水は完全なH20ではないが、そこからH20という同一性を引き出して説明すれば、さまざまな水の共通性を説明できる。でも東京の水と富士山の水のおいしさの違いは、H20という同一性では説明できない。また《利根川がどういう川であるかは、利根川の水をいくら分析してもわからない。一枚の絵や一枚の写真のほうが、はるかに利根川の雰囲気を伝えるだろう。実際に利根川を見れば、利根川がどういう川であるかは、一目瞭然であろう。しかし、この「一目瞭然」には再現可能性はない。だから、このわかり方を科学は説明できない。》なるほど〜。さらには、科学が事象の因果関係を解明するというのも錯覚であり、対応関係を示すだけだということを、DNAと病気の関係まで含めて大胆に言い切っている。ここも深く考えさせられた。●なお、オカルトは導入に使われるだけではない。現代の科学があまりに難解になり細分化され日常から乖離していること、そうなるとむしろ人々は科学の限界を忘れて無闇に信奉してしまうこと、それらがまるでオカルトみたいだという、皮肉だが明白な様相もまた指摘される。●すっきりした理屈、はっきりした口調。池田清彦の文章はいつもそうだ。この前読んだ『やぶにらみ科学論』(ちくま新書)などは漫談に負けないほど笑えた。今回も軽妙かつ平易だが、それでも、科学主義の本性を見極め相対化するという池田のおそらく主たるモチーフが、同書には不足なく盛り込まれているように感じた。しかも、オカルトという絶妙の支えを得ることで趣旨はいっそう鮮明になったのではないか。

●さてこのように、現代の科学がキリスト教の神に代わるほどの位置にあることは、いわゆるポストモダン系の科学論が再三あばいてきたようだ。しかし、科学批判であった科学論も、いつしか陳腐な批判科学に堕し非科学化すらしたらしく、そんな中、たまりかねた「科学」の陣営が「科学論」の陣営に逆襲した。それがソーカル事件ということになろう。詳しくは知らないけれど、その逆襲はどうもトロイの木馬みたいな戦法だった(美しいのか汚いのか)。●同書も前書きでこの事件に触れており、池田は科学論者の側であることを自認しつつ、科学者の寝首をかくはずの科学論者が逆に寝首をかかれたと、この事件を評しているあたりがまた面白い。しかしながら、科学の難解さを反映するせいか、科学論の多くもまた難解で一般人はそうそう近づけない。だったら近づかなきゃそれでもいいが、うっかり近づいてそれこそ訳もわからずどちらかの陣営の鉄砲玉になってしまいそうなところがまた馬鹿馬鹿しい。そういうとき、池田本のような実にあっけらかんとした科学論は、入り口としてかなり貴重だ。科学の原理も科学批判の原理も、この本を読むかぎり、全然ややこしいものではない。●この正統的な自然科学とポストモダン的な科学論の対立は、前にも言ったが『経済学という教養』(稲葉振一郎)が書かれた事情にも絡んでいる。また、『責任と正義』(北田暁大)が、旧来の政治学的な言説を脱するための社会学的な言説と、さらにそれを脱するための政治学的な言説との間を往復しなければならなかった背景も、これに似た構図だと思われる。なんというか、ものごとの説明や納得という土地をどっちの陣営が覆い尽くせるかの合戦か。「ソーカルの変」で形成は逆転したものの、両陣営とも撤退したわけではなく「とろ火の戦争」は半永久的に続くのかも。●では「お前はどっちの味方だ」と問われても、よく分からない。足軽にもなりたくない。ただ、たとえば宇宙の果てとか脳の仕組みについて、誰と語りたいかという問いなら答えられるかもしれない。でもそれは人の選択であって陣営の選択ではない。●ということで池田清彦さんはどうか。彼はこうした質問は予想どおりあっさり片づける。《科学はもともと、科学という方法によって説明できることしか説明できないし、世界には科学で説明できないことの方がむしろ多いのである》。だから「地球はなぜこのようにあるのか」「私が生きる意味は何か」なんてことに科学はもともと関知しない。科学にそれが分からないのは、八百屋や株式市場にそれが分からないのと同じなのだと言う。それなのに、現代人はすべてをコントロールしたいという志向があるせいか、すべてをコントロールできる科学という幻を求めてしまう。《しかし、自然現象の大半は、一回性のものであり、科学がコントロールできるものでも手におえるものでもないのだ。コントロール可能な世界にだけ住んでいると、時に人はそのことを忘れる。ふだん、それを忘れている人は、ある時自分の「心」と「体」がコントロールできないことを知って、あわてるのである。でも、自然のほとんどは、科学の説明の埒外にあるのである》。しかし私は、なぜだろう、こういう割り切りをしつこいほど弁えた池田清彦という人にこそ、「死んだらどうなると思います?」なんてことをとことん尋ねてみたい。あるいは科学ということの本当の不思議について、もっともっと話を聞いてみたいのだ。

●今に始まったことではないが、あまりに脈絡なく本を選んでいるので、ここにも脈絡を欠いて本の紹介が出てくる。それと、他にもいろいろ読んでいるのだが、新書はまとめやすく、つい先になる。PHP新書って特に素早く読めるように思う。『歴史学ってなんだ?』(小田中直樹)もそうだった。本の分厚さと不釣り合いに感想が長くなるのも、どうかとも思ったが、まあしょうがない。


2004.4.1 -- 4月1日 --

●転石 苔むさず


04年3月

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