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▼日誌
    路地に迷う自転車のごとく

迷宮旅行社・目次

これ以後


2004.9.26 -- 労働者諸君! --

http://d.hatena.ne.jp/TRiCKFiSH/20040914#p1によれば

《日本では正社員の既得権益護持のために、「雇用の流動化」とか言われている》だけ。
しかも《非正規雇用者が正規雇用者になるための門戸は、とても狭い》。

その一方、
http://www.nikkei.co.jp/news/main/20040923AT1F2201J22092004.htmlによれば

《人数の減った正社員の労働時間は逆に長くなっている。》

そんななかで次のような声もある。
http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20040923#c

《ある業界の労働者がストをしようとしたり、公務員の労働条件待遇改善が話題になるたびに、もっとひどいとのがあたり前といって批判し、勤労者どうしで足の引っ張り合いをしている日本の構図》。(fenestraeさん)

さらに《公務員に対してなど、「おれたちはこんなに苦労してるのに、あいつらは許せない」みたいな敵意は、ほんとにすごいですよね。「勤労者どうしでの足のひっぱりあい」という雰囲気、強まっているように思います。》 (sarutoraさん)

上記を的確にまとめているのが
http://d.hatena.ne.jp/flapjack/20040925
そしてこう問いかける。

《イギリスに住んでると(…)日本は消費者でいるには天国だと思うけど労働者をやるにはきつい国だとやはり思わざるを得ない。》

《そういう意味で、プロ野球での選手会のストとそれに対する人々の支持というのはかなり大きな変化ではないか、と思ってる。けど、そこはどうなんでしょうかね。》

 *

いずれも非常に胸にしみる議論だった。
これについて二言、三言。

プロ野球選手のストライキとその勝利は画期的だったと思う。それにしても、私(たち)は要するに他人の年棒(推定○億)を守れとエールを送ったわけで、ゲームと勘違いしているんじゃないかと思うほど立派なこの心がけは、いっそう画期的だった。じゃあ今度は、外野からではなく当事者として互いを叱咤激励しようではないか。「自分らのリストラだって宿命などと諦めず闘おうぜ」と。日本の労働者諸君(私のこと)は、自分のことになると妙に物分かりよく潔くなってしまう傾向があって、給料が下がろうが馘になろうがデモやビラの一枚すら意地汚いような気がして思いもよらないように見える。
(参照 ◎http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20040908/mng_____tokuho__000.shtml

かつて中国を旅行したとき、国営のホテルや食堂、デパートでは、社会主義の慣習が十分残っていたのか、いわば「労働者は天国、消費者は邪魔者」だった。このカルチャーショックを共有する者どうし「中国人民=社会主義=人間以下のバカ」呼ばわりするのが、旅行者のマゾヒスティックな楽しみでもあった。私も半分以上それに同調したが、それでも「労働者が商品ケースの上に丼を乗せて食事しながら客に物を売ってやる中国よりも、お客様という神様に対して労働者は笑顔を絶やさず過労死の覚悟すら辞さない日本のほうが、よりマシな社会であるとは到底思えない」という気持ちも強く残っている。

ここ10年ほどを眺めたかぎり、私たちの多くは「過労死してでも正社員」という価値からどうにも抜け出せないし、その価値を疑いすらしないようになってきたと思う。これが悪い方向かどうかはさておくが、どうみても日本はこの先当分この方向に転がるばかりだろうという嫌〜な予測はつく。そんななか、自分の惨状には手も足も怒りもグーの音も交通費も残業代も出ないような水飲み労働者諸君が、どういう了見か、プロ野球の高額所得の維持には本心から走り回った。それと裏腹に、《公務員に対してなど、「おれたちはこんなに苦労してるのに、あいつらは許せない」みたいな敵意》を持ったりもする。しかし、こういう錯乱のようなエネルギーでしか、沸き立つ感情や信じられる思想を得られないのが、私たちの現状ということではないか。

もはやこうした錯乱をうんと増幅することでしか、この流れに逆うほどの変化は起こりようがないという気がしてしまう。でもそれはつまり「テロを待ち望む気分」ということなんだろうか…。いやダメだ、自分の首切りもよくないが、他人の首切りもよくない! 

 *

追記
http://d.hatena.ne.jp/toni-tojado/20040926

《皆さんの会社にPCはありますか。自分のPCであったなら出社時、退社時に自分宛てにメールを打つことをお勧めします》!

サービス残業に抗する、実直にして怜悧な方法!


2004.9.25 -- 村上春樹『アフターダーク』 --

それほど長い小説でもないのに、感想がこれほど長くなるのはちょっとおかしいんじゃないかと思いつつ、このさい村上春樹についてずっとわだかまっていたことを、洗いざらいぶちまけることになったのは、よかったかもしれない。馬糞がたっぷりとつまった巨大な小屋、というつもりでは全然ないのだが…。村上春樹『アフターダーク』を読んで


2004.9.20 -- 人類の進歩と難儀 --

●「文学理論」を知っている人というのは、「ロシアフォルマリズム」「ニュークリティシズム」に「精神分析」「マルクス主義」ときて「構造主義」「ポスト構造主義」さらには「フェミニズム」「ポストコロニアリズム」…といったぐあいに、数々の難しげな流派の名がスラスラ出てくるような人を指すのだろう。こういうのが心から好きという人もいるが、こういうことの全てが「超マジうざいんだけど」という人もいる。もちろん棲み分ければいい。ただ問題は、すでに十分知っている人と、あまり知らないのでぜひ知りたいという人が、どうも幸福な出会いをしていないのではないか、という気がすることだ。●そんななか、岩波「1冊でわかる」シリーズとして出たジョナサン・カラーの『文学理論』は、明晰で簡潔なガイドをしてくれて、ありがたい。「あまり知らないのでぜひ知りたい」一人として強くお勧め。●このところ「小説って何?」という素朴な声を私はちょいちょい上げている。「小説が何ものであり、それを書いたり読んだりすることで何が起こっているのかについては、新聞やビジネス文書や年賀状に比べたら、まったく分かっていないし考えれば考えるほど分からない」など。こんなのはいわば幼稚園児なみの問いかもしれない。しかしこの『文学理論』は、そうした愚直なところから掘り起こし、最終的にはおそらく大学院生なみの議論にまで連れていってくれる。●なお、文学理論の対象は文学作品にとどまらない。文化的なものごと全般を大胆に斬新に斬っていこうなどと目論んだ場合、今や馬鹿みたいに広く活用されているようだ。さらに肝心なのは、ものを考えたり学んだりすることの基盤が1960年代あたりから様相を一変させたと言うその全貌に、これらが密接に関わっていること。というか、一変した様相の実体がつまりこれらの理論なのだ、と言ってもいい。こうした他人事ではないはずの事情も、知っている人は知っているが、知らない人は知らないのだから、それも噛んで含めて解説することになるこの本は、とても重宝する。●そして具体的な理論、雑ぱくに言えば「我々は文学をどう読んでいるのか、読んでしまうのか、それらをすっきり自覚させる理屈のいろいろ」をコンパクトに総覧していく。短い本に合わせてか冗長さを徹底して排した語り口なので、ときどき頭が過熱して焦げるような感じにもなるが、ちゃんと着いていくなら、結局どれも自分が小説を読んでいてふとぶつかるような原則的な疑問なのだと気づく。だから文学理論とは、読書の楽しみをいくらでも広げてくれるツールなのかもしれない。●いや、だが実は、それが楽しみかどうかは、はなはだ疑わしい。なにしろ著者自身、文学理論についてこんなふうにぼやく。《結果として、理論は恐ろしげなものになる。今日の理論の特徴の中で人をいちばん愕然とさせるのは、理論にはきりがないということである。それはおよそマスターできるような代物ではないし、「理論を知る」ために学べる特定のテクスト群があるわけでもない。》《理論に対する敵意のかなりの部分は理論が重要であることを認めてしまうと際限なくかかわるしかなくなり、いつまでたっても自分の知らない大事なことが残っている状態に身を置かねばならなくなることから来ている。》 ただ、それに続けてこうも言う。《けれども、これは人生そのもののありようにすぎない。》●むかしは世界文学全集などを書棚から出して黙って読んでいればそれでよかったのに。と悔やんでも人類はもう遅い。


2004.9.18 -- 日本恋愛大賞 --

●『彗星の住人 島田雅彦が、作家人生の総決算というほどの意気込み(「あとがき」に窺える)で世に問うた3部作の第1弾。日本という国家の100余年は、その越境と混血の可能性のなかに、かくも甘美なロマンを秘めていた! 国民の皆様には、ともに培ってきた教養や発想あるいは陶酔の平均値をもって、ちょうどこれくらいの小説を十二分にかみ砕き味わっていただくことを、希望します。――というわけで、かりに小説嫌いであっても日本嫌いでなければ、明らかに楽しめる一冊。しかし、あまりに出来の良いエンターテインメントと言うべきか。それが面白すぎる自分の俗っぽさには、しかし、醒めるより酔っていたいところ。83点か38点か、迷う。●《恋はむしろ、恋人たちの死後に開花する。恋とは、恋人たちが想像し得なかった未来に向けられた終りなき願望なのだ。》

●理屈もいろいろ(人生も) 「言語の思想」@『ネ タ の タ ネ』●一口に「理屈」(論理というか)といっても、使い方は「いろいろあるよね、ほら」という、まったりくっきりの名解説。●まずはよく話題になる「日本の理屈/欧米の理屈」。その差がどのような動機というか性根から来ていたかを抉っている。だから日本の民としては、「なるほど〜」より「すいません…」という思いが先に立つ。私にとってツボだった部分を、乱暴に切り取ると――●《…ことさら呼応相手に謙譲の美徳を発揮して過重配慮する為(それが承認してるよという相手へのシグナル=陰喩作法となる)に「断定」をさける話法になる。なにを謙譲してるのかといえば、発話内容と〈個〉に隔たりをもうけて責任を避ける為だ。》●《第一に「謙譲」して相手のことを全面的に受け入れることで自己を消す、第二に消した自己を先に「謙譲」というカタチで承認した相手に自己を受け入れてもらう。こういう双方向の流れがあってはじめて、相互承認の互譲性コミュニケーションは、互いの(言葉になっていない)真の意図を達成する。》●「これってオレのことじゃん!」 そう反省するのは私一人ではないはずだ。●この態度はまさにブログに現れる。いや断っておくが、なにか書こうとする段階の動機は決してそうではない。むしろそうであるまいとして書き始めるといったほうがいい。ところが、にもかかわらず、実際に文章を書いてみると、その文章はなぜか自動的にそのような動機をまとってしまう。イヤだイヤだと思いつつ、書き直せば書き直すほどよけいそうなっていく。●しかも、この態度の頂点に君臨するのは――●《そぉんなことに最強の日本語話法は、「官僚答弁」だったりする(苦笑)。アレは確かに「オレを認めろ」アイデンティティはないが自己の意見もない。ひたすら属するハイコンテキストの意見だけがある。そのハイコンテキストの意見と自己をびったり同調させつつ、絶対しっぽをつかませないような立ち位置バリアでくるんでるトコが、いかに波風たてずに文意を納得させるか、一番やっかいな人格批判を退けるのに最強なんである。》●とほほ。私の役人嫌いは近親憎悪だったかも。●次は「筋肉の理屈/頭脳の理屈」。ちょっと意表を突かれるが、実はいっそう身近であり、これを見過ごすと世の中は分からなくなる、といった重要さすら感じた。●たとえばスポーツには、勉強の理屈とは顔が違うけど、ちゃんと理屈はあるよという話だ。しかも先のオリンピックの勝ち負けも結局そこに結びついていたのでは、という分析。さらに面白いのは、でもスポーツはその理屈を見せるためにやっているわけじゃない、という指摘。というか、理屈を見せるのが目的の仕事なんてこの世にはあまりないよ、だからこの筋肉の理屈は勉強の理屈よりずっと汎用性を持つのでは、という結論にも、深く納得。●最後は伝統の一戦とでもいうべき「英米の理屈 VS 独仏の理屈」。その7回裏あたりの攻防と戦略を実況する、といったふう。


2004.9.16 -- いや私も野上のヒゲは忘れていない。あと8500万円も。 --

極東ブログ 04.9.16●「日本政府」とは「官僚御殿」という意味なのか。そういえば、大使は「閣下」と呼ばれる(呼ばせる?)らしい。諸外国にあっては「俺が総理、いや天皇(の代理)だ!」なのかも。まあ好きにすればいいが、内国民はべつにそう思っていないから。税金泥棒を蔑むのみ。●当時を懐かしむ →冗談1  冗談2 


2004.9.15 -- 書を捨てよ、ネットにこもろう、田口トモロヲ --

高橋源一郎が若手作家5人にインタビューし、自分の言いたいことも余すことなく盛り込んでしまった感のある『広告批評』(8月号)は、ときどき読み返す。「え、なんでそんなところ?」と意表をつくツボが、押してみればどれもみごとに「うわあそれだ、そこそこ!」の快さ。やはり「さすが」と言うしかない。平野啓一郎への質問がまた、「で、まずちょっと聞いてみたいのは、これ、あんまり聞かれないと思うんですけど、書いてて楽しいですか?」の一押しで、その刺激はまさに脳天に達す。もちろんそこは平野啓一郎の、実はものすごく凝っていた、ナマっていた部位に違いなく、それがまずほぐれたせいか、デビュー以来の創作の驚くべき壮大な魂胆が自然と口から漏れはじめる。●5つのインタビューとも、小説を書く者どうしの共感なんだろうなというものが、端で聞いていて羨ましいほど横溢してくる会話。しかもやっぱり高橋源一郎という人は、とにかく小説が好きで好きで仕方ないのだなということがありありと感じられ、こっちまで「よ〜し、小説なんでもOK!」という爽快な気分になる。●さて、もちろん小説とブログでは、ハンマー投げとテコンドーほどにも異なった種目だと思うが、こういうブログをともあれ書き続けている私も、他の大勢の人たちも、「楽しいか、好きか」といわれれば、少なくともみな好きでもないのに書いているわけはないだろう。その規模を思うと、なんとも奇妙な道具というか媒体というか仕組みというか、このヘンテコな玩具、歴史上あまりに性急にあまりに一斉に与えられたものよ…。

●それとは関係ないけれど、このところ大岡昇平の「俘虜記」と「野火」をまとめて読んだ。新潮社の古い日本文学全集で、A5判という手ごろな大きさ。それでも表紙は丁寧に布が張ってあり、さらに赤い箱に収められている。それが近くの古本屋の100円ケースに揃って並んでいたので、つい一冊買ってしまい、あまつさえ、つい読み耽ってしまった次第。●戦地の体験がきわめつけの特殊であるとしたらまずはこういうことなんだろう、それを実際に反映させた場合の戦後文学の代表格とはこういうものなんだう、それを強く納得するとは、こういう読書をさすのだろう、という感想。●ところでこういう小説は、「書いてて楽しい?」なんていう質問は最も憚られるのか。しかし、死屍累々の敗走を「好き」という人はいないにしても、そのことを大岡昇平は結局は「好き」で書いたのだ、という確信もまたある。それを思うと、高橋源一郎のインタビューで、小説がつくづく好きじゃなくて書いているとためらいなく言っている中原昌也には、「野火」以上にめまいを覚える。現代は確かに特殊な時代だろう。しかし戦地をしのぐほど特殊かというと、そこはなお言いよどむ。それでも現在の小説書きという所作には、なにかいっそう空前の特殊事態が迫っているのかと考え込ませる。

●それはそうと、このあいだ、経済も言語もまずは「交換してみること」が大事、などと書いた。この古ぼけた旧仮名遣いの『大岡昇平集』も、誰か知らないが押入れに貯め込んだり燃やしたりせずに、たった100円でもこうして交換を促したおかげで、私は読まされるハメになった。ありがたい。しかしながら…、著作権は嘆く「僕って何」?


2004.9.13 -- 木を見る西洋人、森を見る東洋人 --

●「パンダ、サル、バナナ」のうち近いもの2つを選べ。そう言われて、私なら「そりゃサルとバナナでしょ。関係があるから」と思う。ところがそうなるのはアジア人ゆえであり、アメリカ人の多くは動物という属性からパンダとサルを選ぶらしい。また、水槽に魚が泳いでいるアニメを見せたあと、何の映像だったかを報告させたところ、アメリカ人は「大きな魚がいました。多分マスだと思います。それが左に向かって泳いでいきました」などと語り始めたのに対し、日本人は「池のようなところでした」などと第一声で述べ、背景の草などにも注意を払ったという。●こんなふうに、西洋人と東洋人でものごとがどれほど違って見えているのかを、数々の心理学実験で裏付けていく一冊、『木を見る西洋人、森を見る東洋人』(リチャード・E・ニスベット、村本由紀子訳)。同書によれば、両者の違いは「西洋人は分析的、東洋人は包括的」など、きれいに整理できる。その隔たりは知覚の特性から思考の様式、社会の選好にまで及んでいて、驚くばかりだ。これが古代のギリシアと中国の思想や文明にも関連づけて論じられる。●私が最も感慨深かったのは、「西洋人はこの世界を直線だと思い、東洋人は円だと思っているのではないか」という指摘。西洋人はどうも、人間はまっすぐ進んでいるのであり、やがてユートピアに達してそこは永遠不変と思っているらしいのだ。それに比べれば、私(たち)は、苦あれば楽あり、山あり谷あり、驕れる者は久しからず、いま良くてもまた悪くなる、そういう無常観にやはり浸っているのではと気づかされる。加速的に上昇するグラフを見せて続きを自由に描かせても、西洋人はそのカーブの勢いのまま先を続けるのに対し、東洋人はカーブを緩和させたり逆に下降に転じるようにするという。アメリカ人である著者は、こうした東洋の世界イメージに驚くのだが、逆に私は、西洋の世界イメージをじっと自分の身に置き換えてみて、ああそうかアメリカ人とはこうなのだと納得するとともに、そこにある違和を改めて実感する。面白いものだ。


2004.9.10 -- 世界を正しくやりくりするために --

岩井克人がグローバル経済について面白い視点を示している。『インターコミュニケーション』50号、島田雅彦との対談。先日まとめた柄谷行人の視点(新潮8月号 福田和也との対談)も面白かったが、さらに3倍は面白い。

●グローバル資本主義というものを、多くの人はアメリカと他国の「支配/被支配」の関係であると理解しているが、それは世界認識の誤りであり、本当は「基軸/非基軸」の関係なのだと岩井は言う。《アメリカの通貨が世界の基軸通貨として流通しており、アメリカの言語が世界の基軸言語として流通しており、アメリカの軍事や外交が世界の基軸軍事力として、世界の基軸政治力として流通しているから、アメリカは圧倒的な存在感を示しているということなのです。》《アメリカという国は、常にアメリカ以外の国と国とのあいだのインターコミュニケーションの媒介となるものを押さえていることによって、覇権を握っているように見えるのです。》●これをブッシュもアルカイダも「支配/被支配」と誤解するからこうなったんだという。《アメリカの王位に正統性がない以上、それに反発する勢力にも正統性はない。》●アメリカが強いからドルや英語が強いのではなく、ドルや英語はアメリカの経済力や文化力をはるかに超えて流通している、という言い方もする。●さらには、「貨幣という物=王様、商品という物=臣下」としたときに、《本来は、臣下が王様に対して臣下として振る舞っているにすぎないのに、まさしく王様は強いから王様だとみんな思ってしまう》、というマルクスの分析をそのままグローバル経済のからくりに当てはめる。●いずれも鮮やかな図式と表現だと感じた。そしてやはり『貨幣論』(岩井著)を思い出させた。貨幣をまるで循環論法の体現であるかのように華麗に奇妙に解いたあの本を。

●この前段として、資本主義の市場原理に対する姿勢も明らかにしている。●《市場経済とは、自分が作ったモノは他人に買ってもらえなければ価値がないという仕組みなんですね。》《つまり市場経済とは、一種の「批評」の実践場なのですね。資本主義のもつこの「批評性」に社会主義は負けたのです。》さばさばしたもの。●しかしこれは市場の「論理」にすぎず、市場の「倫理」のほうが見いだせなくて右往左往しているのが現状だとする。近代の産業資本主義と、それに対する自己疎外論という近代批判がともに崩壊し、ポスト近代のグローバル資本主義によって市場の「論理」が徹底されてきた今こそ、その市場の「倫理」が真に求められるというのだ。岩井はその解答は持っていないが、《売れたからといって価値があるとは限らない》が出発点にはなるだろうとだけ述べる。

●まったく別個にもうひとつ、刺激的で独創的な見解が飛びだす。●《人間において遺伝によっては決定できないものは何か…》《その答えは、まさに言語、法、貨幣なんです。》《…個々の人間にとっては外部の存在である言語、法、貨幣――それらを媒介として、初めて人間は人間となるという認識。これは私は根源的だと思っています。》●これは、遺伝子という根拠を持たないから普遍的ではないという意味ではない。それが生物的な基盤でないにもかかわらず、言語と貨幣という外部の媒介なしには人間社会の基盤が成立してこなかったところに、むしろ根源的な神秘を感じるということだろう。

●いろいろ考えさせられたが、なにより、市場という見方はさまざまな問題に適用可能だということに思いが向く。●市場の論理とは、他者による批評が入るという意味で《近代的自我の自己中心性に対する最も根源的な批判という側面》を持つとまで岩井は言う。●世界の困難について堂々と悩むにも、日常の困難についてチマチマ悩むにも、たとえば「流通」「媒介」「交易」といった視点でその困難を分析してみるなら、人間のどのような活動でも「市場」というものが根源的であり積極的ですらあったことが分かってくるのかもしれない。経済や社会を憎んで対決することが正しいと信じてもいいし、そこから離れて引きこもることが楽しいと信じてもいい。しかし、それと同程度には、貨幣や言語を切り捨てたり貯め込んだりするのでなく、とにかく交換してみよう、そうすることが実はもっと正しいしもっと楽しい、と信じてもいいのだ。いずれも「支配/被支配」の図式だけで克服しようとするな、といってもいいだろう。…いやどうもあまりに原則的で観念的にすぎるか。

●いずれにしても、貨幣と言語は人間社会にとって根源的であり不可欠でもあると考えて、まあ間違いないのだろう。そして私はふと思った。それは先日「人間の心とは要するに表象という作用の集積とイコールではないか」と考えたこととも少し関係する。すなわち――。●人間にとっての表象は、絵もあれば音もあるといったぐあいに多種多様に存在する。しかし、そうしたあらゆる表象と交換可能なものが言語という表象ではないのか。言語こそが表象の王様であり貨幣である。――まあこういうことも誰かがすでに述べていそうなことだが。●さらに考えを進める。では貨幣の本質とは何か。それを岩井克人は解明しようとするし、我々も大いに興味をかきたてられる。しかし我々の大多数は「貨幣の本質を考えるのもいいけど、そんな暇があったら、まずその貨幣を稼がなくちゃ。そのほうがよほど切実」と思っていて、それは正しい。貨幣の本質が理解できたからといって、家計のやりくりが飛躍的に改善されるということはないのだ。(ただし、大きな経済圏全体の貨幣のやりくりは、貨幣の本質を理解することでいくらか改善できると思われる。それどころか、個人の財布は使えば使っただけとりあえず減るが、経済圏全体の財布は、不思議なことに使えば使うだけ逆に増えるようなところがある)●しかし、言語は明らかに違う性質をもつ。言語は常に使っても減らないのだ。いやむしろいやになるほど増えてしまう。世界全体をみても、個人をみても。さらに、実はここが肝心なのだが、もしも言語の本質が理解できたあかつきには、我々の言語のやりくりは、増えるとか減るとかの次元を超えて飛躍的に改善される気がする。言語は本質を考えることとそれを稼いだり正しくやりくりしたりすることが、たぶん一致するのだ。貨幣ならその本質を考え抜いているだけでは貧乏になってしまう怖れが大きい。でも言語の貧乏にならないためには、言語について考え抜くのが一番いいのではないか。●(なおさらに付け加えるなら、交換に挑むことの重要な意義をおもえば、言語が使っても減らないのと同じく、貨幣も使っても減らないのだと、ときに信じることが大切ともいえる。)


2004.9.08 -- テクノロジーやばい --

福田和也イデオロギーズ』から最初の評論「テクノロジー」を読んだ。●「テクノロジーやばいよ。人間まるごと覆っちゃってるし。やばいやばい。思想とかあるなんて思ったら甘いよ。もうテクノロジーばっかなんだから。やばいって、ほんと」。結局こういう主張か。いやそんな単純なはずは…。もう一回読んでみよう。●まず問い→《テクノロジーの外に、思想なり思惟なりといったものは存在し得るのか。あるいは最早その圏内にとうに取り込まれているのか。》 そして結論というなら→《…今やテクノロジーが人間を自らデザインし、作りだせる段階にいたった以上…》《…人間的な学問の対象となるのは文化、歴史だけだ、という問いは意味をなさなくなる…》《…つまりは、あらゆる事象がテクノロジーに覆われている以上、歴史も文化もその範囲にあるのではないか…》《…この言葉は…》《…テクノロジーを生理とする人間、それまでのあらゆる文化を、そして歴史を切り捨てて、テクノロジーのダイナミズムにのみ忠実に生きる人間の射程を云いあてている。》●もちろん、この問答のなかには、哲学と歴史の輝かしい糸が無数に織り込まれていく。たとえば、この問題の核心を射ぬいたアーレント。すでに予見していたハイデガー。ベンヤミンは微妙でテクノロジーに近代の人間主体の断片化を標榜したが(ちょっと甘かった?)――などなど。そして、なによりファシズムとボルシェヴィキはそろって、テクノロジーを駆使するところにこそ新しい人間の改造や真理の創作を期待して礼讃した、といった趣旨で論じられていく。この絢爛たる知の綾が読みどころ。●では現在の例はというと、遺伝子工学にちょっと触れている。この種のテクノロジーは「超やばいよ」という指摘なのだろうと思うが、遺伝子工学自体の詳しい考察はない。

●さて。いわゆる「人間がテクノロジーに支配される」。今この言説は非常にかまびすしい。そこには、現代を特徴づける「情報にかかわる高度なテクノロジーの浸透」は、かつての自動車やテレビなどの技術とは明らかに異質だ、という前提があるようだ。例にあがった遺伝子工学も、風邪薬とか避妊具とか入れ歯とか眼鏡とかそうしたものとは次元が違うんですよというふうに。でもそれホント?という議論はきっと面白いが、今はさておく。●それよりも、この時代のテクノロジーによる人間の変容というなら、私は毎度ながら「インターネットの日常化」という事態を思うのだ。要するに、我々はこれまで、記者や学者でもないかぎり文章なんてあまり書かなかったし、ましてや自分の暮らしや考えをこぞって書き連ね、無数の他人どうしで読みふけって夜が明けるなんてことは、まずなかったという事実だ。せいぜい10年たらずの歴史。●それがどういう意味を持つかはいろいろ考えられようが、福田和也がこの論を始めた動機「テクノロジーがすべてなら思想はどうなる」にちなんで、ひとつだけ――。「思想」というがその実体は、この固有名で著わされた『イデオロギーズ』のような出版物が積み重なっていく戸棚のことだと信じられてきたのだ。おそらくここ500年くらい。ところが20世紀末になって我々の読み書き様式を一変させたこのテクノロジーが、旧様式の思想をいよいよ凋落させていくかもしれない、とまあ非常に図式的にみることはできる。だったらどうするという話だが、これからは福田のような知の担い手は「一人はてな」をやってみるとか、どうだろう。人文系なら何でも来いと。「そんなだから思想が死ぬんだよ!」か。 ●…と本気で考えていたら、ベンヤミンを評した同書の記述が印象にのこった。引用しておこう。《(ベンヤミンは)自らの著書、著作を執筆するよりも、むしろ引用のための抜書きをし、執筆した量の数倍のボリュームになる引用のノートを残した。つまりは書くことにおいて主体であるよりも、むしろ模倣者であり、書記であることを選んだ…》 なんというか、ニュースクリップのブログみたいだ。

●「一人はてな」は、自然系のQ&Aならそのようなサイトがある。→ http://www005.upp.so-net.ne.jp/yoshida_n/qanda_04.htm

●囂しい(←変換したら自分も読めなくなる漢字ランキング1位)


2004.9.07 -- 心悩問題じゃなくて… --

●ウェブサイト『哲学の劇場』の両名が執筆した『心脳問題』を読んだ。●自分でわかっている心(たとえば肉親が死んだときの悲しみ)と、科学がこうだという脳(その悲しみが起こっている仕組み)は、ぴったり一致しているのかと思い浮かべていくと、必ずどこかでこんがらがってくる。それは、心と脳の関係という問題設定が、こんがらからざるをえない無茶を元から抱えていたせいだと考えられる。その無茶の正体をとりあえず易しく整理してくれるのがこの一冊だ。●著者は、この無茶を「ある種の哲学的な病気」とも形容しながら、それを解毒する道筋を二つ紹介していく。一つめは、日常で経験している世界と科学が記述する世界とは同じものの「重ね描き」なのだ、とみなした大森荘蔵の考え方。一言だけ引用すれば、《自然があり、それを眺めるわたしの心がある。このように考えることはすでに袋小路に迷いこむことだと、大森は言っているのです。》というようなこと。●しかし著者は、これは対症療法にすぎないとして、最終章でさらに本質的な治療を、池田清彦やベルクソン、ドゥルーズを参照しながら示す。こっちも簡単にまとめれば――。私の心というものは「一回限りで一続きの生」というふうな現れをしている。しかし科学というのは、同一とみなせる部分を切り取りその反復に一般性を見いだす作業なのだから、心や生という特異なもの持続するものを科学が扱おうとすれば、必然的に齟齬が生じてしまう。《…肝要なことは、わたしたちはいまだに持続そのものを適切にとらえる言語をもっていないことを自覚することです。次に忘れてはならないことは、持続はその本性上、同一性や一般性では記述しつくせないことをわきまえることです。》これが、治療できないこの病気に対する究極の処方箋だ。●なお、同書は中盤で、脳科学が高じれば将来はいわば脳工学が遺伝子工学と並んで日常に浸透してくると予測する。そのとき人間の統治は、権力に直接支配される形ではなく、規範をそれぞれの内面に馴らしていく形でもなく、脳や遺伝子を好んで制御するという形、言い換えれば、生そのものを各自が情報的にコントロールするという形によって成し遂げられるだろう。そのような事態を、フーコーやアガンベンの思想を交えながら考察し、検討を強く促している。このパートは面白いが予想とは違った展開だった。その背景には、脳すなわち心を改変してしまえば我々が世界像を構成する方式そのものが直接変わってしまうから、もはやどんな問題や利害があったのかを事後的には理解できなくなる、といった危惧があるようだ。それを考え含めると、このパートを重視した動機も少し納得できる。●チャルマーズの『意識する心』が難しくて読みあぐねた人とか、心と脳について考てるといつもこんがらかるのは、原理的なアポリアのせいか、それとも単に自分の考えが足りなくてそうなるのか、それ自体が常にこんがらかるという人に、ちょうど良い入り口なのではないか(と他人事のように言っておこう)。●巻末には多数の参考図書がかなり丁寧に紹介されている。手ごろで読みやすいが「これは根源的ではないか」と私なりに刮目した本もけっこう挙がっていて、嬉しい。たとえば『〈意識〉とは何だろうか』『ロボットの心』『考える脳・考えない脳』『アフォーダンス』『ゲーム脳の恐怖』『構造主義科学論の冒険』『コウモリであるとはどのようなことか』『生存する脳』など(1冊だけ嘘)。

●さてさて、再び引用するが、《…肝要なことは、わたしたちはいまだに持続そのものを適切にとらえる言語をもっていないことを自覚することです。次に忘れてはならないことは、持続はその本性上、同一性や一般性では記述しつくせないことをわきまえることです。》 私はこれを同書最大のメッセージととらえ大いに示唆を得た。しかし全く逆、というより全く別個に、以下のような発想も浮かんできた。●目の前に物があるとき、人間なら見えていると同時に「見えている」という意識が生じているが、ビデオカメラならただ見えているだけなので意識は生じていない、犬や猫ならおそらく意識があるだろう、金魚にもあるかな、ヒマワリにはなさそう、じゃあコオロギはどうなんだ、――というふうに「意識」をこうした言語適用感からまず枠付けしてみる。そして、この意識があるかないかの分岐点は、入力された信号をなんらか「分節したり表象したりする作用」が生じているかどうかだと仮定してみよう。さて一方、自然や身体それ自体は、同書と同じく、「持続そのもの」の有りようをしているとみなす。脳も臓器としてはそうだろう。しかし意識は、分節や表象とイコールなら、なんらか同一性や一般性に支えられて形成されるわけで、持続そのものではありえない。意識とは、自然や身体がそうである「持続の側」に属するのではなく、自然や身体を分節し表象する「言語の側」「科学の側」に初めから属していたことになるわけだ。●いろいろ用語を置き換えただけと言われそうだが、ともあれ、「意識=分節や表象」というのは、ちょっと拘ってみたい観点だ。意識という分節や表象をどんどん複雑に精密にしていくと、やがて人間の心になるだろう。とりわけ言語や科学というのは、分節や表象の極点、心の極点だ。しかし、猫や金魚でも、まったく異なった形式であれ、意識=表象や分節という作用はありそうに思われる。コオロギやアイボすら、それが絶対ないとは言えない。まとめて繰り返すが、自然や身体そのものだけが「持続」しているのであり、言語や科学も、人間の心も、あらゆる生物の意識も、いずれも「持続」ではなく「分節や表象」として生じてきた、と考えてみようというわけ。


2004.9.06 -- ちょっと気になる見解 --

《私は武装勢力側が交渉を拒否し、水や食糧の搬入を拒否したのならば、それは最初から人質の殺戮とゲリラの自爆が目的と分析した。しかしロシア側が主導的に交渉を拒否して、武装勢力が抱える1270人の人質を極限状態にして、それで武装勢力を苦況に追い込む作戦だったら分析はまったく別のものになる。》
神浦元彰氏のサイト・東京新聞9月5日Webニュースに応じた記事
http://www.kamiura.com/new.html

《テロを正当化しようというつもりはない。テロこそ正義云々と謳って反権力的構えを採る人が実はひどい権力主義者で鼻白むことが往々にしてある。だが正当化は出来ないという意味では、テロには屈しないとバカの一つ覚えを繰り返す政治家もそうで、命がかかっている場面での交渉ごとを、命が掛からない場面での交渉ごとと連続的に扱って犠牲者を最小化する技術がもっとあっても良いと思う。強面の表情しか持たない人間なんてのはおよそ高級とは言いにくい。》
武田徹氏のサイト・9月5日付
http://162.teacup.com/sinopy/bbs

「学校を占拠した武装勢力より、突入したロシア部隊のほうが、子供殺しをいっそうためらわなかった」なんてことはまさかないだろうと思っているが、それははたして自明なのかという疑いもある。どちらかがはっきり極悪であってほしいという願望は人それぞれあるし、私もあって、それに影響されやすいが、それは単に願望にすぎない。願望ではなく事実を判定したい。でもまだ不透明だ。


2004.9.05 -- ロシア北オセチアの学校占拠事件をめぐって、心に留まった声。 --

《どうだった? 復讐してみた気持ちは。胸のうちは晴れたのかい?》(http://d.hatena.ne.jp/kaerudayo/20040905#p1

《私たちが「テロリスト」と指差すとき、テロリストは「標的」と私たちを指差す。》(

《「悪い人、どこからくるのかな。保育園に来るのかな」「わからないけど、ここはあそこから遠いから大丈夫だよ」 娘が恐がっていた。/うーーん、悪い人は酷いことをされたから、酷いことを平気でできるようになったんだ。酷いことは、金が絡むと、できるんだ。だから、悪いのはお金なんだよ! 悪いのはもっとお金が欲しい人なんだよ! 難しそうだけど、簡単な話。誰かがお金を諦めれば、割と早く片づくと思うよ。みんなが、けちんぼ、けちんぼなんだよ。握ったおもちゃを離さないんだよ。》(http://d.hatena.ne.jp/kaerudayo/20040903#p6

いずれも『北沢かえるの働けば自由になる日記』より。

ふと信じて賭けてみようと思わせる言葉は、他とどこが違うのだろう?

ところで、
ふと信じて賭けてみようと思わせる暴力もまた、あるのか?
…と、遠いから抽象的にのみ考える。  


2004.9.03 -- 「現代批評の核」2 --

●柄谷行人と福田和也の対談「現代批評の核」(新潮8月号)の中身を2日付けでまとめた。今度は、それを読んで巡らせた自分の思いを書いてみる――。

●対談では現在の「テクノロジーの高度化」がまず問われている。ただ具体的に挙がるのは結局ケータイやメールで、それは問題の極点がまさにこのツールに現れているからだろう。だからこの問題は、使用者自身がもう実感していたはずのことだ。●私自身ここ数年を振り返ると、生活や仕事や社交あるいは思考、それらの実に多くがネットやメールという機構を通じて成立していることに気づく。そしてその記録や記憶つまりは経験や知識といったものがまた、そのままディスクに残っている。とりわけ、ウェブにこうして日記を書きながら過ごしてきた年月というのは、それまでとは質的に明らかに違った歴史を生きてきたと言ってもいい。

●そんなことを考えていたら、Gメールのインビテーションが届いた。Gメールは、ごぞんじの通り、個人のメールの全部がネット上のサーバで一括管理してできるサービスだ。サーバはギガ単位なので、なんと一生分のメールも収まってしまうらしい。これは凄い。上に述べた自分の生活や仕事を統合したものが、今度は世界共通のネットワーク上に移るというわけだ。逆に、インターネットとの連結が断たれれば、私にかかわる何もかもが瞬時に消えてしまう恐ろしさがある。こうなると「人生のグローバル化」と呼んでみたくなる。あるいは人生の情報化、可視化、顕在化。●加えて、Gメールを使うにはパソコンやOSを常に世界標準で購入し整備する必要がある。つまり言うまでもなく、この経済圏から外れていてはGメールも交換できないというわけ。ここに、対談のもう一つのキイワードだった「経済のグローバル化」も浮上する。おまけに、インビテーションは英文だからスパムメールになりかねないところだったのだが、ともあれ言語のグローバル化というかアメリカ化といったようなことも、いやでも感じられる。

●私は、もうインターネットやGメールとの連結を拒むことはできない身体に(というかパソコンに)なってしまった。ただこうしたまさにグローバル化する情報の流れに「棹さす」作業くらいなら可能だろう――それは、流れに逆らって留まるという誤用の意味でもいいし、流れに乗ってすいすい進むという本来の意味でもいい。そうした連結と作業の中から出てそのままネット上に定着していく無数の文章や思考には、それを文学や哲学と呼ぶか呼ばないかは別にして、インターネット以前の文章や思考とは本質的に異なった感触を伴っているように思われる。実際にネット生活をしての実感。●話を大袈裟にしてみると、ある時期から長いあいだ、人間の精神的な営みのほとんどは、印刷というテクノロジーと書籍という媒体に圧倒的に依存して作られ積みあげられ広がってきた。森羅万象のイメージすべてが、つまるところ本という形態とその特有のクセを介してしかアクセスも獲得もできなかっただろう。ところが現在のインターネット生活はやっぱり違う。ごく単純なことでいえば、たとえば「オリンピックの歴史とは」「アメリカ大統領選挙の行方は」という時に、「グーグル」で調べがつく、「はてな」に問うことができる。また自分が「ブッシュ逝ってよし」と思ったなら、それはそのまま文字化でき、原理としてはグローバルなブラウズやディスカッションが即座に可能になる。

●こう考えてくると、福田が言うように「小説とは近代のブルジョアの社会や生活を描くのに最も適していた」のだとしたら、テクノロジーの高度化やさまざまなグローバル化のなかで塵や芥みたいな現代の群衆のうごめきを示すには、ブログほどぴったりのものはない。

●ここからはおまけの話――。「グローバル経済」というのは流行り言葉で、安易に使っても文脈に当てはまってしまうところがある。しかし最近なら、たとえば中国の市場経済の激動が日本を否応なく巻き込んでいる件などでは、ちょいと内実を伴った感慨をおぼえる。アエラなどで話題になったが、日本企業がコールセンター業務(商品ユーザーからの電話受け)の実務を人権費の安い中国の大連などに移動させ、しかも日本人を中国人に近い給与(時給260円とか)で雇うという方式が目立ってきているという、そんな一件(参照)。●そして素人考えが膨らんでいくが――。このとき、時給260円というのは、進出する企業の都合に合わせたものであり、日本国内の経済水準は無視されるのだから、これぞ「グローバル経済は国を超えていく」なのだろう。もちろん中国の経済水準には合っているのだが、それとてやはり企業の都合に合う水準が、たまたまそれだったというにすぎない。また、中国で雇われて時給260円の日本人がいる一方で、同じ企業に勤めて高給をとる日本人正社員もいるわけで、国民の経済という一体感はいよいよ事実として無化していくのだ。階層としては「日本人/中国人」から「富裕な日本人中国人/貧困な日本人中国人」という分類に移行していくのかもしれない。その場合、中国における市場原理主義というのは、なんとなくだが、日本以上にアメリカ以上に容赦のないものになるように予想され、イヤな気分になる。しかしまあ、時給260円の日本人も中国の物価が安いおかげで十分暮していけるというのだが、ただそれはそれで、元という通貨がグローバル化していないことが大いに関係するのだろうし、全体として一体ここで起こっていることはどういうことなのか、少々わからなくなってくるが、とにかくいろいろあって面白い。

●ところで、グローバル経済の主役が国家や国民ではなく世界企業であるとしたら、そのうちたとえばトヨタなんかが独自通貨を発行したりなんてことはないのだろうか。奥田氏の長い顔が紙幣になって単位が「Mya」とか。…またイヤな気分になった。

●気分はどんどん荒れて、さらについでながら。中国では時給260円でも生活OKというけれど、じゃあ年金はどうするというと、そこはなるべく触れたくない部分だろう。どっちにしても今、日本では年金というのは誰も本気で触れてはいけない部分みたいだから、お互い「どうにでもなれ」という気分で案外一致しているとか。…いやこれは冗談であり、年金はちゃんとしなきゃダメだ。●国家の経済がもし本当にグローバル経済にやっつけられ損なわれていく方向にあるのだとして、それでも日本の役人というのは、その国家が消える最後の日まで自分たち役人の権益を守り抜く覚悟だけは固めているのではないかという、SFが思い浮かんで、気分は最悪。なにがなんでも守りぬくべきは、年金を集めて太る厚労省ではなく、年金を収めて細る国民のほうに決まってる! 仁義なきグローバル経済に国家は手の打ちようがないという顔をして、でも官僚の数千万単位の退職金なんてものだけが、まるきり市場経済をすり抜けているように見えるのは、一体どういうわけだ? 


2004.9.02 -- 「現代批評の核」 --

柄谷行人福田和也の対談「現代批評の核」(新潮8月号)。結論は「近代文学は終った」ということで、それだけ取れば「またかい」となるのだが、じっくり読み直してみると、その根拠に当たるところの「現在に特有な状況とその困難」がどういうものであるのかが、さっくり語られている。まあそれも多くは「聞いたふうなこと」だが、よく考えてみるとそれらは結局「柄谷行人から聞いたふうなこと」だったのかもしれないわけで、いずれにしても非常に面白かった。●「現在に特有な状況とその困難」と書いたが、早い話が「テクノロジーの高度化」そして「市場経済のグローバル化」ということになる。この私なりの括りで二人の談をまとめておく――。

●高度なテクノロジーの下で思考に何が残されているのか――対談はこの問いから始まる。これは、福田が新著『イデオロギーズ』でファシズムをテクノロジーを絡めて問うたのと同じだし、柄谷もゲーデル的な形式化という観点ですでに考えてきたことだが、その問いが日常の現実になったのが現在だという。…もうこれだけで先を読む気がしなくなるかもしれないが、特に難しいことではなく、コンピュータとインターネットが計算力や通信速度を過度に増しながら生活の隅々まで普及してしまった、というところに焦点がある。というか具体的にはケータイとメールであり、すこぶる身近な話題なのだ。●ではこれがどういう困難を呼んでいるか。最もわかりやすいイメージはこうだろう。《今、人間が考えることにはほとんど意味がない。なぜならわれわれは、インターネットなど、地球的コミュニケーションのなかで支配された、ネットワークシステムのインターフェースにすぎないからだ》。これは福田がノルベルト・ボルツを引いた言葉。しかしあまりにわかりやすくてわかっているのかどうかがわからなくなるようなイメージだとも言える。柄谷はもっと直観的に、かつては大阪にいたら違う空間にいたと感じたのに、今はどこにいるかということが意味を持たなくなっている、あるいは、恋愛でも電子メールだとだいたい一週間で破綻する、などと冗談めかして言う。さらに、我々は自分の内面というものを実は手紙に見られるような《遅れ》や《のろさ》を通じてのみ経験できるのだが、通信の加速でそれが成立しなくなったのでは、と本質らしき点も見抜いている。

●市場経済原理のグローバル化という問題は、柄谷がしばしば取り上げる「交換の3分類」に絡めて捉えられる。交換には、市場経済を形成する商品の交換だけでなく、国家による交換(つまり税金を集めたうえで財政としてばらまく)、共同体や家族による贈与とお返しという形の交換がある。グローバル化とは、このうち市場経済の原理だけで世界中が牛耳られることであり、そのとき重要なのは、かつては世界規模の資本主義に対抗できた国家が、現在はもはや機能していないという点にある。●…こうまとめると、やはりいかにも聞いたふうなことなので、ひとつエピソード的に加えるなら、柄谷は、今年の「ヨン様」と去年の「ベッカム様」さらには韓国の村上春樹ブームがみな同型だとみなし、これらは西洋人への憧れといったものですらなく、グローバリゼーションとテクノロジーがもたらした現象であり、ここに文学の観念を持ち込むことはできないだろう、と述べている。気の利いた言い様だと思った。

●では、こうした二つの状況が文学をどのように終らしめているのか。…という明瞭な論証をする対談ではないが、少なくとも次の柄谷の弁はその骨子の一つだろう。《かつて、文学はネーションの形成にとって、またナショナリズムの核心として重要な役割を果たしたと思います。しかし、今グローバリゼーションに対して、文学はもう対抗する力を持たないでしょう。》 要するに、「市場経済のグローバル化」によって国家が機能しなくなったのだから、国家(すなわち近代国家)と密実一体の機構だった近代文学は、もう終るしかない(理屈だけみれば非常に単純)。

●さらに「テクノロジーの高度化」も絡んであれこれ指摘される――。福田は、昔のドイツロマン派を紹介しつつ、人間の感性というものには理性を超えた美や真理が現れるのであり、そうした《客観的に策定されて検証可能なものとは別の何ものかが、文学の対象であり、近代文学のコア》だと断言する。そういうものとしての文学は終ったということになろう。●これと平行して、小説というのは読むという時間の経験が本質的であり、言い換えれば《内面を書くのは小説にしかできない》ということを福田は重視し、現在はその内面が成立しなくなってきたとも言う。柄谷も、「自分探し」というのは内面性ではなく《内面性がなくなっている状態だからこそ、自分を探すのです》と述べている。●このほか、「歴史が終わった時にモード(流行)がはじまるんだ」というフランス第二帝政に関する評が持ちだされ、さらにもともと規範というものを欠いたアメリカでは最初から流行だけがあった、といった分析もある。●《情報化》といってしまうと、またもや単純すぎるのだが、それでもこれら全体は自然とその言葉に収斂されていく。

●主たるまとめはここまでだが、刺激的な論考はこれ以外にも飛び出してくる。とりわけ示唆的だった二つを書き留めておく。

●一つは、原理主義のテロリズムについて柄谷の理解の仕方。国家による暴力と国家に対抗する暴力を区分けする考えは少々ありきたりに思うが、そこをさらに突っ込んで、テロとは、市場による交換ではなく、互酬(贈与とお返し)という交換がその原理なのではないかとみなすのだ。その文脈で、《抑圧された者には、やりかえさないかぎり、いわば「気がすまない」ことがある》と言われると、テロをめぐってこれまで以上に深い溜め息が出てしまう(いかにも当っていると感じるから)。●これに関連して、市場経済のグローバル化によって国家による経済も共同体による経済(互酬性)も不可能になった今、残る交換の原理としては普遍宗教が浮上してこざるを得ないと、柄谷は考えている。福田は完全には同意しないものの、グルーバル化に対抗するためには原理主義もまた別の意味で国家を超えた普遍の価値を持つのが必然だと考えているようで、《しかもそれは一種の暴力性を帯びるものにならざるをえない》だろうと応じている。いずれにしても、文学はそうしたことを考えるには人畜無害で期待できないというのが柄谷の結論。●もう一つ、これぞ一番先に紹介すべきだったかもしれないが、「近代のブルジョア社会や生活を総体として描くのに最適な文章形式こそが小説だった」という趣旨の福田の発言。すでに指摘されていたことなのだろうが、なるほどその通りだなと面白くなる。

●毎度ながら、軽くまとめるつもりが長くなった。ここまで長いトピックにつきあう人もあまりいないように思う。ここまでは前置きで、本当はそれに対して自分の思うところを聞いてほしかったのだが、もう疲れてしまった。それはまたあした。

●《 》は引用ですが、「 」の多くは私のパラフレーズにすぎないので、ご注意。


04年8月

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著作=Junky@迷宮旅行社(www.mayQ.net)