哲学大陸・言葉ルート

言葉がまとわりつく

ふだん僕たちが事物と出会うとき必ず言葉が伴ってきます。たとえばリンゴを見ようが、ネコを見ようが、クラクションを聞こうが、モーツアルトのコンチェルトを聞こうが、すぐに「林檎だ」「猫だ」「警笛だ」「協奏曲だ」という言葉がまとわりつきます。しかも言葉とは、意味とかいうものを仲立ちにしてほかの限りない数の言葉と関連づけられ巨大な大系を築いています。だから最初にまとわりついた言葉は、関係のある別の言葉、たとえば「紅いほっぺのよう」とか「ネズミ年はあるがネコ年はない」とか「逃げなきゃ危ない」とか「趣味がいいけど退屈だ」とかの言葉を瞬時に呼んできます。そういう連鎖が次々に起こる結果、僕たちが目にしたネコやリンゴ、耳にしたクラクションやコンチェルトなどの事物は、一気に言葉まみれになってしまいます。
そういうわけで、僕たちは事物自体を純粋に(言葉抜きで)見たり聞いたりということはもはやできないようです。


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