哲学大陸・言葉外ルート

二番街

言葉の呪詛から逃れている場所。この間僕はもうひとつ出くわしました。葬式のお経です。そこはほかでもない「南無阿弥陀仏」をはじめとした立派な言葉の洪水でした。にもかかわらず思考は停止し感情もたぶん言葉とは遠いところを回っているような気がしました。
どういうことなのでしょう。
うまく整理ができませんが、そのお経洪水は次のどれかに似ているように思えます。
1カラオケを歌って我を忘れているとき
2議論が白熱して我を忘れているとき
3高橋源一郎の小説
だからどうなのでしょう。やはりよく分かりません。
言葉があふれんばかりに世界を覆っている時、言葉は不思議なことに機能不全に陥り、結果として言葉から逃れているような状態が訪れる。そういう可能性の存在を指摘しておくぐらいしか今はできません。


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