「ノラや」(内田百ケン)

急に海外出張の話がもちあがり、連日仕事の準備にかけずりまわった。自分の旅支度は後まわしで、着替えを鞄に詰め込んだのは出発前夜になってやっと。街の書店へ寄る暇などなく、飛行機の中で読む本は出発の朝に家の小さな本棚から探すしかなかった。

そして持って行った本は、内田百ケン「ノラや」(新潮文庫)。猫好き、猫通(そういう存在があるらしい)ならご存じだろう。以前読んで味わい深かったので、これを機にゆっくり読み直すことにした。なお、ケンという字は門のなかに月をいれるが字体がない。

飛行機は成田からヨーロッパまで14時間。食べる、読む、寝るの繰り返しの中、「ノラや」にのめり込んだ。気がかりだが機内で気にしても仕方のない仕事のことをすっかり忘れられた。行きで半分。帰りも、寝ている以外の時間でちょうど最後まで読み通すことができ、全く退屈しなかった。

この本は、なりゆきで家に置くようになった元野良猫ノラがいなくなり、百ケンがおろおろする日々を、幾編かの随筆として発表されたものをまとめてある。

「ノラや」「ノラやノラや」には、いなくなった昭和32年3月27日から6月12日まですべての日の様子が綴られている。百ケンがとにかく泣く。めそめそどころでなくわあわあといった方がよい。文庫のカバーで厳めしい百ケンの顔を見るにつけ、おかしくなる。

気を変へようと思つても涙が流れて止まらない。
二十八日以来あまり泣いたので洟を拭いた鼻の先が白くなつて皮が剥けた。
見廻したそこいらにゐないと涙が出る。

(3.31)

自制してゐるけれど時時思い出して涙が止まらなくなる。
矢張り三月二十七日の昼ノラが木賊の所から行つた事を思ひ、お勝手へニヤアと云つて帰つて来ない事を思ひ、家内が「ノラちやんは」と抱いてゐた事を思ひ、いつ迄も涙が止まらない。寝る前風呂蓋に顔を伏せてノラやノラやノラやと呼んで泣き入つた。
(4.19)

上の二日は泣いた記述が3回ある。ちなみに、風呂蓋はいつもノラが坐っていた場所。

 四月二十六日金曜日
 晴曇晴曇。夜雨。
 今朝も昨日からの続きでくよくよして、涙が流れて困る。夕方近くなり、夜に入れば、一寸したはずみで又新しく涙が出て、ノラがいつもゐた廊下を歩くだけで泣きたくなる。雨の音が一番いけない。

上の日は泣いた話だけで日記が終わる。百ケンの泣き虫は天気と関係があるらしい。薄暗い夕方から夜にかけては特にぐずつく。

そのうちこんな記述に出会う。

ノラが帰らなくなつてから初めて今夜、思い切つて風呂に這入った。非常に痩せてゐる。二貫目ぐらゐ減つてゐるかも知れない。衰弱で目がよく見えなくなつた。
(4.30)

風呂も入ってなかったのだ。

「ノラや」「ノラやノラや」の原稿は、百ケンがひたすら書き連ねたものを、読み返すのが辛くて推敲もせず編集者に渡したという。ただただ「涙が出た」「泣いた」の繰り返し。まさに毎日の感情そのままの記録だと思うと、かえって価値がある。それにしても3月、4月、5月と泣き続け、6月に入ってもやまない。ただ、泣く描写が描写らしくなってくるようにも思う。

一日ぢゆう紙一重の気持ちで、下手をすれば堰を切つた様になつて何も出来ない。ノラやと思つただけで後は涙が止まらなくなり、紙をぬらして机の下の屑篭を一ぱいにしてしまふ。
(6.2)

午下ぢつと坐つていて何のきつかけもあつたわけではないがノラが可哀想になり泣き続けた。どうも雨の日はいけない。一日ぢゆう泣いたので目が腫ぼつたい。
(6.7)

さてこの本の魅力はいったいどこからくるのか。それには百ケンという人や文体の秘密、あるいは猫という存在の秘密に迫る必要があろう。が、それはまたの機会にして、代わりに百ケンが泣いたと書いた日(実際に泣いたのは毎日だったかもしれない)=水色=と、その部分の記述を下にまとめてみた。

そこら辺に常にたむろしている猫は、別に動物園に見に行く必要もなく絶滅が危惧されているわけでもないため、その存在を改めて見つめたり考えたりはしない人も多いだろうが、実はこれほどの動物はあまりいないと僕は思う。


昭和32年3月
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昭和32年4月
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昭和32年5月
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昭和32年6月
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こんなに泣いては身体にさはると思ふ。(3.28)
毎日私が泣いて淋しがるので、(3.30)
涙が流れて止まらない。 ... あまり泣いたので ... 涙が出る。(3.31)
声を立てて泣いた。... 泣いて制する能はず。(4.4)
又泣き出す。(4.7)
涙が止まらない。(4.9)
涙が止まらない。(4.11)
涙で顔が熱くなつた。(4.15)
涙が止まらなくなる。... いつ迄も涙が止まらない。... 泣き入つた。(4.19)
嬉し泣きに泣いた。涙で両頬が洗つた様になつた。... うれし涙にむせて、声が途切れて、口が利けなかつた。=ノラが見つかったとのう知らせを聞いて。後で違うとわかる=(4.21)
涙止まらず、子供の様に泣き寝入りをした。(4.23)
涙が止まらなくて、(4.24)
泣き続けた。(4.25)
涙が流れて困る。... 又新しく涙が出て、... 泣きたくなる。(4.26)
泣き続けた。(4.27)
制すれども涙止まらず。(5.1)
涙が出て泣いてしまふ。(5.2)
話し合つて泣いた。(5.4)
可哀想で涙が止まらない。(5.14)
涙を流した。(5.15)
又涙が止まらなくなつた。(5.16)
涙止まらず。(5.17)
目を押さへる。(5.18)
涙が流れ出す。(5.23)
又涙が止まらなくなつた。(5.24)
暫く泣き続けた。(5.25)
涙が出て午前中止まらなかつた。(5.26)
涙が止まらない。(5.27)
泣けて仕様がなくなつた。... 涙は後後まで止まらない。(5.28)
涙が出てしまふ。(5.30)
涙が川の如く流れ出して止まらない。(5.31)
涙が流れ出した。(6.1)
堰を切つた様になつて ... 涙が止まらなくなり、(6.2)
又泣き出した。(6.4)
うれしくて泣いた。=ノラは生きているという手紙をもらい=(6.5)
泣き続けた。... 一日ぢゆう泣いたので目が腫ぼつたい。(6.7)
涙が出た。(6.11)








Junky
1998.10.4

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