追想 '99夏

旅先でことさら
思い当たらなく
てもいいことに
思い当たる旅先

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8.12第1日東京→夜行バス
荷物が重い

リュックを背負いデイパックを抱えて家を出る。重い。電車の駅に着くまでに疲れ、ファミレスで早くも一休み。

この手の旅行者はバックパッカーの名の通り大抵このイデタチだ。リュックは登山用。別の小さいバッグに手回り品・貴重品・壊れ物を入れるのが普通。現金やパスポートは体に付けておく。

新宿から夜行の高速バスに乗る。まず大阪まで行き、そこからフェリーで上海に向かうのだ。

中国までのフェリーが2万円しかしないのに(学生や往復だともっと安い)、大阪までの新幹線1万3千円あまりがとてももったいなくて、バスを選んだ次第。それでも9千円あまりかかった。こういう運賃の不均衡はこの先もしばしば体験することになる。

8.13第2日夜行バス→大阪→蘇州号
旅行時間が流れ出す

早朝の梅田駅。地下の喫茶店で腹ごしらえ。狭いカウンターにたくさんの勤め人が慌ただしくコーヒーを啜っていた。のんきな自分とは境遇が著しく違う。なんかしみじみする。

地下鉄で臨海コスモタウン駅まで来る。ここはもう海が見渡せる。埠頭行きのバスにはまだ間があるので、人気のない広場に座り込んでぼんやりと海を見つめる。静かで眩しい風景。ふと旅行時間という言葉を思いつく。それは会社に行っていた時とは違う流れ方をするらしいのだが、早くもそれに切り替わったなと感じる。少し離れた所にも別の旅行者。チベットのガイドブックを黙って読んでいる。海をバックに立ってカメラのシャッターを誰かに頼んでいる中国人男性もいる。たぶん同じフェリーだ。

中国を旅した人なら知っていることだか、彼らは概して写真好きだ。しかも、ポイントとなる場所で自分中心のスナップをしっかりポーズを決めて押さえる傾向が見られる。そのポーズの大胆不敵さは、曖昧で引っ込み思案な我々から見ると、驚きを誘うこと必定である。

上海行きのフェリー「蘇州号」は正午ごろ出航。船旅はやはり優雅だ。レストランやロビーは広く、海を眺めながらゆったり時間が進む。船内は適度な賑やかさ。二等和室ながら気の持ちようで豪華客船。客は中国人が多く、食事も空芯菜の炒め物に鶏の蒸し物。いつの間にか卓球も始まっている。(翌日は中国語教室も開かれた)。こうして2泊3日、じわじわと中国になっていく。

ロビーのソファーは座り心地が良い。夜、MDでオノセイゲン(小野誠彦)を聴きながら眠ってしまい、そのまま床に着く。二等和室は満員に近いため寝返りを打つ広さもないのがちょっと辛い。

8.14第3日蘇州号
朝ごはん一般

目覚めると窓は海--というのはいいものだ。午前中は晴れ間もあり、海の色が紺色できれいだった。デッキに出ると湿った暑い風。九州の南を移動中だから仕方ない。船旅はやはり良い。あした着いてしまうのが惜しいくらいだ。

朝ごはん(フリー)はまあまあだった。まあまあというのは中国語で「一般」というらしい。上海語では「マ・マ・フ・フ」とも言うらしい。

この船には日本での社員研修を終えて中国に里帰りする人なんかが多く乗り合わせているので、あちこちで日本語会話とにわか中国語教室の花が咲く。朝御飯で席が一緒だったH君もその一人。日本語は独学で真面目に勉強中。賢明さが素晴らしい。ただ日本の高年女性(たぶん65歳くらい)も隣にいて、あまり躊躇せず「おばあさんはどうですか・・・」と話しかけるのでちょっとハラハラ。そのあたりの融通の利かないところが寝癖の頑固さにも現れていた。

持ってきた10冊あまりの文庫本のうち、まず加藤典洋の「日本の無思想」を取り出して、昨日から読んでいる。「敗戦後論」と同様、とても気になりつつあまり言葉に出せない、言葉にならないことをまさに扱っているようだ。途中単なる思想史の店開きという感じもしたが、またちゃんと気になるところに戻ってくる。小林秀雄も出れば、太宰も福沢諭吉も出る。つまり、気になる人がどんどん出る。

ところで、柄谷行人は昔から加藤典洋のことが嫌いなようだが、島田雅彦とのある対談でもこんな口調で非難していた。「例えば、加藤典洋が日本の戦死者を弔えと言うが、死者はそれに同意するのか。勝手なことを言うな、と思う。」「それは彼にとって死者が他者ではないからですよ。死者がどう思うかわれわれにはわからない」と。これは旅の終わり頃に読むことになる「国文学・島田雅彦のポリティック」という冊子からの引用だが、この時点ではそんな発言を知る由もない。

それと、なんの因果か、柄谷行人は群像新人文学賞の選考委員を今年で辞めてしまい、代わりに誰が入るかというと加藤典洋なのであったが、これは一昨日(つまり10月29日のこと)群像6月号を読んで初めて知った。「日本の無思想」を蘇州号で読んでいる時点でも既成の事実だったわけだが、私は知らなかった。それにしても同じ文学賞の審査を水と油のような人物が引き継ぐというのも、そういうものかと感慨深い。この群像6月号には亡き後藤明生の最後の選評も痩せこけた顔写真とともに掲載されていて、それも感慨深い。また、13年間選考委員をしてきた柄谷行人が「今回の候補作を読むと・・・この13年間が存在しなかったかのように、小説が書かれ評論が書かれている。・・・(ある候補作については)70年代以後の批評の達成がまったく無視されている。・・・ところが、変に生き生きとしているように見える。・・・私は、ここに戻れ、とは言わない。・・・ただ、批評には、何か野蛮な力が必要だということを言いたいだけである」と断じていたので、どういうことか気になって仕方ないが、ほとんど評論など読んでいないから例によって何のことか全く分からず、余計気になって仕方がない。

船内でちょっと言葉を交わした中国女性が「日本人はなにかと遠慮する、相手がどう思っているかなどあれこれ考えすぎる」と言っていた。よくわかる。私も同様。しなくてもいい気苦労をついしてしまう日本の民。中国には敬語がないということは、それと関係あるだろうか、てなことをちょっと考えた。

*なんかあんまり面白くならない。きょうはここまで。あしたは上海に上陸です。(世界の車窓から)

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Junky
1999.11.1

著作・Junky@迷宮旅行社=http://hot.netizen.or.jp/~junky
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