金沢創「他者の心は存在するか」 スペルベル&ウィルソン「関連性理論」 WEBコミュニケーション

他者に言葉は伝わるか





2000年初頭、私は最大級に面白いと言える本にまとめて出会った。

「心が脳を感じるとき」(茂木健一郎)
「他者の心は存在するか」(金沢創)
「<意識>とは何だろうか」(下條信輔)
「脳と心の地形図」(リタ・カーター) ---概説書だが---
「心と他者」(野矢茂樹)--- 図書分類は異なるが---

これらについてきちんと感想を書こうと思っていたが、時間がなくなってきて、記憶もやや薄れ、あるものは図書館返却期限がとっくに切れ。仕方ない、今回は「他者の心は存在するか」に関して少しだけ。

自分がいて他人がいて、自分には心があって他人にも心があって、自分がどう感じているかは自分で感じられるが、他人がどう感じているかは自分には感じられない。我々はだいたいこういう前提で生きているし、それでだいたいうまくいっている。しかし、それは、こうしてなぜだかずっとみえたりきこえたりかんじたりおもったりしていることぜんたいを、どうにか理解して納得するためにこしらえたモデルにすぎないかもしれない。だから、「他者の心は存在しない」というモデルだってアリかもしれない。----といったタイヘンなことを、この本は、チョウやネズミやサルだったらそれはどんなかんじになってるのか、と比較しながら、じわじわじわじわ述べていく。この本筋こそまさに面白すぎるのだが、今回はそれに触れるほどの勢いはない。本を読む途中で私自身がはっと思いついた、本筋とはあまり関係ないことだけ書く。

この本の真ん中に「コミュニケーションの推論モデル」という章がある。コミュニケーションという観点では、人と人の交わす言葉や行為はどういう働きを成しているというべきか、そういう認知心理学系の研究がいくつか紹介されている。とても興味深い。とりわけ、なるほど!とうなったのは------

A「今日は何をするつもり?」
B「ひどく頭が痛いの」

著者は、上の会話を「関連性理論」(スペルベル&ウイルソン)という本から引き、この会話は「伝えようとしている命題がはっきりと一つには定まりにくい。では、あいまいなコミュニケーションなのだろうか。決してそうではない。はっきりと何かを伝えようとしている。では何が伝わったと考えればよいのだろうか?」と問いかける。

ここから発した論全体を、私はだいたい次のように理解した。

●コミュニケーションとは「送り手が、あるメッセージを、そのメッセージに対応した信号(言葉や行為)に置き換えて送りだし、受け手が、受けとった信号を、その信号に対応したメッセージに置き換えることで成立する」というような単純なものではない。

●送り手がなんらかの刺激(言葉や行為)を作り出すことによって、受け手の認知環境---つまり受け手は何がどう見えていてどう聞こえていて何をどう感じていてどう思っているか、といったような心の状態全体---を揺り動かし、その結果、受け手の心の彩りや濃淡や見え隠れがある方向に変わっていく。コミュニケーションとは、そういう作用である。

●コミュニケーションをそういうものとしてみるならば、次のような分析ができる。
1送り手がそもそも「伝えたいもの」は何か
2送り手は、「伝えたいものがあること」自体を、どう伝えようとしているか
3送り手の「伝えたいもの」が、また「伝えたいものがあること」が、それぞれ伝わるような状態に、受け手はいるのかどうか
4どういう刺激ならば、「伝えたいものがあること」が伝わるか、また、「伝えたいもの」が伝わるか、送り手は、わかっているのかどうか

本についてはここまで。以下は、これらを通して私が思ったこと。

たとえば小説もまた「文章という信号にその文章に対応した意味内容が乗って伝達されている」といった単純な営みで成り立っているのではない。まあそれはよく言われることで、その際には「言葉の多義性や文脈を踏まえて読め」とか「行間を味わえ」とか言われ、また他の作品や他の作家との関連においても読まねばならないみたいだ。それは読者も承知している。しかし、小説は、友人同士の会話のように相手の認知環境に馴染んだ場で使われる言葉とは違う。特定の時代の特定の雑誌に誰々の作品ですという形で掲載されて宣伝された小説という文章が、流通したりしなかったり批評されたりしなかったり読むことがダサいとされたり希にはクールとされたりする状況の中で、それを読んだり読まなかったしている個人やグループの認知環境全体に、どういう刺激となって作用し、どういう変化を与えていくのか。そこまでのことを本当に想定し、それに真剣に挑むようにして書かれた小説の言葉というのは、意外に少ないのではないか。

自分のこの思いを正しく乗せた言葉が紙面に正しく印刷されてうれしいのではなく、この言葉の刺激を、ある読者に、この時代のこの状況で与えたならば、その読者の言葉世界全体はどう変化するのだろう。それを強く意識したうえで選び取られた言葉たち。

もうひとつ。

そういう受け手の認知環境の推察がもはや不可能といってよいのがインターネットだろう。ホームページの日記に綴られた言葉。掲示板で応酬の続く言葉。ハッカーの残していった言葉。送り手の意図した作用を受け手の心に正しく及ぼすことがコミュニケーションの目的であったならば、インターネットにおいては、その目的の達成はおぼろであり、達成をどう計ればいいのかもわからない。それでも我々は、どこにあるのかわからない(時には、どこにもないかもしれない)どこかの、だれであるのかわからない(時には、だれでもないかもしれない)だれかに向けて、言葉という刺激をきょうもこんなにも与え続けている。それは何故だろう。

そこにおいては、言葉がなんらかの相互作用を形成していると思われるさまざまな場の中に、私の発した言葉をひとつ新たに置いてみることで、その場がどんな風に変成し揺り動かされるのか、その実験をひたすら行っている。そんな気がすることはありませんか。このことはあの人にうまく伝わっただろうか、そればっかり気にしてもしかたない。そもそも伝えたいことなどなかったかもしれないし。それでも、私の書き込んだ言葉が、この言葉の磁場に、どういう具合であってもいい、わずかであってもいい、思ったことと正反対でもまあいい、なんらか波風を送った、どこかのだれかの認知環境にたぶんちょっとだけ変化を与えた、その絶対値こそが、重要なのではなかろうか。



補足1
「他者の心は存在するか」では、著者は「コミュニケーションの推論モデル」の章に続いて、コミュニケーションの意図という側面に注目し、そういう意図を持った人間のコミュニケーションと、サルのコミュニケーションさらにはネズミやチョウのコミュニケーションとを比較することで、進化上の必然から、あるレベルにおいて、「他者」「心」「私」といった観念で構成される感覚認知モデルが生まれてきたのだ、といった論につなげていく。そのあたりに触れずしては、この本の真価は伝えられないし、そのあたりを通して、この本は、他の「心が脳を感じるとき」「<意識>とは何だろうか」「脳と心の地形図」といった心関連というよりは脳関連といった方がよい書物へと、つながっていく。興味のある方はぜひ読んでみてください。

補足2
茂木健一郎氏が主催している「クオリア」というメーリングリストがあり、茂木氏はもちろんのこと、金沢氏もどんどん書き込んでいる。両者の著書「心が脳を感じるとき」「他者の心は存在するか」についても、著者と読者が直接ホットにやりとりしている。金沢氏は66年生まれとあるから、茂木氏と同様に新しい世代の研究者なのだろうと思う。20世紀の初め物理学において相対性理論と量子力学の大転換が訪れたように、脳や遺伝子といった分野の科学が今まさに旬であると、私もそう思うが、中でもとりわけ「脳と心」という面白すぎる問題をめぐって、同時代の気鋭の科学者たちが思考を極めており、しかもその現場にインターネットを通してあるていど立ち会えるということを考えると、彼らの書が巻き起こしているこの興奮は、実に時代そのものをリードしていると感じられる。


Junky
2000.2.11

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