村上春樹『海辺のカフカ』



   



村上春樹にとって小説を書くということ(とりわけこの小説を書いたこと)は、ウェブにあるインタビューをみると、なにより日々繰り返される行為として意義があったとも受けとれる。だったら私がこの小説を日々繰り返し読んでいったことの意義も、その行為において見いだすというのもアリだ。

小説読書の「行為としての意義」? 

それは説明しにくい。ただ少なくとも、各文章の言葉としての意味はなにか、それらが積み重なった総和の意味はどうかということではないのだろう。ストーリー展開が良いか悪いか、その長短や密度は適当か否かといった判断も、ある個人(私)がある時期のある状況下においてこの本を開きこの紙片をめくっていった、そうした特定の日常行為における価値を計ったほうがよいということだ。

さらには、これはきっとあれの喩えだ!と思いたくなるアイテムや場面が目白押しであり、それどころか、世界はメタファーとして存在しかつメタファーでない唯一のなにかも存在する、と(かなんとか)まで背中をストレートに押されるので、全編にわたる重層的な謎また謎を、重層的に解読してみないではいられないのだが、その答となると、村上読者ならもう誰しも期待しないとおり、結局またもや示されない。むしろ解読という行為を繰り返しながら読み進めた経験だけが、部屋のほこりのように毎日積み重なる。そこに意義を、見いだすことができるかどうかは別として、見いだすしかない。やれやれ。そんな気分。ただそれを、とりたてて不快ともアホらしいとも感じないでいられる、ああそれはいったいなぜだ。村上春樹小説のいったい何が、読書行為のこれほどの徒労を厭わせないのか。

きちょうめんで、少し偏屈で、ややムシがいい、そのような夢想の独白。そういうことを、かりに仕事場の隣の席で毎日やられたら、それはまた違った意義があろう。家で飯を食べている隣にそういう者がいたら、それはまた違った意義となろう。しかし、そういうものを毎日、読むというのは、さほど悪くなかった。

たとえば、ある組織を去っていく人にひとこと別れの言葉をかけようかという局面では、個人から個人にあてた曖昧でか細いながらも切実な思いは、たいていもっと図太い世間的で社交的な意義に回収されてしまう。どうにかしてそこをかいくぐっていける言葉づかい、言葉おくり、私個人から村上小説個人にあてた感想の言葉もそういうように贈れないものか。この小説を私的な贈り物であるかのように受けとったがごとく。


Junky
2002.9.29

日誌
迷宮旅行社・目次
著作=Junky@迷宮旅行社http://www.mayQ.net