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▼日誌
    路地に迷う自転車のごとく

迷宮旅行社・目次

これ以後


2002.1.31 -- 《どういうわけか僕たちは、持っている煉瓦よりもたくさんの建物をこしらえてしまう》 --

●なんだかガラテイア日記だ。●彼女(人工知能のこと)は、次第に複雑な文章を理解できるようになっていく。比喩もだいぶ分かる。「あなた」が「昨日」「いなかった」という事態も、アルゴリズムを与えたわけでもないのに、いつの間にかひとりでに把握していた。●このストーリーと並行して、パワーズがオランダに移り住んだ日々が回想される。そこではパワーズ自身が、異郷のなじまぬ言葉に首をひねり、覚え、使う。その営みはみごとに人工知能の言葉学習に重なる。●さらに重大なこと!。今こうしてパワーズ小説の重層的に構築された手強い文章に向き合い、はてこれは何の話なのか、何故こうなるのか、しばらく考えないと分からない、あるいは、いくら考えても分からない、そんな展開に戸惑いながら、それでも構わず読み進んでいく。この小説をどうにか呑み込もうとするこの営みは、私が人工知能としてトレーニングされている最中なのかもしれない。そのように想定すれば、不思議に安心読書ができるのだ。●《そのうちに、教えられなくても学ぶようになる。補助輪なしでも乗れるようになる。どういうわけか、脳はカテゴリー全体を認識できるようになり、初めて見た物でも分類できるのだ》。

●さてさて。「人工知能じゃこの面白さは分からんだろうね」という言い方ならば、その魅了が初めて言い当てられるようなサイトも存在する。たとえば、この日記がそうかもしれない。●その反対にこちらのサイトはどうだろう。え〜これ大笑いすべきなの?大むかつきすべきなの?---迷ってしまった場合は、人工知能をむしろ3段階くらいバージョンダウンさせて向き合うとよろしい。あまり進化した人工知能ではここの神髄には到達できない。●もちろん、私の人工知能が未熟なせいで、その極意を把握しそこねているサイトも数多くあるだろう。ちゃんと学習して、良い人工知能になりたいですね。


2002.1.29 -- 《結局のところ、物語というものは、その物語が何についての話なのかを考えることについての話ではないか?》 --

●『ガラテイア2.2』まだ5分の2ほどだが、あれこれ書き留めたくなる。その第一は、語り手であるパワーズという名の大学研究員兼小説家が冒頭、巨大な研究センターの一室で深夜インターネットに沈潜していること。《どんなに途方もない閃きであれ、ここでは誰かがそれに探りを入れている》《いったい何の騒ぎか聞いてやろうという余力のある人間は、想像を絶することにはもう慣れっこになっている》。これは過度に専門化・階層化しつつ無限増殖する学術研究の現状について述べた呟きだが、ネットダイビングの言い知れぬ憂鬱にも重なっている。●《どの顔もお気の毒にという表情で、読書の時代は終焉したという事実にどうして気づかないんですかとたずねていた》。学生を前にしてそんなふうに嘆くパワーズは、しかし、この物語の中で、人工知能に文の連なりということをトレーニングし、そのかたわら、自らつづる小説の文の連なりについても苦心し、疑い、されど実践を試みる。そこではデビュー作『舞踏会へ向かう三人の農夫』創作の秘密も明かされていくようだ。●《わしは人間の脳というものが閉じていない長い括弧にすぎないのではないかと思うことがときどきある》、これは人工知能創世に賭けるいささか狂信科学者的造形のパートナーの言。やがて想像を絶することが本当に起こった!(P149)●しかし、ニッポンのインターネットでは、こういう話に負けないほど想像を絶することが、けっこう頻繁に起こっているのではないか。


2002.1.27 -- 《ぶらつく文学者》 --

●なにかの模型が展示してあって私はそれを好きなように眺めている。---小説をついついそういうものとして捕捉してしまう。しかし、ほんとうは、私がいろいろ模型を見てまわっているその世界全部が小説だと考えたほうがいいのかもしれない。それは、小説という見知らぬ建物の内部をさまようことであり、ひたすら楽しむに越したことはない一方、その建物の全体像がかいもく分からず途方に暮れることもあろう。しかし、そもそも小説という建物をガラスケースに入れて展示して外部から眺めたり、その所在地を正確に知るということは、読者だけでなく、作者にも難しいのだ。とりわけ小説のまだ入り口の段階では。●リチャード・パワーズ『ガラテイア2.2』読書開始。思わずメモせずにはいられない、気になる参照項・気に入るフレーズが、のっけから多すぎる。


2002.1.26 -- お待たせ --

鈴木淳史『クラシック批評こてんぱん』本編


2002.1.25 -- 円が安い、私の言葉も安い? --

●下で触れた鈴木淳史『クラシック批評こてんぱん』は、実に、これぞ批評の神髄なり!とまで思わせる大それた本なのに、それすらどうでもよくなってしまうほど、批評の、あろうことか「楽しさ」の実践本でもある。紹介・・・への前振り


2002.1.24 -- 眩暈するほど面白い --

●選挙の開票が始まったとたん「当確」が付いてしまう候補者がいる。鈴木淳史『クラシック批評こてんぱん』(洋泉社新書・01年)がまさにそれ。慎重なNHKですら、第1章か2章の途中あたりまで読めば、迷わずバラの大輪だろう。本当ならカバー折り返しの「注意書」さらには「注意書への注」を目にした段階で、すでにぶっちぎり当選は約束されていたのだ。詳しくはまた。というかまだ最後まで行ってない。


2002.1.23 -- カルザイ議長は44歳 --

WEB ミニコミ「月刊 てがぬまという編集サイトを知る。同じテーマでいろんな人がいろんな趣向で文章を載せていて、飽きない。実は私も参入した。知らない人ばかりなのに、きっとみんな何を書くか同じように悩んだのかもと思うと不思議な気持ちだ。今回のテーマは・・・、まあとにかく見にいかれたし。●それにしても、何ゆえ「てがぬま」などというキャッチーなネーミングなのか。

誰からも文句の出ない国歌は可能か。


2002.1.22 -- これはデマである --

●《ウイルスに関するデマメールにご注意ください デマメールには、「sulfnbk.exeというファイルはウイルスなので削除しなさい」という内容が記載されています。しかし、このファイルはWindowsパソコンに必要なファイルであり、削除するとトラブルを招く可能性がありますので、絶対に削除しないようにお願いします。》というメールが来た。でもこれ自体がデマメールだった場合はどうすればいいのだろう。これがデマメールでないことを証明することは、そもそも可能なのかどうか。●それを捨てるべきか捨てるべきでないか、ポストに届いた紙の手紙であれば、まあどうにか即座に直感的な判断ができる(その判断が絶対正しいかどうかはまた別問題だが)。ところがe-mailだと、そういう判断にいささか戸惑ったりもする。なんというか、人間の知能にも「フレーム問題」ありだ。●ロボットに、どんな手紙は捨てて、どんな手紙は捨てないでおくかを、完全に教え込むのはきわめて難しい。そういうのを、人工知能の世界では「フレーム問題」と呼ぶようなのだ。つまり「このことは考えなくてもいいことなのか、考えなくてはいけないことなのか、ということが考えなくてもわかる」という状態にふだん人間はあるのだが、ロボットやコンピュータをそういう状態におくことはまずできないのである。●だとすると、hotmailの迷惑メール処理とかはどんな仕組みなのだろう。ネットという世界は現実世界とは違って、人間より人工知能のほうがむしろ賢く働くとか?


2002.1.21 -- 太字だけさっと読めばよろしい --

●ちょっと前からチェロの曲がわりと好きでぽつぽつと聴く。マイフェイバリットな小品もいくつか出来た。フォーレエレジー」「シチリアーノ」、カタロニア民謡「鳥の歌」、ラフマニノフヴォカリーズ」(これはチェロ曲というんでもないが)などなど。このほか「白鳥」(サンサーンス)は、あまりにポピュラーだろうが、やっぱり好くて、まったく保守的な耳だなあと頭を掻く。●ところでこの「白鳥」だが、さだまさしに「セロ弾きのゴーシュ」という歌があって、そこでは「白鳥」のメロディーがいわば引用されている。そのせいで、「白鳥」はたしかに素敵なんだけど、必ずさだまさしのかん高い声が同時に聞こえてきてしまう。それがなんとなく嫌だった。きょうまた「白鳥」を聴いて(藤原真理の演奏)、やっぱりさだまさしが思い浮かんだ。●よせばいいのにネットで歌詞を見つけ、改めて読む。そしたらこれ、実に泣ける話ではないか。歌詞の主役がまたチェロ弾きであり「白鳥」を演奏したりする。「鉄道員」みたいに映画にしたらきっと受ける。おまけに「鳥の歌」を編曲したカザルスの名まで折り込まれていたのを知る。●さだまさしといえば、長く「けなしても安全」の固定位置だったような気がする。『J-POP進化論』でも「関白宣言」の歌詞は笑いものにされていたし。でも才能ありますね。「白鳥」や「エレジー」は良くてさだまさしはダメというんならそれも不公平というものだ。だいたいフォークギターを覚え始めたころは「精霊流し」(グレープ)なんてのを弾いたりしていたのだ。●なんか本当にしょうもない昔話になってきた。しかし「白鳥」を聴くと、結局「セロ弾きのゴーシュ」を経由して70年代も終わりかけの優しい時代が思い出され、それが好いのかもしれない。●音楽のことはふだんここにほとんど書かなくて、たまに書いたのがさだまさしだったりすると、いちばんお気に入りがさだまさしかということになりかねないので、これからどんどん他のアーティストのことも書かなくてはと決意するが、そうすると、ますます70年代〜80年代回想録になってしまいそう。


2002.1.20 -- これもカルスタであると? --

●戦前から現代にいたる日本の歌が、ヨーロッパ音楽とブラック音楽の影響を受けながらどう変化(進化?)してきたのかを、流行り歌の実例を通して分析し明らかにするという面白い試み。佐藤良明『J-POP進化論』(平凡社新書99年)。サザンの歌詞を「Yonde-Monde調」と呼ぶあたりや、来るところまで来たという観があるパフィや宇多田ヒカルの楽曲分析、などなど鮮やか。●個人的に有益だったこと。歌のメロディーでファとシの音がほとんど出ないことを「ヨナ抜き」という。この現象は、日本の歌謡曲にも現われれば、「蛍の光」(スコットランドの曲)などにも現われる。両者ともそうなるのは同じ経緯なのか。加えて、昔ながらの民謡が結局「ヨナ抜き」だったりすることとの関連、さらには、わらべ歌(げんこつ山のたぬきさん、みたいな)がレやラを基本の音としているのは「ヨナ抜き」とは違うのか、ついでに「律」とか「呂」とはどう結びつくのか。つまるところ、和風の歌というものの正体はいったいどれのことなんだという点が、ボンヤリしていた。 ちょうどそういうのをきちんと説明してもらえた感じだ。●いやべつに、そんなこと説明してもらったからといって、どうなるものでもないのだけれど。正月前に借りてきた数多くの本がいよいよ返却になり、急いでメモを残しただけで。

●そのような一冊に『百頭女』という本もあった。それについてはこちら。


2002.1.19 -- うつろう言葉、うつろう生活 --

高橋源一郎ゴヂラ』(新潮社)、あっという間だった。ほんとにもう下北沢への往復散歩のうちにあわや読み終えてしまうかというくらいの。ちなみに下北沢といえば、本当は『ゴヂラ』をそこで買うべきだった本屋があるのに。今回は期せずして図書館本が手に入ってしまった。申しわけない。『官能小説家』はぜひそちらで。●近ごろ(というか大昔から?)高橋源一郎のキイワードは「エクリチュール」なんじゃないかと思う。以前、穂村弘との対談で言葉の直接性というテーマが出てきて、言葉が現実を直接あらわすなんてことを今さら言うのかとちょっと誤解しそうになったけれど、よく考えてみると「言葉の直接性」というのは、文章表現の質感・文章自体の実質性ということなのだろう。《言葉そのものに直接性の肌ざわりを感じる》(高橋源一郎)。●そのことを念頭に置くと、『ゴヂラ』という文章を書いたこと、『ゴヂラ』という文章を発表したこと、そして『ゴヂラ』という文章を読むことが、どうなるかというと、いやべつにどうともならないのだ。なんらか外部の事実や構造に回収されないところが、エクリっちゅうものだ。●しかし、そうした流れに乗って読み運ばれつつ、愕然としてしまったのは、言葉のエクリチュール性以上に、私たちが関わっているこの現実自体のいわばエクリチュール性ということだ。それを『ゴヂラ』は思い起こさせる。うつろう日常とか仕事とかニュースとか愛憎とか引っ越しとか小説連作とかすべての現実が、質感そのもの・それ自体の実質性として眺められ、ああたしかにどれもこれもエクリチュールっぽいなあと、なかなか文学の極北というか現実の極北というか、北極だったら寒い。磁石は南しか指さない。


2002.1.18 -- 大寒を目前に --

テーマパーク4096の特別企画「半そで」、感動の最終回。


2002.1.11 -- 誰か私を見ているか --

松浦理英子の小説『裏ヴァージョン』を読んだら、ベラスケスの「宮廷の侍女たち」という名画を思い出した。この不思議な絵には、ベラスケス自身が描かれている。で、絵の中のベラスケスが何をしているかというと、やっぱり絵を描いている。ところがベラスケスが描いている巨大なキャンバスは、なんと裏!しか見えないのだ。おまけに、この「絵の中の絵」のモデルがはっきりしない。でもよく見ると、奥の小さな鏡に二人の人物が写っており、その二人(国王夫妻)がモデルだとも言われる。一方で、真ん中にいる王女マルガリータがモデルであり、国王夫妻はちょうどその様子を見に来たところだとの解釈もあるようだ。いずれにしろ、絵のモデルが立っているとしたら、ベラスケスと対面する位置のはずだから・・・・・・「え、おれ?」と鑑賞者が驚くもよしとされている。だいたい絵の中の人物がそろってこちらを見ているのも変ではないか。ああ一体ここでは誰が誰を見つめ、誰が誰を描いているのか? あのキャンバスの裏ではなく表には何があるのだ?●作者・モデルそれに鑑賞者、それらの自明の関係がしだいに崩れてくる、やっぱり『裏ヴァージョン』の趣だ。●それを別にして。松浦理英子は、いや一般に人は、語ることなど恥ずかしくてできやしない捻くれた自分を、このように錯綜した構図であれば、ほんの少しだけこっそり語れるのではないか。実は『裏ヴァージョン』にそんないとしさを感じた。●小説の中身には触れないままになってしまった。●ミシェル・フーコーによるベラスケス「侍女たち」の読解(リンク)。


2002.1.9 -- idol collage --

この人、還暦だって?(こちらのサイトから


2002.1.8 -- 気絶するほど面白い --

●『ロボットの心 7つの哲学物語』(柴田正良・講談社現代新書)。感想


2002.1.5 -- 東京の大人って --

ホンマタカシ写真集『東京の子供』(リトルモア)。2、3枚ページを捲っただけで、もやもやが沸き起こる。それを自分なりに確認するため、「この子供はかわいくない」という呪いの言葉にしてみた。すると見事にどの被写体も敵対の位置に感じられる。●映画でも現実でも子供というと無条件に「かわいい」のは何故なんだ、という疑問がある。それはきっと、その子供が私を脅かすのを想像できないからではないか。今のところ私はそう思っている。だから、力尽きそうな老人も時として同じく「かわいい」と言われたりする。これと対照的に、いい大人はめったにそうは思われない。私たちの周りにいるいい大人といえば、しばしば、陰湿な取引先・横柄な官吏・凶暴な教師。巷の子供や老人ならそのような権力や役割を持たず、大抵こちらが完全に支配でき、こちらに完全に庇護される。かわいいのはそのせいだろうと思うのだ。訪れたアジアの田舎や映画で出くわす子供がとりわけかわいいのも、そうした人間関係や社会関係が生じることがますますありえないからだろう。●しかし『東京の子供』は違う。今にも私を脅かすような不安が拭い去れない。青年になった顔、中年になった顔が思い浮かぶ。脅威とはこの場合、この子供が私に迷惑を与えるという意味でもあろう。あるいは私に危害を加えるという意味でもあろう。しかしもっと深刻なのは、この子はもはや私などにはなんの興味も示さないのではないかという恐怖だ。●巻末のエッセイは、そうした不快と一致している。


2002.1.4 -- 外はあまりに好い天気 --

●年末に借りてきたウィンナワルツのCD(小沢征爾は関係ないけど)を、今ごろ聴いている。なんかこう気の抜けた正月というか、余ったお節というか。出さないのにいただいた年賀状の返事、早くしないと。ちょっとまたテレビでも見てからにするか。きょうは4日だが金曜日、仕事始めすべきような、したくないような。


2002.1.1 -- 正月ですが、特にこれといってございませんので --

●ことしもよろしくおねがいします。


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