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    路地に迷う自転車のごとく

迷宮旅行社・目次

これ以後


2003.12.31 -- 来年へ続く --

阿部和重シンセミア』。借金返済に走るがごとく感想を書き始めたが、まだ半分。ああもう間にあわない。これでどうか勘弁してください→「写実、叙述、呪術 ?


2003.12.29 -- エレガントな悪辣 --

金井美恵子のエッセー集『「競争相手は馬鹿ばかり」の世界へようこそ』。何かにいちゃもんをつけて徹底的に叩きのめすための限りなく悪辣にしてエレガントな語り口。日々ブログをつづる姿勢やその見本テキストにどうだろう。というか、私自身が目指す志向も、きっとこういうものなのだ(教養や才能の差はさておき)。●もちろん金井美恵子の論は、一つのセンテンスのなかで多様な論点も精緻な分析も一つだに漏らすまいとする過激さが、罵倒の過激さに見合っているからこそ凄いのだ。しかもしかも、まくしたてたりぼやいたりしているだけにも見せつつ、謙虚に読みたどる者にはその多様さや精緻さが確実に知れるよう、書き勇みも書き逃しも全くないと思えるところに、いっそう唸ってしまう。

●ところで、小熊英二大月隆寛の対立について、周到ながら端的に急所を突いた指摘を見つけた。http://d.hatena.ne.jp/kurosawa31/20031130 ひねりが通常より2回か3回多い絶妙演技。この手のネタは不健康中年男子の専科かと思いきや、「ヘルシー女子大生」の関心も引いているとは。●やや金井美恵子風味かな、ということで。


2003.12.26 -- これだけとも、これで十分とも --

阿部和重シンセミア』やっと手にした。これはスゴい。現代人の思考や感覚を担っている歯車の総てが否応なくフル回転させられる、とかなんとかいろいろ言いたいことは後にして、とにかく読み耽ってしまう小説。まさにsinsemillaのごとし。正月にかけてちびちび楽しもうと思っていたが、あっという間に下巻突入。押し詰まる年の瀬を上回るスピードだ。感想も年内ということになるか。ああ忙しい。やはり年賀状は無理。●ともあれ、まだ途中だが、『シンセミア』を2003年のベスト本としよう。『INVITATION』『SIGHIT』などの雑誌で今年の総決算をぱらぱら見たが、『シンセミア』の評価は高いようだ。

●ではベスト映画はというと、見た数があまりに少ないから無難なところで、というのではなく、あえてアキ・カウリスマキ過去のない男』を改めて心に刻んでおきたい。世界も私も国の予算もなんだかジリ貧の昨今、この映画から得られるような力だけは本当の糧になるんじゃないかと、ヤワなようでヤワではないそんな期待を込めて。●ちなみに、昨夜NHKで放映されたドイツ映画『ハンネス、列車の旅』は、主人公が心優しき独り者の中年男であること、かつ時刻表マニアという変わり者であること、さらには国際時刻表選手権大会なんてものがあってその様子が淡々と描写されること、などなどカウリスマキ風の脱力テイストに溢れた一作だった。その大会が行なわれるのがフィンランド辺境の町という設定でもあり、主人公は鉄道やフェリーを乗り継いでそこを目指す。おまけにヘルシンキに向かう列車(だったか?)では、なんと食堂車の乗客にカティ・オウティネン(カウリスマキ映画の看板)が座っている。テーマとストーリーがちょっときれいにまとまりすぎの感はあったけれど。●参照サイト

●音楽となると新作になおさら触れていない。『ハルカリベーコン』くらいしか思いつかない。しかしこのCDは、歌詞にもサウンドにも多彩な記憶とスキルを惜しみなく盛り込んで練りに練って仕上げた最高質の一枚だろう。CCCDなのになぜかすんなりコピーできた(しかもマック)という点もポイント高い。

●さて重大ニュースとなると、これはもう「イラク戦争」で決まり? だがそう思ってしまうところに、世界の帝国化という以上にメディアを介した世界像の帝国化があると疑ってみてはどうだろう。イラク戦争は本当に私にとって重大なのか。 たとえば2003年の第1位に「ブログ」を選んでもいいのだ。もはや平気で「ブログ」と書くようになった年。


2003.12.22 -- ゴールドラッシュ --

●『ココロ社』という個人サイトがある。ここで組み立てられる文章の面白さはきわめて希少種で、少なくとも小説作品などでは似たものが挙げられない。この秘密は詳しく分析するに値する。それを私もしだいに強く意識させられていたところに、ココロ社のはてなダイアリーが出来! こちらでは読書の記録や自らが書く小説のアイディアまで公開していくようだ。ピンチョンなども読みこんでいる人であることが窺える。喉越しのよいココロ社の文章は、やはり、読み書きの多大な蓄積と長い苦闘を経て醸造・蒸留された最終の一滴なのだと暗示させる。つまり贅沢品なのである。●一方で、ひねり出されたものは全部アップして搾りかすもなにも一緒くた、というところにブログの一般的な魅力があるとも言えるのだが。●from『鴨川だより』。

●『スヰス』というサイトが消えて久しかったが、どうやら復活した。→『ド・リーム墓場』●このサイトも内容、文体ともに一貫し、緊張感はけっして緩むことがない。そのまま本になるような完成度だと思える。だから、書き上げるにはずいぶん時間がかかっているに違いない。しかし、書き手はかなり特殊な厳しい生計を強いられてきたはずで、サイトはその記録でもあることから、いったいこの人には毎日どれくらいの自由時間があるのだろう、どんな部屋でどんな格好で書いているのだろう、とそんなことがつい気になる。●そもそも、サイトに書かれたことは全部事実なのだろうか。だとしたらすこぶる凄い話だ(もちろん私はそう思って読んでいる)。だが仮に「いや実はこれ創作でして」なんてことになったら? それはそれでまた同じくらい凄い話ではないか。どちらにしても私たちはここで希有な異能に触れていることになる。

●きょうはなんだかサイト推薦の日だ。ではもう一件。『日々、メタル。』●文体と思想と生活の一致、なんてことを思わせる日記。珍しいことに現実のしかも仕事でちょっと知りあった人。おまけに近所。あまつさえヤング。●ところで、このサイトを『はてなの公開アンテナ』に入れている人はまだいない。私の嗜好は『はてな』界隈のある一群にかなり似ているようで、「われ発見せり!」と思ったサイトも『はてな』からとっくに通じていて「なんだ」と思うことが多い。しかしこうしてまったく未開拓の領域があることにも気づく。


2003.12.16 -- ゆかし、をかし --

●先週は小津安二郎の映画ばかり見ていた。NHK-BS(参照)。『小早川家の秋』『一人息子』『晩春』『彼岸花』『秋刀魚の味』ときて、生誕100年の12月12日には『東京物語』。●ここまで連続すれば、小津スタイルがいやでも察知されてくる。日本家屋の玄関や居間や二階。真正面を向いたニコニコ顔。ぎこちなくハキハキした台詞。こう同じものばかり毎晩見てどうするんだと自分にツッコミを入れつつも、律義に同じように味わっている。正月の雑煮でも食べるような折り目正しさだ。いや映画の季節としてはお盆の時分か。親類縁者がこれといった理由もなく集まる。やっぱり笠さんが来ないと始まらないね、と。●小津作品に惹かれたとされるホウ・シャオシェンやヴィム・ヴェンダースの映画のほうが、当の小津なんかよりずっと素晴しいとこれまで思っていたけれど、改めて見ると『東京物語』『晩春』などは負けず劣らず良い。贔屓になった。ついでに、今では知らない人も多そうなので書くと、ジム・ジャームッシュ『ストレンジャー・ザン・パラダイス』で、主人公たちが部屋にいてラジオかなにかで競馬のことを気にしている場面に「トウキョウ・ストーリー」という馬の名が出てくる。●『東京物語』は1953年の作品。だからちょうど50年前の風景だ。50年たてば役者もたいてい死んでしまう。ところが早々と表舞台から消えた原節子さんだけが御健在らしいというのは、やはり不思議。●それにしても、原節子のあの笑顔アップはどこかホラーっぽくもあって、子供なんかつい泣き出すんじゃないかと余計な心配をするのは私だけ? ●しかしなんの実質もない日記だった。


2003.12.15 -- がんはお前だ --

なんとフセインが拘束された! しかしこのフセインというやつ、イラクにとって世界にとって100パーセント厄介者であると考えて絶対間違いないのかどうか。というのも、たとえばコレステロールというやつは、これまでずっと動脈硬化を引き起こすからと監視と除去に努めてきた。ところが近ごろはそう毛嫌いしなくてもいいという話になっているではないか。こちら読売の記事には、総コレステロール値の高い人のほうが、がんによる死亡が少なかった、全体の死亡率も低かったという調査結果が出ている。動脈硬化から直結するはずの脳卒中すら少なかったとの報告もある。「なんだ騙された」「今さら困っちゃうよ」。好きな肉食を我慢してきた人なら、そんな気持ちだろうか。読売の記事もう1つ週刊朝日もこの話題を取り上げた。●なお、コレステロールにはいわゆる善玉と悪玉がありその関連を踏まえる必要がある。というか、じつは今回捕まったのは善玉フセインであって、悪玉のほうはまだ穴蔵の壁にぴたっとこびりついたまま、だったりするのではないか。悪玉は粒子が小さいので測定しにくいというし。●「でも大量破壊兵器だけはもう何がなんでも減らせばいいんでしょ? 先生!」「ええまあそうですが、検査結果をみると正常値ですよ」。じゃあ、ブッシュのバカ値が極限まで高いという診断だけは金輪際くつがえらないよう、そこんとこよろしく。


2003.12.11 -- 想像できること、できないこと --

●もうここ2年くらいは開きもせずゴミ箱行きだった「小泉内閣メールマガジン」に、今回だけは目を通してみた。自衛隊派遣の閣議決定について(11日号)。なんだかすっかり馴染んでしまって今回もどうせそんな感じだろうと諦めていたとおりの空疎な台詞が、頭にも胸にも腹にも引っかからず通り抜ける。やりきれない思いを抱え、よしデモにでも出かけるか、というとそうでもなく、ましてやテロに出かけたりはしない。●代わりに何をするかというと、朝日新聞の社説など読んでみる(10日付)。ところが、これまた聞いたふうな台詞ばかり。というか、私こそがつい書き連ねそうな台詞をそこに見つけて、かえって嫌になる。●じゃあ次は読売の社説(10日付)だ。日本の正当派としては、最低この二つをこの順序で拝むのがよいとされる。しかし、さっき自分が言いそうなことを朝日に調子よく書かれてしまい、ちょっと逆らいたくなったところを、こんどは読売が勇ましく代弁してしまっているではないか。気分はいっそうどんより。

●とはいえ、総理がこれほど詭弁を弄さねばならなかった政治の現実というものを、私は想像することができる。朝日や読売の主張についても、どのような構図で生成されたかを想像できる。三者はもちろん互いに想像できるに決まっている。言説ことごとく、さもありなん。●また、たしかに自衛隊員は不可視の存在だったけれど、彼らがイラクに行く心情を想像できるかと言うなら、私はできる。今回のような理不尽な状況下で、仕事させられるようなこと、あまつさえ仕事させるようなことを、日本社会のそこかしこで私たちはやってきたし、これからもやってしまうのだから。耐えがたい。しかし、避けがたい。

●では、こうした想像を本当に絶してしまう世界もどこかにあるのか。●人間の行うことはすべて想像可能だというなら、これは無意味な問いだ。しかし、たとえばまさにイラクのことは、とりわけイラクで自爆テロに出かけていく人の気持ちだけは、今の私にどうしても想像できないと仮定してみてはどうか。●小泉内閣メルマガが空疎なのは、総理の文言が空疎だからというだけではない。イラクの惨状など自分の生活とは無縁にみえる私の世界像が、あまりに揺るぎないからだ。いや本当に無縁かどうかはわからない。でも、それも考え含めた上でも、べつに能天気というのでなく深刻で慎重な態度をとろうとしても、けっきょく私はイラクのテロリストとはほど遠い日常を送っているという事実が否めない。想像を超えた「圧倒的な非対称」はここにある。私と総理の間ではなく、朝日と読売の間でもない。

●いや、想像できないから特別扱いしようと言うのではない。想像できないことをあえて想像したいのだ。もしも日本が他国から攻撃されて政府が壊滅したようなとき、どのような勢力がテロやゲリラの担い手になるのか、ということを。つまり、誰がテロリストになるのか。同僚や同級生や近所や親戚の誰がテロリストになるのか。たとえば私は、いよいよとなればデモに出かける用意くらいはあるのだが、自爆テロにだけは絶対に出かけないのだろうか? ●北朝鮮の侵略とか、はたまた昔のごとき米国の占領とか、それに対してテロを仕掛けそうなあの団体この団体、それらを特定してシミュレートしてみるべきか。しかし、そんな事態があるとしたら、日本をめぐる国際情勢も国内情勢もがらりと変化した上でのことだろうから、現在の情勢に当てはめるのはナンセンスだとも思われてくる。単純ながら、このことがすでに、イラクは日本の想像を絶しているということでもあろう。

●このあいだ、優先席で携帯通話していた若い女性を男が殴ったという事件があった(参照: アサヒコム)。不正義を象徴すると自らが信じる相手にいくらか義憤をもって暴力をふるう、という点では、これはテロの一種かもしれない。市民を巻き添えにする爆弾攻撃、占領国スタッフの暗殺、それらを私の行いに置き換えてみるには、ここまで卑近な例を持ってくるしかないのかもしれない。●私がテロリストにならないとしたら、誰がなるのだ。誰もならないのか。誰もならないのに、世界にはなぜテロリストがこんなにたくさんいるのだ。


2003.12.7 -- 日曜清談(政談?) --

●4日の日記に関して、はてなのコメント欄と私の掲示板それぞれに意義深い意見をいただいた。さらに考えてもう少し書いてみたい。
●finalventさん
http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20031204
●まさはるさんhttp://www.aaacafe.ne.jp/free/junky/aq.bbs
*ほかの方からもありがたい反応が。
●kojinさんhttp://d.hatena.ne.jp/kojin/20031204
●kmiuraさんhttp://d.hatena.ne.jp/kmiura/20031204#p1


2003.12.4 -- 大問題 --

イラク北部で日本の外交官が殺された。私はまずこのことが日本国民としていくらか恐ろしい。それは、私の住む首都東京に対するテロの警告がまるきり脅しではないと感じられるからだ。あるいは、そのうち私も日本の旅券を持って物見遊山で中東まで出かけないとも限らないからだ。他人事とは言いきれない。●しかし、これを、私が家族の一人として悲しんだり怒ったりしたかというと、ニュースを見ている時を除けば、そういうことはない。そういう意味では他人事だ。●では、この事件を、私は日本国民の一人として悲しんだり怒ったりしたのだろうか? どうだろう? あるいは、いわゆる「イラクに派遣された自衛隊員がゲリラの攻撃で死亡した」としよう。私はそれを日本国民の一員として悲しんだり怒ったりするのだろうか? そうするのが自然なのだろうか? それは何故だろうか?●一方、今回の戦争でイラク国民をはじめとして大勢の人々が殺されていることについて、私は戦争を支援した日本国の国民として責任を感じたり反省したりしているだろうか? そして、それは自然なのだろうか? ●仮に一方が自然であるとしたら、同じ根拠によって、もう一方も自然であるべきなのか? ●自分の感情くらい自分で判断できるだろう、と言われるかもしれない。たしかにそれを隠すような態度はイヤらしいし無益だ。ただその感情は日本国民としてなのか、自然であるのかなどと問われると、なんだかわからなくなる。べつに挑発や皮肉ではない。単純に首をひねっている。

●すこし古い話に飛ぶ。中国西安の大学の文化祭で、日本の留学生らがある寸劇を見せたところ、それが中国を侮辱していると捉えた中国の学生たちが怒り、大規模な抗議行動が起こって、一部の学生が無関係の日本の留学生に暴行した、という事件があった。だいぶたってから朝日新聞が詳しい報告を掲載した。http://www.mayq.net/asahi/031128.html=ログ転載= ●この記事を読んで私に巻き起こった感情は、今回の外交官殺害で巻き起こった感情と似ていると思う。(イラク戦争を支援したことの是非、この寸劇を見せたことの是非は、今は問わないとして)●この西安の事件は、私には他人事ではないのだろうか? もし他人事でないとしたら、それはつまり、私が日本国民の一人としてこの事件を受けとめている、ということになるのだろうか? そうかもしれない。もし私がイラク国民だったなら、この事件はただ可笑しいか通り過ぎるか、その程度だろうから。

●そこへもってきて、またまた気になるニュースが出ていた。トヨタ自動車が中国で出した広告が「中国人を侮辱している」として騒動になっている、というのだ。これも朝日。http://www.asahi.com/international/update/1204/002.html ●記事によれば、広告写真の1枚は、2頭の石の獅子(中国の象徴とされる)がトヨタ車に敬礼などをするポーズをとり「尊敬せずにはいられない」とのコピーがついている。もう1枚は、人民解放軍のものに見えるトラックをトヨタ車が牽引している。●こんな騒動、ただ笑って通り過ぎればいいじゃないか。自分でもそう思う。でもそうならない自分がいる。たとえば海外でトヨタ車やウォークマンを目にしたりその評判を耳にしたりすると、べつに私が作ったり売りつけたりしたわけではないのに、なんとなく誇らしいあるいは恥ずかしい気になるのと同じく、この騒動もまたちょっとだけ他人事でなく感じてしまう。これが韓国ヒュンダイ社の広告だったら、私はなんとも感じないのだろう(中国の人もさほど気にしなかったかもしれない)。したがって、この騒動への関心が、トヨタがたまたま日本企業であり、私がたまたま日本国民であることから発しているのは間違いない。では、そのような関心はすべて錯誤なんだろうか? それともいくらか正当なんだろうか?

●こういうことにまつわる違和感は昔からずっと変わらない。中国や朝鮮に対する侵略や支配の過去を、私は「単に」忘れてはいけないのか。それとも「日本国民として」忘れてはいけないのか。どうなんだ? 

●さてさて、疑問ばかり投げかけておしまいだ。ここにあげた国民意識へのこだわりをナショナリズムと呼ぶなら、私のナショナリズムには、そうとう厄介な錯誤が含まれているのだろう。しかし、私のナリョナリズムは、それほど単純な要素ばかりで構成されているわけでもないと思う。それをもっと考えたい(そう言うばかりで、いっこうに考えた形跡がない)。

●では問題です。「?」はいくつありましたか?


2003.12.3 -- タイミング --

●資本制や国家への対抗運動として柄谷行人氏が提唱した「NAM」(解散)。それと関わりの深かった地域通貨プロジェクト「」。これらのメンバー間で熾烈な内紛劇があったとの噂は聞こえていたが、その核心とおぼしき経緯の詳細がQプロジェクトのサイトに公開されている。『重力02』でもそのことに触れていた鎌田哲哉氏がまとめたもの。http://www.q-project.org/q_kyoto.html ●これを読む限りでは、NAMのQへの介入と柄谷行人氏らのそのやり口は、なんというか性根が腐っている。逆に、Qを立ち上げた西部忠氏からは真摯さと粘り強さが伝わる。●この手の確執は、当事者としては白黒つけたいに決まっているが、それでも、細かく見つめ直す作業のうんざり感もまた並大抵でなく、結局うっちゃってしまうことが、ままあるのではないか。しかし、曖昧さにまぶして不正義を問わないぬけぬけとした正義の顔ほどタチの悪いものはない。その義憤にかられたがゆえに、ここまでの徹底究明がなされたのだろう。これまで『重力』などから感じられた鎌田氏の直球勝負の信念が、そのまま貫徹された印象だ。ここにはアイロニーはないが、ロマン主義でもない。

●実は、柄谷行人の本を久しぶりにじっくり読んでいた。『終焉をめぐって』。昭和が終った1989年に書かれた評論が中心。ここで柄谷氏は、日本の近代史(および文学史)について独創的で決定的なパースペクティブを示す。それを基にした実に刺激的な観点から、大江健三郎万延元年のフットボール』を評価し、逆に村上春樹1973年のピンボール』を批判する。しかもこのパースペティブは、明治以来のナショナリズムの起源を考えるのにも大いなる示唆をくれる。そんなわけで、私としてはまた一つ永久保存読書となった。●ここになにか書こうと思っていたところだったのに、なんだかタイミングが悪い(べつに柄谷氏の言動と著作それぞれが互いの価値を上下させるわけではないのだが)。同書の感想はいずれ、今の気分のほとぼりがさめたころに。

●そうそう、『終焉をめぐって』を読んだことで、『万延元年のフットボール』の面白さもまた改めて思い起こしたところだった。のに、その大江氏が自衛隊派遣をめぐるエッセイ「私は怒っている」がリベラシオン紙に掲載されたそうで、それに対する内田樹氏のあまりに鮮やかな批判に出くわしてしまった。http://www.geocities.co.jp/Berkeley/3949/03.12.html(12月2日 ←×3日) 大江氏の思考の真芯を捉えてぐうの音も出させないような一撃。●『万延元年のフットボール』にはあったはずの懐の深さというものを、こういうときはついつい欠いてしまうのか、大江氏。

●ついでながら、柄谷行人の名は今や大学生のコモンセンスでもなくなったと、北田暁大氏がインタビューで述べていて、そんなものかと思った。http://media.excite.co.jp/book/interview/200311/p04.html ●なお、このインタビューを読むかぎり、「アイロニー」と「ロマン主義」の用語はとくに深く考えこむ必要はないようだ。というわけで、さっきも流行語みたいにして使った。


03年11月

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* この日誌ははてなダイアリー(id=tokyocat)に同時掲載しています。

著作=Junky@迷宮旅行社(www.mayQ.net)