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迷宮旅行社・目次

これ以後


2003.11.28 -- 日記のふり --

●脳科学はルネッサンスともいえる活況を呈しているという。それにもかかわらず、客観的に測定できる脳と、主観的に感じとれる意識とが、どう関係しているのかは皆目わからない。かつてニュートンは、太陽や月の運動とリンゴの運動とを初めて同一の法則で説明したが、そのような「第一原理」がまだ見出せない。だから脳の研究はまだ錬金術だ。――茂木健一郎氏は、『意識とはなにか』(ちくま新書)で、これまで通りこうした前提に立つ。●意識という謎は科学の王道では解けないのだ。それどころかいっそう道に迷わせる。茂木氏はかねがねそう疑ってきたようだが、今回いよいよはっきり引導を渡した印象。しかし、だったら意識を解き明かすオルタナティブな道はどこにあるのか。1994年、電車に乗っていた茂木氏は、ガタンゴトンという音を聞きながら、この音の感じそのものは、周波数をいくら分析しても触れられない種類のものであると気づき、衝撃を受ける。そこから意識を解く新しい鍵としてクオリアという論点を取りだした。ではクオリアから意識の正体へ、いかにして向かえばいいのだろう。これとて、もちろん完全に薮の道だ。それでも同書が手探りする新しいアプローチは、具体的であり、すこぶる興味深い。私なりにポイントを2点だけ――。

●1点は「同一性」というアプローチだ。我々が〈あるもの〉が〈あるもの〉であると認知するのはどういうことかという問い。久しぶりに会う友人が当人であることをどうやって知るのか。外国で両替した紙幣を本物とみなすのは何故か。こうした問いを多角的に分析していくと同時に、脳神経のネットワークがきわめて複雑できわめてダイナミックに変化しているにもかかわらず、我々はふしぎに個物の同一性を維持しているという事実に注目する。この認知における同一性を、まあ結局のところ、クオリアがなんらか担っているのではないか。この方向へ、茂木氏は一歩大きく踏み出していく。

●もう1点は「むずかしい問題やさしい問題」というアプローチ。脳科学はたいてい、科学の王道たる物理主義を用いてなされている。脳のどの部位がどの機能を担っているのか、どのような刺激に対してどのように反応するのかといった研究だ。これは、脳と心の関係をいわば「やさしい問題」として扱うことだと茂木氏は言う。それに対して「意識とは何か」「クオリアとは何か」と問うのは「むずかしい問題」だと位置づける。●一例として、子供のころ帰宅して口にする「ただいま」がとても不思議に感じられたという話が持ち出される。「ただいま」の声に伴ってわき起こるこの感じ、すなわち「ただいま」のクオリアや意味とはいったい何なのか、という問い。これが「ただいま」を「むずかしい問題」として考えることだ。その一方、「ただいま」と自分が言えば、祖母は「おかえり」と応じておやつを出してくれるし、猫はニャーと鳴いて寄ってくる。これらを「ただいま」の意味であるとするのが、「ただいま」を「やさしい問題」として扱うことだ。●そこから眺めると、我々は言語を「やさしい問題」として処理することで生活をスムーズに送っている。しかしときには、言語を「むずかしい問題」として、すなわち「ただいまとは何か」「私とは何か」「リンゴが赤いというときの赤いとは何か」と問い詰める。そうしてこのアプローチは、我々は「むずかしい問題」を「やさしい問題」として扱う「ふり」ができる、そもそも「ふり」をすることは人間の本質なのだ、というところまで行き着く。また、チューリングテストは「やさしい問題」のみを問うたのだ、コンピュータは「ふり」ができない、といった分析にもつながる。

●自分なりに考えてみたことも、少し。●たとえば今リンゴAを食べているとしよう。そのときは「赤い」「重い」「つるつる」「サクッ」「甘い」といった五感の知覚や、「青森産だ」「歯茎は大丈夫か」「アップルコンピュータ」といったさまざまな連想が立ち上がってくる。「リンゴAのクオリア」と言うなら、これら全般が複合された「感じ」を指すのだろう。そして、そのクオリアは、そのとき働いている脳神経のネットワーク全般に随伴していると考えられる。さて、脳神経のネットワークは日夜じわじわ変動しているのだから、たとえば1年後に別のリンゴBを食べるときは、リンゴBの知覚が固有なのはもちろんのこと、立ち上がる連想もいくらか違っているはずだ。つまり、いくらか変化した脳神経のネットワーク全般に随伴して、いくらか変化した「リンゴBのクオリア」が生じるということだ。さらに、心の中だけでリンゴを思い浮かべる時の「リンゴのクオリア」というものがあって、それは「リンゴAのクオリア」「リンゴBのクオリア」のどちらにも大いに関与し、かつどちらとも微妙に違うと考えられる。●仮に「リンゴのクオリアが、リンゴの同一性を担う」とした場合、どのクオリアが何と何の同一性を担っているのか。同書で厳密に明らかになったわけではない。

●もうひとつ。「むずかしい問題/やさしい問題」のアプローチは、「意識の正体」や「クオリアの正体」との直接の関係にはなかなか遠い。しかし、「意識とは何か」を考えることは、その問いの正体を分析することに等しいとも思われるので、ともあれ「脳と心の関係をむずかしい問題として問うことだ」と言い換えができたことは、とても有意義だ。●さらに面白いことに、このアプローチは、「意識の正体」以上に「言語の正体」すなわち「言葉を使うとはどういうことか」の分析に、はからずも大きな成果をもたらした。これはじつに素晴しい。●しかもこれは、こうして文章を書いている私の気持ちも、うまく言い当ててやしないか。自分で日記を書いたり、他人の日記を読んだりするとき、たとえば政治や経済の問題を、あるいは小説や映画の問題を、ときに「むずかしい問題」ときに「かんたんな問題」として行きつ戻りさせている。そこにある言葉の意味をどうしても問うことになるが、そのときも、他人の関心や文脈に合わせる「ふり」をしたり、あるいはそのつど多様な「私」の「ふり」をすることで、やりくりする。そうすることで、なにかを述べる「ふり」や、なにかがわかる「ふり」ができる。言葉を交わし、言葉を伝えるとは、そういうことだったのだ。

●参照:茂木健一郎『心を生みだす脳のシステム』感想 ●(非)参照:悲しきラーメン


2003.11.23 -- なんだこりゃ! --

奇妙、という形容を私は年に何度やれば気がすむのかという反省はあるのだが、今までのを全部取り消してもいいから、こと冨永昌敬監督の短編連作『亀虫』にはこの形容を使いたい(それだけでは何の紹介にもならないが)。→公式サイト ●その雰囲気を伝えられそうな展開を、たとえば第1話「亀虫の兄弟」から思い出しつつ書き留めると――。●主人公の男がアパートに帰宅すると、予想どおり妻がいない。しばらくすると玄関ベルが鳴る。ドアを開けると幼なじみの男。即座にずるっと入り込んでくる。何をしに来たのかわからず、ちぐはぐな会話が進む中、幼なじみの口調や態度が醸しだすなんとも厄介な疎ましさが、じわりじわりと忍び寄り、やがて、幼なじみは主人公の姉と結婚したのだと唐突に告げる。そのうちに、泊まり込むつもりの幼なじみは、持参した寝袋を着込んで床にまるまっている。ああそれで亀虫なのかなと思うと、主人公の独白ナレーションも幼なじみをそう呼んでいる。幼なじみが勝手にオーブンのスイッチを入れたために、電気のブレーカーが落ちるが、その瞬間あっという短い女の声が聞こえる。主人公の男はそれで何か大事なことに気づいたらしく、壁の戸棚から本を急いでかきだす。そこには数十センチ四方の穴があき、奥にはなぜか隠し部屋があって、妻が取りすました表情で生活しているではないか。●このように進行する不条理さと可笑しさの絶妙なバランスは、ある種の漫画的、といっても、これもただ言い換えただけだが、とにかくそういう形容がまたふさわしい。

●『亀虫』が何に似ているかを考えて、ふとカフカかなと思った(カフカの小説で笑えはしないが、それは別として)。虫のイメージで『変身』かというとそうでもなくて、どちらかといえば『城』や「田舎医者」のほう。おかしな出来事とおかしな展開は、どうなじめばいいのか核心がつかめないのに、それでもそのままなじんでしまう自分がいて、なおさらおかしい。そんな感じ。●それがどういうズレなのかを見極める余裕や足場を確保できないまま、場の現実感が微妙にしかし否応なくズレていくところに、首をひねることと笑うことが乗り入れている感じは、松本人志の『ごっつええ感じ』の一部や、記憶は不確かだがビデオ作品『VISUALBUM Vol.バナナ「親切」』などにも似ている。●それから、金鳥のテレビCMで、川崎徹のものと市川準のものを混合させたなら、『亀虫』のムードが出来上がるかもしれない。●もうひとつ。『爆笑問題のバク天!』という新しい番組がある(最近注目のコンビ、インパルスも出演)。ここでの太田光は、まるで所属していた学生サークルにOBとしてやってきたみたいな、安定して楽しげなノリに見える。その太田が歴史上の人物について語るコーナーがあり(きのうはコロンブスを紹介していた)、そこでの太田は、弾けるべくして弾けたといった新境地をちょっとだけ感じさせる。きのう見ていて、それは語りを支えるエクリチュール(語義矛盾?)がふっと横滑りしていく可笑しさだ、と思った。で、『亀虫』においても、セリフと語りの交錯や場面進行におけるエクリチュール(?)が、それに似た横滑りを小さくたえず生成させている、ということが言えるのではないか。はっきりそうとは気づかないながらも、やはりそれが感じとれるからこそ可笑しいのだ、きっと。●しかしまあ、こうやって「何に似ているか」ばかり示してお茶を濁すことも、私はまたじつに多い。それでも何も書かないよりマシだろうと、書いた次第。●ついでに、似ていないものもひとつ。最近チャン・イーモウの映画をNHKで連続して見た。『秋菊の物語』と『菊豆』。そうしたら意外なことに、チャン・イーモウのつまらなさにも思い当たった気がしてしまった。『秋菊の物語』などとても気に入っていたのに、もうこれで十分とも思った。これは前後して見た『亀虫』の影響がある。特に『菊豆』はいわば穴で始まって穴で終る物語だが、「亀虫の兄弟」の穴が何ものをも象徴せずどのようにも分節されない穴自体であると考えられるのと、まったく好対照であり、そういうところがつまらないと感じたのだろう。

●『亀虫』について「学生の自主製作映画にありがちな世界かな」という感じもあった。しかし、第1話から順に場面や進行を書き留めてみると、上にようにどうあっても驚くほどキテレツな世界が再現されてしまう。●なお、こうやって反芻してみた動機は、『偽日記』(03/11/12)で『亀虫』が絶賛されていたことが大きい。

奇妙:奇異。変。妙。おかしな。おかしい。へん。変てこ。面妖。きてれつ。けげん。奇矯。突飛。不自然。変ちくりん。変てこりん。不可解。珍異。風変わり。けったい。妙ちきりん。いぶかしい。異。怪しい。こっけい。(『シソーラス検索』より)


2003.11.22 -- 東京テロの警告続く --

●「日本の兵士がイラクに足を踏み入れた瞬間、アルカイダは東京の中心を攻撃する」。再び警告があったという(朝日新聞など)。

●20日の記述は趣旨が分かりにくいので、改めて――。●「テロに屈するな」という声がある。警告に屈して自衛隊を出さないことがイラクと世界の惨状をいっそう悪くするのであれば、その惨状に責任のある日本としてそれはまずいだろう。しかし、自衛隊が動かないことこそがイラクにとっても世界にとっても最善であるのなら、じっとしているにかぎる。日本がテロに屈することでブッシュ一人が泣く程度のことなら、これ幸いと屈してしまえばいいではないか。


2003.11.20 -- きょうはこれで精いっぱい --

●平和ボケと言えばたぶん私のことだが、それでもこのイラクの惨状を知ると「いったい誰が何をしたらいいんだ!」と、ロマン主義的ながら激昂してしまう。米軍の動向が最大の鍵になるのか。では日本は? 今まったく動かないことが最善なのか?――日本のためにではない、イラクのためにだ。●考えてみれば、日本はイラク攻撃を後押ししてしまったのだから、きわめて厄介だけれど、救いの手を差しのべる責任というものがあるだろう。自衛隊であれ何であれ、それが逆効果ならしようがない。だがもし、本当にイラクを救える手段があるのなら、迷ってる場合じゃない。「世界のために日本は○○すべし」といった大げさな表現を、十年に一度だけ使っていいのなら、今がその時か? それほどでもないのか? ●しかし戦地に赴くとなれば、自衛隊員に限らず死ぬ覚悟をするだろう。そうなったら国は、万一の補償金とは別に、その任務自体に対する報酬として、たとえば誰かの退職金と同じ8千万円くらいは用意してしかるべきではないか。そうでなければ、行くほうも行かせるほうも納得できないだろう。もちろん命は金ではすまない。だがそれにしても命は今あまりに安すぎる。売り買いしないのが一番だが、売り買いせずにいられないのなら、もっともっともっと高く売れ、もっともっともっと高く買え。ゲリラ・テロ軍も、占領軍も。●イラクの戦闘を冗談でやってる人はいない。みな本気だろう。生きるの死ぬのという時に、ロマン主義のひとつも駆動しないではやっていけないに違いない。それに比べて私の意見は、マジなのかネタなのかわからない。それは、その戦闘をテレビで見物しているだけの者として、彼らに合わせてちっとは本気になるべきであるような、しかし一方で、彼らと同じ本気にだけはなってはいけないような、そんな気持ちだろうか。


2003.11.16 -- 韓国を知る、日本を知る --

●韓国の3つの日刊紙が日本語で読める(ずっと前からだろうか?)。『朝鮮日報』『中央日報』『東亜日報』。●ちょっとブラウズしただけだが、これは面白い。一言で言うなら、他人の頭を理解するために、他人の頭を外から観察するのではなく、自分の頭に他人の頭を被せてみた、といった面白さだ。

●私はソウルを何度か歩いた程度だが、感想は一貫していて「韓国と日本はパラレルワールド(平行世界)」というものだ。つまり、街を歩いても買い物をしても、しばしば「アイテム同一、ブランド別個」の状態。わかりやすい例は、走っている車が日本と同タイプだが、けっしてトヨタやホンダではないこと。また、似たような店舗やコンビニに似たような商品が似たように並んでいるが、日本製ではないから当然微妙に違っている。テレビ番組やコマーシャルもそっくりだが、タレントは誰ひとり知らない(そういえば『トリビアの泉』の盗作騒動が持ち上がった)。●こうした点に限れば、何ごとも日本仕様なので、あるべき品目があるべき所に見つかってスムーズなのだが、それにもかかわらず、その品目をよく見ると全然知らない銘柄ばかり。それがとても奇妙なのだ。

●よく知られているかもしれないが、韓国の新聞がまた日本の新聞と同じ体裁だった。サイトのほうも、朝日や読売のサイトとほとんど同じ要領や気分でクリックできる。すると、その記事の項目や中身がまた、なじみのある図式で迫ってくるのだ。●今ならたとえば韓国軍のイラク派兵のニュースが出てくる。米国との関係をふまえた国益の主張があり、任務の範囲をめぐる議論があり、憲法を根拠にした反対もある。おまけにラムズフェルドもやって来る。ほか「社会」「経済」から「スポーツ」「芸能」まで、どこかで聞いたようなネタが、どこかで聞いたような切り口で、しかしまったく知らない名称をもって語られている。これまたパラレルワールド。●ちなみに北朝鮮の話題はさすがに多く、日本の新聞より遥かに多角的である印象。

●そうしていつしか、韓国人になったつもりで韓国の新聞を読んでいる私がいる。それは、もしかして、日本人として(日本人になったつもりで)日本の新聞を読んでいた私を、冷静に見つめ返すことではないか。ここにはナショナリズムを超えていく契機がある(またまた大きく出た)! ●意識はあくまで主観的な体験であるから、意識をいくら客観的に記述しても、意識を体験したことにはならない、などと言われる。ナショナリズムを見定めるにも、同じ困難にみまわれると考えてみよう。そうしたばあい、日本人でありつつ韓国の政治や社会を「なんちゃって韓国人」として読んでみることは、韓国人の意識を自分の意識として内側から実感することに近い。これは逆に、日本人の意識を他人の意識として外側から実感することにも通じるだろう。●ともかく、これらをブラウズしていると、韓国の価値観や性向とおぼしきものが、日本のメディアが韓国発のニュースを外電として報じるままに読んでいるのとは、かなり違ったふうに流れ込んでくる。少なくともこの感覚は新鮮だ。そうして、2002年の十大ニュースなども読んでみる。韓国から見た海外の十大ニュースも興味深いが、もっと面白いのは国内の十大ニュースだ。韓国の十大ニュースをまるで国内のことのように眺めてみることで、日本の十大ニュースをまるで国内のことのように眺めていたこれまでの自分が、ああそういうことだったかと少し客観的に分かってくる。

●また、韓国の政治や社会には日本と類似の課題がいくつもあることがわかってくる。それに対して日本とは違ったアプローチもなされていることだろう。日本のオルタナティブは民主党ばかりではない。

●参考:96年にソウルを歩いたリポート


2003.11.13 -- なにかと長い --

●そろそろ阿部和重の大長編『シンセミア』を買って読みたいが、実はその前にいいかげん片づけておかねばならない本が一冊。『白鯨』だ。●なんとまあまる一カ月を超える読書になってしまった。寝る前に本を開くことが多いが、眠くなるまで床に入らないこともあって、ごぞんじのとおり分厚い本のページは、船旅のごとく進行が鈍い。とはいうものの、同書は135章に細かく分かれ、それぞれ何が書いてあるかがはっきりしているうえ、その各タイトルがその各内容をちゃんと要約してもいるという、今どき(今どきではないか)珍しく手堅い小説なので、そこまでの流れを忘れてもすぐ思い出せるし、時間がなくても一歩(一章)ずつ区切って読めるし、ちょっと飽きても次の章で回復しやすいなど、利点が多い。ただ、ちょっとネタバレなので注意してほしいが、白鯨たるモゥビ・ディクは、主人公の乗りこんだ捕鯨船の前にいつまでたっても姿を見せないのだ。135章のうち110章を過ぎたが、まだその気配もない。その代わり鯨と捕鯨にまつわる蘊蓄百科があきれるほど続く。薄々予想されたとはいえ、これほどまでとは知らなかった。こうなると、どうあってもモゥビ・ディクを一目見るまでは本を閉じるわけにいくまい。ちなみに、捕鯨船はまさに七つの海を巡っており、今は南シナ海から台湾とフィリピンの間を通って太平洋に抜け、どうやら日本近海を目指している。エイハブ船長が眺める海図には「ニフォン、マツマエ、シコケ」とある。

●ところで、私は阿部和重の小説はたしか全部読んだはずだ(われながら殊勝)。そういう点では『シンセミア』の準備は万端。しかし漏れ伝え聞くところ、『シンセミア』は中上健次を踏まえて云々と、怖れたとおりのことが指摘されている。その中上健次なら『岬』『枯木灘』と読んだが『地の果て 至上の時』は未読だ。やはりこの三部作をまず済ませるべきか。とはいえ、今もし『地の果て 至上の時』を読むなら、このさい『岬』と『枯木灘』も読み返したほうがいいだろう。おまけに、中上健次の小説にはフォークナーの影響が、大江健三郎との対比が、といったこともしばしばのたまわれる。ああ『シンセミア』は遠ざかる一方。●しかし、そういえば『白鯨』にしても、「ホーソーンに」との献辞があるし、旧約聖書とギリシャ神話がごく当たり前のように引用されてくる。まあ小説とはそういうものなのだろう。

●それにしても、『白鯨』の書かれた19世紀であれば、西洋人の教養を形成していた古典というものは、たぶん何世代にもわたって受け継がれたかなり固定的なラインアップだったと想像する。その総量もたぶん今より多いということはなかろう。少なくともメルヴィルが『白鯨』を書いた書斎の世界文学全集に『白鯨』は入っていなかったのだ。では、『シンセミア』が書かれた現在、我々が読まねばならない古典は19世紀に比べて何冊くらい増えたのか。などと考えて、なんとも憂鬱な多幸感に襲われる。それとも、19世紀には人類の遺産だったけれど21世紀の今となっては無価値なので参照しなくてけっこう、という末路をたどった文物が、そうとうあるのだろうか。●さて、こうした総論はいったん置き、現代日本に焦点を当てた場合、小説を書いたり読んだりする人が、いささか疑わしくもともあれ共有してきた文学史という前提は、90年代さらには00年代ときて、いよいよ無理にあるいは不要になりつつある、そんな思いが漠然とながら広がっている。それは何故かというときに、現代に由来する特殊事情をいろいろ考察することが肝要だが、それとは別に、単に近代が長くなったから、戦後が長くなったから、単に世界の範囲が広がったから、そうして記憶や思考の単なるキャパシティーがいくらなんでも限界にきたから、というつまらない理由も十分考えられる。

●というか、こうしてまたつまらない時間を食ってしまった。それより私は今何を読まねばならないのか。『白鯨』だ。


2003.11.12 -- 理屈のチャンピオンは誰だ --

●《一般市民として、つまり非常に重層的な社会に住んでいて、状況によっては実際にはいろんな立場が違ってくるから、あるいは考えてくるときのバックグラウンドや制約が違うので、どちらにコミットしていいか、ということはいろいろ議論ができるけれども、自分がひとりでどの段階でどうか、と言われたときには、それはどうするか分からないよ、という感じの市民》なんて言うから、「え、私のこと?」。さらには、そんな感じの《市民としては、やはりひとりの人間として生きざるをえないので、人間というのは立場の集合ではなくて、一人の人間であるから、そこで悩むし考えるしその場その場で直観的に考えるかもしれない、というそういう意味?》とあっさりまとめて問い詰められ、「…いや、まあ、たしかにそれだけのことでした、すいません」。●しかしこれは、べつに下の日記(11.10)後半を分析したものではない。安心せよ。情報倫理の構築といったことを目指す研究プロジェクトの一環として、千葉大でなかなか息の長いフォーラムが続いていたようで、その記録の一つをたまたま読んでいたところ、コアメンバーでもある土屋俊氏が上のように発言していたのだ。そこでは、土屋貴志氏(土屋違い)が、倫理の実践においては対立する二つの規範がどちらも正当に思えてどうにもならないことがある、といった実感を述べたのに対し、土屋俊氏が質疑応答で容赦のない突っ込みを次々に入れていく。詩のボクシングならぬ哲学のボクシングといったおもむき。手に汗にぎるライブ観戦だった。リンク:土屋貴志氏の発表「規範的判断における情報」質疑応答 ●それにしても、土屋俊氏は図抜けて正確な理屈パンチをくりだす。相手を見透かすことレントゲンのごとし。相手に切り込むことカミソリのごとし。ところが最後のほうで、なんと永井均氏が急にリングに上がり、しばし土屋俊氏とサシの対決みたいになる。ここで私は思わず「技あり!」と叫びたくなった。どちらに? ―それは観戦してのお楽しみ。

●エキサイティングさに味をしめ、もう一戦。それはこちら、金森修氏の発表「技術哲学の基底性について」質疑応答。●ここではクローン人間の議論などを支える土俵もしくは土俵作りといったものがテーマだが、質疑応答のなかで、倫理あるいは倫理学説に根強い対立があったとき、どっちが正しいかは最終的にはゲバルトで決まるのだとか、それはすなわちどっちの予算が多いかということだ、といった話も持ちだされ、ふ〜むと感心。●なお、上記二つはどちらも応用倫理学の原理になるような議論であり、以前読んだ『異議あり! 生命・環境倫理学』を思い出した。

●政治家のやっていることを「政治」と呼ぶように、哲学者のやっていることが「哲学」なんだという定義はありうる。じゃあ「哲学者」って誰さ、ということになるが、やっぱり大学などで「哲学」を専攻する学者が「哲学者」だということで事実上さほど間違いないのだろう。ところが、そうした大学の哲学系の教授とか助教授がふだん何をしているかというと「ぜんぜん哲学なんかしていないんですよ、これが」(不正確引用)といったふうに中島義道氏が書いているので、ややこしい。それでも、「哲学」の先生方も捨てたもんじゃない、時と場合によってはこうして本質的で真面目な思索をしているじゃないかと、不遜にも感心してしまったしだい。●こうした議論が、「哲学」の文献ではなく現存する同業者どうしの専門そのままの呻吟や齟齬なんだと思うと、貴重ではないか。金森氏は最後に《なんだか飲み屋での話みたいになっちゃって》と呟いてはいるが、書籍というものが主に一人の手による作業であり、一般向けにきれいにまとめる作業であることを考えれば、こっちのほうがよけいスリリングだとも言える。

●当然のことながら、こうした議論や人材は、大学という巨大なインフラ整備に拠るところが大きいはずだ。したがって、ただどかどか投入されてきたようにみえる税金も、たとえばこのフォーラムがナンセンスだと思わない人にとっては、けっして無駄金ではなかったことになる。●だからそのインフラの成果のほうも、このような記録ウェブとして、迷わずどかどか公開してもらいたい。そうでないと、なんだ先生方の議論もブログのコメント欄とたいして差がないじゃないか、などと錯覚されかねない。公的資金なしに営まれているブログなんてものとはスケールが圧倒的に違うはずの、大学の多様かつ深遠な底力をもっと知りたい。

●と書いたところで、ふと気になったこと。このフォーラムの記録を、今たとえば、東京都立大学を手中にしたつもりで「チマチマした人文系のお勉強など全くくだらねえ、オレが全部ぶっつぶしてやる」と息巻いている(いやこれは完全に私の想像にすぎない、字幕にしないよう)石原慎太郎が読んだら、どのような雄叫びをあげるだろう。ちょっとびくびくものである。(もちろんこのフォーラム自体は千葉大だから国の管轄)。●なお「チマチマ」というのは、繰り返すが石原氏が言ったわけではなく、私がそう思うのでもなく、同フォーラムの別の回で、高橋久一郎氏が「倫理学の現在」というタイトルについて冒頭で言った言葉を、ちょっと使ってみたまで。

東京都立大の改編に対する異議については、こちらのサイトなど


2003.11.10 -- 祭りのあと --

●「あなたの一票が政治を決める」という熱意は、おそらく国民主権というロマンに支えられている。これがいくらか欺瞞であると気づくとき、「オレの一票が政治を決める、わけがない」というシニシズムが生じる。「投票しなければならない」に対して「投票しなくてもいい」というわけだ。しかしこれは「投票したってしょうがない」「投票なんかするものか」と転じたすえに、知らず知らず「投票しない主義」に着地することがある。こうなるともう逆のロマン主義ではないか。●「投票しなければならない」はやや疑わしい。だから「投票しなくてもよい」は間違いではない。しかし「投票してはならない」も同じく疑わしいのだから、もうひとつ「投票してもよい」という選択肢がありうる。●…と、今ごろになってあれこれ考えている。

●選挙の話ではないが、宮台真司氏は、姜尚中氏との対談を通じて、自らの立場を次のように説明している。《私は「国民国家の閉鎖的な幻想性を解除せよ」との主張に反対しておらず、それを前提に「国民国家の閉鎖性を解除するべく国家の操縦に徹底コミットせよ」という主張こそが「今は必要だ」と言ってる》。(『MIYADAI.com Blog』より)●この構図をちょっと借りるなら――「総選挙の幻想性を解除せよ」という主張を捨てないままで「総選挙の幻想性を解除するべく総選挙の操縦にコミットせよ」――ということになる。とはいえ、「総選挙の幻想性を解除せよ」は「投票したってしょうがない」という主張に近いが、「総選挙の幻想性を解除すべく総選挙の操縦にコミットせよ」は、実際どうすればいいか迷う。ただ投票すればいいわけでも、ただ投票しなければいいわけでもないような…。

●宮台氏はこんなことも言っている。《…真理性に基づく内容的記述(目的プログラム)よりも機能に基づく形式的記述(条件プログラム)の方がトタリテートにおいて優位たらざるをえない社会的段階に達したというのが、私の考えです。/そういう社会的段階に達したとは、具体的にいえば「社会的複雑性の増大」のことです。真理性を支えていた単一の文脈が崩れ、真理の文脈依存性が露わになればなるほど、文脈を限定した上での(=if文)真理性の言明(=then文)にならざるを得ない道理でしょう。》()●日本の政治はとてもややこしいので、「○党が正しい」という単一の判断は難しい。「とりあえずイラクのためにはA党、年金のためにはB党」とか「C党がこうきて、D党がこうくるのだから、ここはC党」といった判断なら可能、ということか。

●ともあれ今なお総選挙は国民最大の祭りではあった。


2003.11.7 -- 台湾の住居、食卓、喧嘩、港 --

●昨夜はまたもや偶然見かけたNHKBS深夜の映画に引き込まれた。始まって10分くらい経っていただろうか、とにかくぱっと見た瞬間からストーリーがわかろうがわかるまいが最後までもうまったく動けなかった。香港か、中国か、と迷ったものの、まあ台湾だろうと見当をつけたのは、侯孝賢(ホウ・シャオシェン)監督の雰囲気やアイテムがそのままだったから。やがて舞台は台湾の基隆(侯孝賢の映画でおなじみ)とわかり、そうなるとこれはどうあっても侯孝賢だろう、しかし、だったら、これまで見たことがないにしても、少しは作品名か周辺の知識に思い当たってもよさそうだ、やはり違う監督か、といぶかしく思っていた。●答えは『最愛の夏』という映画だった。ネットで調べると、監督のチャン・ツォーチ(張作驥)は侯孝賢の『悲情城市』で助監督を務めた人で、大いに納得。というか師匠に似すぎか。『最愛の夏』は1999年東京国際映画祭でグランプリも受賞したそうで、すでに有名なのだろう。そういえばこのチラシ、さらにビデオ店ではジャケットも見た記憶がある。ただ邦題の『最愛の夏』をふくめ、軽すぎて「なんだかな」の印象で、まさかこれほど寡黙にして濃厚、慎み深くして悲痛な映画だとは知るよしもなかった。題名やジャケットは当てにならない、こんな紹介も当てにならない、というか、そんなことより、『最愛の夏』は、近ごろ映画をあまり見ていないことを割り引いても、まずめったに出会えない素晴しさ、というのがきょうの結論。●http://www.bitters.co.jp/filmbook/dklt/top.html


2003.11.6 -- 鎌倉の秘跡 --

●『現代詩手帖 特集版 高橋源一郎』。しばらくこれに沿っていろいろ考えてみたい。まず「小説とは何か(こんなにわからなくていいかしら)」。


2003.11.1 -- 経済学的に考えて、へこむ --

●じつはカーブとスライダーの区別があいまい。それどころかバットを振ったらボールに当ったので三塁に向かって走ってしまったことがある。そんなやつが、日本シリーズの星野の采配についてああだこうだ講釈をたれる。●そんなかんじで私も、日本経済の采配について長々と語っている。時事放談・日本経済と私伊藤元重経済学的に考える』を読んで、「インフレターゲティング」が少しわかったので。


03年10月

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