著作=Junky@迷宮旅行社(http://www.tk1.speed.co.jp/junky/mayq.html)
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迷宮旅行社・目次

これ以後


2000.9.27 -- 技術点、爆笑点 --

●シンクロナイズドスイミング、あれはやっぱりわれわれを笑わせるためにやっているのだとしか思えない。というと、失礼か。しかし毎回おかしさのツボにきれいに同調。


2000.9.27 -- 脳内音楽庫 --

●四半世紀も昔の歌を、おもいがけず聞く。あまりに懐かしい旋律の、歌声の、細かな起伏のすべてが鮮やかに再生される。声質や伴奏フレーズが原盤とわずかでも違えば、すぐわかる。記憶の引き出しとはどうなっているのか。もしもデータがまるごと保管されてあるのなら、ことによってはCDやオーディオ機器は不要?。


2000.9.26 -- 貸出期限切れ、その前に覚え書き --

●実は今「薔薇の名前」を読んでいる。中世イタリアの修道院が舞台。世俗から隔絶された塔の中で、僧たちは一日中本読みにいそしんでいる。印刷術はもとより紙すらまだ発明されていない時代。書物はこの世に一冊しかなく、僧たちは、それを羊皮紙に一文字一文字書き写す。●トマス・ネーゲル「コウモリであるとはどのようなことか」、こういう本も全文書き写すべきかもしれないが、不完全な感想文にてお茶を濁す。


2000.9.25 -- 国民井戸端 --

●下の篠原誤審の夜、ふと2chをのぞいてみると、すでにものすごい書き込みだった。ヤフーの掲示板も同様。その後、中田のPK失敗、マラソン高橋の話題も乱れ咲き。私の生活や感情は他人の生活や感情とあまりに濃くつながっている。まさかこのリアルさをいまだに仮想と呼ぶ人もいるのか。世間、世論はネットに実在する。マジョリティーは今やサイレントにあらず。このシンクロ感、新聞の投書欄ではとても太刀打ちできない、テレビのにこやかぶりは可哀相すぎる。●それにしても、あるトピックに対する賛否、その賛否に対する賛否、またそれに対する賛否・・・と、もう私がなにか付け加える必要など全くないのだとも思えてしまう。


2000.9.22 -- もっとむちゃを言え --

篠原選手の悔しさが、他人ごとに思えない。こうなったら柔道だけは今後いっさいの大会で「1位に銀、2位に金」の方式を貫いて、これに報いるべし。


2000.9.15 -- 虹色マント --

●どんなふうであったとしても必ずけなされる実に気の毒な宿命を背負ったものの一つに、日本選手団の制服というのがある。そんなのをひたすらけなすことで得意になれる図の方こそ、なにより見苦しい気がするので、そういう輪には入らないようにしてきたつもりだ。が、今回はどうだろう。


2000.9.14 -- 暇であればあるほど --

●考えをまとめたいことはいろいろあるのに、かえって先送り。


2000.9.13 -- 水の都ナゴヤ --

●地球にやさしくとか言うけれど、地球の方は我々にあまりやさしくもなく。三宅島。東海の豪雨。


2000.9.12 -- ピラミッド --

●一日中家から出ないのを意に介さない要因には、睡眠がひたすら長い、読みかけの本がある、雨が降る、などが考えられる。もちろんテレビもある。NHKのBSでは四大文明の特集。エジプトのピラミッドは王の墓として奴隷たちが建設したと思いこんでいたが、実は、ナイル川が氾濫して耕作できない時期の農民に仕事を与えるための公共事業だったという。それが最近わかってきた。野党の反対はなかったのか。


2000.9.11 -- 添削してやらないと読めたもんじゃない --

●ちくま新書「教養としての大学受験国語」(石原千秋)に、<傍線部は「どういう意味か」と問う類の設問は、本文の添削を行っているのである。>という指摘。その出題例は<いつもひどく難しい>柄谷行人の文章だった。なんとなく胸のすく思い。


2000.9.10 -- 長く一緒にいて飽きず、かといって疲れもしない人....じゃなくて小説 --

伊井直行、今度は「進化の時計」というのを読んだ。ありふれた個人のありふれた社会生活が、事件というほどでもない事件の、幻想というほどでもない幻想の、謎と靄にじわじわと包み込まれていく。そのじわじわ感が心地よい。私が知っている現実の、日常の、退屈さ平凡さとかけ離れていないからこそ、退屈せずに読める。それでいて、最初おとなしくしていたエンターテインメントとしての構成や語りの巧みさが、どんどん表に出てくる。そうしていつのまにか物語を覆っているのは、ハードボイルド〜SF〜ミステリ系の展開。ぬるま湯に浸っていたつもりが、気が付くとお湯が煮えたぎっていた風。それにつれて私はもう本を閉じられなくなってしまう。しかし、面白さ全開の状態になればなるほど、おかしなことに、この作家独特と言っていい奇妙で冗長な味わいがだんだん脇に押しやられていくようで、どこか寂しさがつのってくる。謎の答を知りたい以上に、永遠に謎につつまれていたいような読書なのだ。宮部みゆきのミステリーなら面白さ100パーセントであってなんの文句もないのだが、伊井直行には、面白さの光に晒されると見えなくなってしまうような、うすぼんやりとした、それでいて私はそれをきっと嗅ぎとっているのだと信じたいような魅力がある。●伊井直行についてリンク。


2000.9.4 -- 言葉経済 --

●金さえあればなんでも手に入るのか。それはよくわからない。しかし、少なくとも私たちがなにか買うときに使えるものといえば、結局お金しかない。それと同じく、なにか言う時に使えるものといえば、それは言葉以外に見あたらない。●言葉は今インフレなのだろうか。市中に出回る量があまりに過剰で、言葉の価値は下がり、その言葉で買える意味や意図が目減りしていく。だったら手に入れた言葉は早く使ってしまうに限る。●いや、言葉は実は意味と交換するために存するのではなく、言葉自体を取り引きし言葉の価格を操作して言葉をどんどん膨らませるために存するのだろうか。いつかバブルがはじけたら、まったくの紙屑にすぎなくなることは、もとより承知のうえで。●頻繁更新は言葉の蓄財?散財?


2000.9.3 -- このページに来てなにも無くて帰るよりよりは少しだけマシであるように --

●夏に読んだ小説本のつれづれでも。それによって記憶の隅や棚に放ったままの書物を外に出す、処分する。●井上靖 「夏草冬濤」。なぜかこういう正当派のおはなしが読みたくなって手にした。第一章はちょうど夏休みに入る日から始まっていて、なんだかタイムリーだった。読んでも読んでも同じ味だが、読書をしているという安心感がある。1巻の途中まで。●ポール・オースター「幽霊たち」。安部公房の「燃えつきた地図」を思いだし、また読みたくなった。 今年の夏は行楽は全くなかったが仕事で八丈島に行ったのが自慢で、この本は羽田からの帰りに読んだ。 八丈島の空港上空が悪天候で着陸できるまで1時間近くぐるぐる回った思い出。●「岸辺のスケッチ」(山田太一のドラマの小説)。同じく仕事で足利市あたりまで行ったとき、JR線の車窓から都会がどんどん消えていくのを眺めつつ読んだ。ちょっとした小旅行で、さびれた駅前のぼろぼろ蕎麦屋でソウメンを頼んだ。ともかく暑かった。とはいえ仕事についても本についてもこれ以上さして述べることなし。●芥川賞の2作。まず松浦寿輝「花腐し」を近所のマクドナルドでお代わり自由(初めて知った)のコーヒーを片手に読み、 町田康「きれぎれ」はこれまた近所のスカイラークで読んだ。スカイラークもドリンクバーが飲み放題。●伊井直行「服部さんの幸福な日」。読みかけだったのを、帰省の新幹線の静岡あたりで読了。感想は下に書いた。続いて川上弘美「蛇を踏む」を鞄から取り出す。友人が最近お気に入りということで興味を引かれて。表題作「蛇を踏む」は、帰り路に踏んでしまった蛇が家に帰ると女の姿で待っていてご飯の仕度をしてくれたりする。このテイストは、やはり多和田葉子を思わせる。多和田葉子は天然ボケで、川上弘美はどこか作為的(悪い意味でなく)な感じもするが。川上弘美は1958年生まれ。多和田も同年輩じゃなかったか。●川上弘美の同じ本からもう一編「消える」。こっちはもっと素晴らしい。「蛇を踏む」は飄々としてシュールだが、「消える」は現実に張り付いた日常のようでいていつのまにか夢見るようにシュールだ。●帰省は久しぶり。家の車や路面電車で移動しながら眺めた郷里の街は実に懐かしかった。駅前に出来た新書店を見に行き、後藤明生の「首塚の上のアドバルーン」を買った。講談社文芸文庫なので高いが、著者自筆の詳しい執筆歴が載っているのでまあいいか。帰京の列車内で読み始めた。作者が引っ越しを機にいろいろなことを連想したり思い出したり、それによっていろいろなことを考え始めたり調べ始めたりする連作短編。私はこれを読みながら、鎌倉幕府の滅亡から室町幕府の成立までの歴史が気になって日本史の勉強本をひもといたりした。●こうして読書回想をするのは、なんだかロードムービーの気分だ。このほか、宮部みゆき短編集「我らが隣人の犯罪」。解説で北村薫が絶賛しているごとくすこぶる楽しめた。とりわけ「サボテンの花」のラストが泣けた。 このほか中上健次「十九歳の地図」の再読は、近所の学食で。さらにスティーブン・キング「図書館警察」。不気味さの正体が分かってくるとあまりわくわくしなくなった。●はなはだ散漫ですが、こんなところで。


2000.9.2 -- とりあえず夏 --

●東京はいまさら今年いちばんの暑さ。ファミレスに避難してかき氷。家のエアコンでは歯がたたない状況。それで思い出す。トルファンで泊まったドミトリー。南向きでじわじわ暑かったこと。と思って中央アジア旅行記をひもとく(?)と、なんと私がトルファンに到着したのは昨年のきょうだった。


2000.9.1 -- とりあえず秋 --

●しかし、そうこうしているうちに、20世紀も最後の秋。


2000.8.31 -- 宇宙時代にスケールのでかい夢 --

若田光一さんの熱い意気込みは「しこを踏んでみたい」。私ならともかくごろごろする。いやこれは地球上でも実現しているが、それに加えて、手で支えれば重いような書物も目の前に浮かべ、食べ物や飲み物もそばに漂わせ、気のむくままのかっこうで読みふけりたい。無重力の宇宙ステーションの話です、念のため。


2000.8.30 -- 悪口という出口は避けたい --

百年の物語(TBSの3日連続ドラマ)、最終回のきょうはちゃんと9時から鑑賞。公平な目で見たつもりだが、2時間半まるっきりの無駄だった。つまらない。アメリカ大陸の車移動や、男女が壁を隔てて電話するシーンで、ヴェンダースの映画「パリ、テキサス」を思い出したのは、私ひとりではないだろう。いやだからどうだということではない。それどころか、考えてみれば「パリ、テキサス」だって話はとても陳腐だ。映し出す素材も似ている。そんなことを言い出せば、かの「スケアクロウ」だって話だけを追えば陳腐かなあ。それなのに、ホントに公平な目で比較して、雲泥の差とはこういうことを言うのか。いったいどうしてなんだろう。映画というジャンルそのものがドラマというジャンルそのものより上質なのだ、ということではなかろうに。フィルムを透過しスクリーンで反射した光のほうが、電波でやってきてブラウン管が発した光よりも高級だということでもなかろうに。カジノで一発逆転するという展開も、これがたとえば本宮ひろしの漫画だとものすごい説得力なのに、どうしたことだろう。渡部篤郎はよかった。

●たまに何か書くと悪口ばかり、というのは寂しいので、もう一言。「コウモリであるとはどのようなことか」(トマス・ネーゲル著 永井均訳)から表題論文を読む。1989年の発刊で今さらという感じかもしれないが、カンが当たって、これは私にとっての基本テキストになる。基本の入口になる。●パラパラ(踊りながら?)読んだバルガス・リョサ「若い小説家に宛てた手紙」も、納得の書。私には「カルヴィーノの文学講義」がなかなか読みづらいのと好対照だ。カルヴィーノといえば「まっぷたつの子爵」を期待して読んでみたが、あまりピンとこない。あれまた悪口っぽい。ましかしカルヴィーノ文学なんて私は今まだやっと入口です。


2000.8.29 -- 帰省が入口なら、その出口は帰京だ。 --

●帰省している間に読んだ一冊に、伊井直行「服部さんの幸福な日」がある。<搭乗した旅客機が墜落することがわかったとき、服部さんが最初に考えたのは、十日ほど前に発注し、来週末に納車される予定の新車のことだった。>という書き出し。主人公であり多くの場面で語り手でもある服部さんは、終始一貫「服部」ではなく「服部さん」だ。この冒頭がもし「服部さんが最初に考えたのは、」でなく「服部が最初に考えたのは、」で始まっていたなら、私はこの小説にこれほど引き込まれることはなかったかもしれない。それくらい、「服部さん」という呼称は、作者と服部さんと私との間に不可解な糸を絡ませた。

●われわれの思考や行動はすべて、入口がないと始まらず、出口がないと終わらない、としよう。小説はもちろん最初の一行が入口で、最後の一行が出口だ。しかし、読書という体験全体をみるとき、どこが入口でどこが出口だろうか。その本や作者の評判を誰かから聞くことが入口だろうか。たとえば週間朝日の書評エッセイ「退屈な読書」(高橋源一郎)であったり、友人が面白いと言っていたことであったり。ではその出口はどこにあるのか。なんらかの感想を抱くことであるのか。●こういうHPなどをちびちび続けてきた私なら今や、本を読んで感じ入った際には、デマカセでもいいからなにかここに書き留めないことには、その読書が完結した気がしなくなってしまった。ここに言葉を連ねて、やっと外に出られる。でもともかく出口があるのだから、それはそれでよし。なおこの先には図書館に本を返しに行くという出口もあったのだった。

●中国映画「あの子を探して」の感想を一言で表わすために。


2000.8.19 -- 栄養、運動 --

●図書館で本を探すのは、なにか変わったものを食べてみたいという感じ。あるいは、ちかごろ体がナマってきたので軽く運動でもしなくてはという感じ。一度も味わったことのないメニューや動かしたことのない筋肉に出会えるとよいが、なかなか。


2000.8.12 -- ビールよりアイスクリーム --

あずきバーの色にしてみた。


2000.8.7 -- 暁の決死隊リターンズ --

●うちの家主さんは兵隊の経験者。19歳にして赤紙を受け取り、終戦も近づいた20年4月、鹿児島に赴任。そこは特攻隊の基地だった。家主さんは飛行機の整備兵をしながら、同じ年ごろの特攻隊員を日々見送ったという。そんなことを、居酒屋でビールを飲みながら、こともなげに語る。一般兵がコメの代わりにコーリャンを食べ酒は焼酎ばかりだったところに、特攻隊員は白いご飯が食べ放題、酒も飲み放題。でもみんな酔って荒れたらしい。出撃命令は前日くらいに突然言い渡される。飛行機を準備するのは整備兵だ。午前3時。機体を覆い隠していた草木を取り除き、燃料が乏しいので滑走路まで人力で引っぱっていく。特攻隊が飛び立つころは、ちょうど朝日が射していたという。しかし、この時期ロクな飛行機はない。「そんなのに重い爆弾を抱えてるから、途中で具合が悪くなって戻って来ちゃうのがいるんだよ。でも基地じゃもう名誉の戦死ってことになってるから、困っちゃって、すぐまた翌朝一番に飛ばされる」。


2000.8.4 -- 列島部族分布地図 --

福井弁(リンク)。ひたすらおかしい。あの友人この知人がまさに降臨したかと思わせた。エスニック集団フクイ族は確実に存在する。このページを楽しめる者は我々の外にはいないのだ。しかし、かりにこの方言が何かの拍子で嘲笑の対象にされたとしたら、我が部族の受難もその時始まるのだろうか。

●クイズの答えは「ときめきに死す」(森田芳光監督、沢田研二、樋口可奈子、杉浦直樹ら出演)でした。正解のかたはいらっしゃいません。応募者もゼロでした。ネットの大海、わたくし独り。


2000.7.31 -- 思考の風鈴を鳴らそう〜クイズ付き --

●小野リサなんかを聴いたりする昼下がり。ボサノバはどうして「涼しい」のか。そよ風とかさざ波を思わせるサウンドだからか。ブラジルのからりとした?風土を連想するからか。あるいはそもそも「ボサノバ=涼しい」からか。●最近読んだ「メタファー思考」(講談社現代新書・瀬戸賢一著)に「共感覚メタファー」というのがあったのを思い出す。つまり「涼しい音」とは、触覚から借りてきた聴覚の表現というわけだ。しかもこの場合の「涼しい」は、本来は「痛い」とか「つらい」と同じ内部の感覚を、皮膚という外部の感覚を借りて表現したとも言えると。さらに「ブラジルが涼しい」なんていうのは、身体的認識をベースにした「感性によるメタファー」というより、精神的認識をベースにした「悟性によるメタファー」に分類されるのかもしれない。いずれにせよ、我々の世界認識のクセのようなものを常々知りたいと思っていたところが、メタファーの構造こそその主要な鍵かもしれないと気づかされた面白い本。●しかし、もう一冊「フラクタル音楽」(マーチン・ガードナー著)。昔「1/fゆらぎ」というのが流行ったが、その関連。音楽の聴きごこちは、実のところ数学的な法則に多分に支配されているのか。●仮に「ブラジルは涼しく、涼しい音楽とはボサノバである」といった言語的世界認識に、我々の音楽感受性までもがどこまでもどこまでも侵されて(冒されて?)いたとしても、それでも音楽は、たとえば1/fといった、おそらくサルやイルカともわかちあえそうな生理感覚の懐にするりと入り込む。・・・とまあ、こんなことを書いたり読んだりしてると、涼しくなくなってくる。●そういえば「涼しいですね」が決めゼリフだった日本映画がありました。80年代のはじめです。知っていますか。


2000.7.29 -- ニセ教養講座 --

オーロラの仕組みと、言葉の仕組み?。画像が重いのを我慢する甲斐はあるか?

掲示板「東京永久観光」で差別をテーマに思案している過去ログをまとめました。


2000.7.21 -- 猛暑の続いていたころ --

●炎天下ファミレス4時半生ビール。フリー生活者の気楽さ。されど、がらんとしたファミレスで注文したビールは、どこか胸の痛みを伴ってノドを通り過ぎる。


2000.7.14 -- 睡眠バネ --

●人間の体は少々寝ないでも大丈夫だが、その分はあとで執拗に取り戻そうとしますね。いやちょっと復讐しすぎではないかな。ああ眠い。


2000.7.13 -- 毎度のことながら労働基準1週間分を2日で --

●仕事の嵐やっと通り過ぎる。完徹平気はカフェイン飲料が効いたのか。

●ビル2階のあまり目立たない中華料理店。赤を中心にしたいかにもな色調だが、壁面に豚と月面のオブジェが埋め込まれた店内は、いつも人が少ないので、常に流れているジャズが静かに響く。店名がまた変わっていて「ニュートンの法則」。夜でも食べられるの日替わりセットが良質。しかもランチ予算。そんな店があったなら。いや、あるのです。「わが町の中華屋自慢」という本があったら買いたい。というか書けるね、私は。ブルータスのCDロム付き特集あたりでどうだ。


2000.7.8 -- 台風の日には --

●午前4時。東京は台風接近か。北村想が書いた芝居に「シェルター」というのがあって、自家用シェルターを作ったのでためしに入ってみたところ、なぜか電気が消えて閉じこめられてしまったノンキな一家が、ロウソクかなんかをともしながら、そうだいつか台風の日にこうしてロウソクを囲んでみんなでしみじみ話をしたなあ、とたしかそういう展開。台風の時に話すのはやっぱり台風の思い出なんだよ。そのようなセリフがあった。●台風の進路のついでに思い出をネットで検索、雨風はげし

●もうおとといのことだが、仕事関係3人で焼き肉。カルビ、ロースに、タン。レバー大丈夫?。黙ってうなずく。ハラミもいい?、じゃハラミも。立場上か性格上か注文には口を出さない。皿から鉄板に乗せる作業もつい遠慮がち。会話なら5分の1程度。しかし焼き肉をつまんで口に運ぶのは3分の1強。それからきょうは桃を食べた。それ以外なにも食べなかったわけではない。


2000.7.4 -- 放埒 --

●極端な夜型は相変わらずで、就寝前の読書は清澄な朝日に照らされる。ちびちび読んでいるのは、既にご紹介の内田百ケンシリーズから「東北本線阿房列車」。百ケン先生もまた高齢でありながら朝がたいそう苦手だったようで、列車に乗るにも昼過ぎにしか出発しない。「朝の八時だの九時だのと云う時間は、私の時計に無い時間であって、そんな汽車に間に合わすには、どうすれば間に合うのか、見当もつかない」と書く。その切実さ、よくわかる。そのくせ、宵のころにはもう目的地に着いて宿に入ってゆっくり晩酌したいなどと勝手なことを言う。これまたよくわかる。しかしそのために百ケン先生は、上野を朝9時35分に出て盛岡に午後7時45分に着く列車で、盛岡に着くのはやりたいが、その列車に朝から乗るのはイヤだと考える。そこで、上野を12時50分に出る別の列車でとりあえず福島まで行って一泊し、翌日の午後2時13分、朝東京を発った目当ての列車に福島から乗りこむことによって、思い通り盛岡に夕方着くことを実現させる。巧妙トリック。犯人は同行のヒマラヤ山系氏か。いやいや西村京太郎シリーズではなかった。


2000.7.3 -- 夏休みは近い --

●仕事で大汗かいた帰り、渋谷のスパゲティ屋でビールも飲む。前に座った若女性3人組が、信州の観光ガイドを眺めて相談中。白骨温泉もいいね。じゃ諏訪湖で一泊。とかなんとか。帰り際、けっこう大きめの電卓をたたいてスパとジュースの勘定を一人づつ正確に計算していた。旅行もこの要領でしっかり。●雪印低脂肪牛乳1リットルパックが、近所のスーパーで110円。


2000.7.1 -- 朝型もどき --

●めちゃいけをのぞけば、土曜はあまりテレビ面白くないのかな。伝説の教師も先週で終わってしまったし。そうこうしているうちに早起き仕事の疲れで眠ってしまい、明け方に起き出す。この時間はきょうの残りか、それともあしたの先取りか。

●新入社員のアンケートで「人並み以上に働きたい」(43.5%)が「人並みで十分」(43.1%)を上回ったとか。1986年以降で初めてらしい。会社には「休み」より「金」を期待する人の方が多いとも。朝日新聞ページより。まあ誰かちゃんと働いてくれなくては困るわけだ。が、なんとなく根性がケチくさい。


これ以前