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だらだら話 15

  ジブチ再訪(2004年)
 またまた、ご無沙汰しました。 2,3月の休暇の旅から帰って、休暇ボケがやっと済んだ頃に、夏の合宿に出かけ、約40日を信州で暮らし、そのあとの合宿ボケがやっと取れてきたところです。

 ずいぶん遅くなりましたが、休暇で行ったジブチの事を、書いてみたいと思います。こんなに間をあけて、またのこのこと出てくるなんて、普通の神経では出来ないことよ、と、友人にいわれましたが。

 その前に今日は、ホームページのご紹介を、ニ、三させてください。

 ひとつは遠藤さんの 「きものであそぼ」です。
  http://www.geocities.jp/endohkun_22/menu.html
 遠藤さんは作家で、太極拳の先生でという多才な方ですが、ここのところは新しい着物の研究家として活躍していらっしゃいます。
 私とはヨガを通じてのお知りあいです。こんなにいろんなことが出来る人もいるんですよね。和服に興味の有る方どうぞ。

 もうひとつは梅田くんのホームページです。
 http://www5d.biglobe.ne.jp/~umeda/
 梅田君はうちの塾の卒業生です。合宿のあたりの写真を集めてありますので、塾関係の方はごらんになると懐かしいでしょう。

 最後に私のヨガのグルーのNandy先生のものです。英語ばかりですが、先生の写真も載っていますので、ごらんになってください。
 http://www.yogacurecentre.com

 *

【ジブチのお話】

 去年のジブチの休暇に味をしめて、又同じところに行って来ました。一年ぶりで見るジブチには、大きい変化が三つありました。
 ひとつは、去年全くの土色のみだった土漠のあちこちに緑が見られること。これは去年の雨期に、割合に雨が良く降ったからなのでしょう。去年は荒涼として厳しい表情だった大地が、穏やかな表情を見せていました。
 大自然の力というものは、こんなにも大きいもので、広大な大地の表情まで変えてしまうものかと、畏れの念に打たれました。

 二つ目は、キャンプの数が一つ増えていたこと。去年は二つのキャンプで約20,000人の難民さんたちがいたのですが、今年は更に第三のキャンプができていました。
 これはジブチの不法労働者を集めて、一時的に収容したもので、約8,000人が収容されていました。
 この人たちを良く調べて、難民には難民カードを支給して難民キャンプに収容し、不法入国者は強制帰国というふうに、整理するためのものです。
 8,000人の人たちが、ジブチの労働人口から抜けたのですから、女中さんや門番さんなどの職に8,000人分の空きができたわけです。其処にジブチの失業者を入れ込もうというのが、ジブチ政府の思惑だったと聞いています。
 この8,000人には、エチオピア人が多いのです。エチオピア人は、ジプチ人より良く働きます。その結果は、エチオピア人を辞めさせても、雇い主(金持ちのジブチ人)のほうが、「ジブチ人の女中や門番を使うくらいなら、使わないで我慢した方がましだ。」と言って、後釜を雇わない人も多いとか。
 この計画、あまり政府の思うようには行かなかったようです。

 そのくらいジブチ人というのは、よく言えば“おっとり”しています。
 その例をお話しましょう。ジブチ人で、日本に4年間留学した人がいます。官費留学したのですから、優秀なジブチ人だと思います。タバレットさんというので、私たちは“タバちゃん”と呼んでいました。いい人で、日本人には特に親切にしてくれます。 「自分が今の地位にあるのは、いつに日本のおかげだ」と心底信じているようです。それをいいことに、わたしなどはいつも頼みごとをしていたものです。
 このタバちゃんが日本に来た時、初めてある会合に出席することになったときのことです。2時間遅れて行ったら、もう会合は終わっていて、「ここはジブチじゃないんだ。」とこっぴどく叱られたそうです。それからは「日本人相手には時間を守る」と、上手に使い分けているようです。今回も、私たちと待ち合わせると、時間の15分前に現れるので、こちらが面食らうくらいでした。

 こういうふうに時間にルーズなことは、外国人の目から見れば、大変だらしないことに思えますが、彼らには彼らなりの事情があるようです。
 イスラム圏では、持ってるものは何でも分かち合うべきだとされていると聞きます。以前にモロッコを旅した時も、タバコを吸う友人は、タバコを一本口にするたびに、何人かに分け与えなければならないので辟易していました。タバコ代が嵩んで気の毒なので、私が時々その分を寄付したくらいです。
 同じ様なことが車にも言えるのです。例えばタバちゃんが、車で街を走っている時に知人に会ったとします。その知人が「、、、、、、ヘ行きたいから送ってくれ」といった場合に、たとえそれが回り道であっても断るのは仁義にそむくのだそうです。これでは、時間を守れなくても仕方が無いですよね。
 時間を守るか、仁義を守るか、どちらをとるかについては、彼らなりの尺度があるのでしょうから。
 そういうところにいて、自分だけ時間をまもって、周りがそうしないからと苛々してみてもなんにもなりません。それどころか、反対にまわりに迷惑をかけます。
 美徳とか悪徳とかいうのも、その社会環境によるということは、私がいろんな外国を回って得た教訓のひとつです。
 こういうことを書いていましたら、丁度、若い友人の一人が本を薦めてくれました。「喪失の日本」という書名です。日本人がインドに行った場合、カルチャーショックを受ける人がかなりいるそうですが、その反対はどうなのか。インドのエリートサラリーマンが来てどういうふうだったか。そういう本で大変面白く、上記のテーマを扱ったものでした。
 例えば、湯豆腐鍋を囲んでつつくことが、彼らにとってどんなに大変なことであるか、とか、かなり思いもかけないことが綴られています。
 お暇がありましたら読んでみてください。角川書店の文庫本です。

 三つ目の大きな変化は、難民キャンプ大縮小のきざしが顕著なことです。ここのキャンプは、今年で14年目という歴史を持っています。
 今22歳くらいの若者が8歳くらいの時、親に手を引かれて、弾丸が飛び交う中を、ソマリアから逃げてきたのが始まりです。その時は本当に辛い、悲惨な状況だったと思います。今でも、若い人の足首などに弾丸のかすめていった痕跡があったりします。

 それから14年住み着いていると、自然に外部の社会と似たような形態をとって来るから面白いですね。

 今では、ひとつのキャンプに、お店が2軒もあります。生活必需品がびっしり詰まった立派なものです。コメからフイルムにいたるまで、なんでも買えます。

 又、足踏みミシンの仕立て屋さんもいるし、山羊を飼ってその肉を売る人、農園を作っていて、農夫を2〜3人雇っている人などなど。


この人が、ぶら下げているのが、山羊の肉です。

 こういうお店や農園のオーナーも全部難民さんたちなのです。だから難民の中でも自然に貧富の差が出て来ます。

 第15話で、キャンプのおうちの中のきれいな写真をお目にかけました。今年わかったのですが、あれはかなりお金持ちの難民さんのおうちでした。このおうちにも、今年又泊まりましたが、ここでは女中さんを二人使っています。私たちの食事の世話など全部女中さんがしてくれます。このおうちのマダムは、産婆さんで、AMUDA(ボランティア医師団体)のところで助産婦として働いて報酬をもらっているかたわら、洋服類をジブチで仕入れてきては売るという洋服やさんを兼業しています。押入れには洋服の在庫がびっしり詰まっています。(50歳近く)ご主人はジブチで働いているとか。

 この方の息子さんが、お店のひとつを経営しています。キャンプの財閥というところですね。

 娘さんはジブチ人と結婚していて赤ちゃんがいます。彼女はキャンプの学校で教鞭をとっています。
 ジブチ人の夫は勿論キャンプには住んでいませんが、ときどき来る通い夫だそうです。

 みなさんの想像される難民キャンプとは、大分違うのではないかと思います。人間の社会というのは、いったん落ち着くと、似たような形態をとっていくのでしょうね。14年という歳月は長いですからね。

 敷地内に、こんなに立派なモスクも建ててもらっています。


白い建物がモスクです。

 それにソマリヤ人というのは75%がノマド(遊牧民)なのだそうです。あとの15%が農民、5%が商人、そして5%がホワイトカラー。
 ノマドは、ご存知でしょうが、駱駝や山羊の後を追って、草のあるところを求めて移動して歩く人々です。ノマドの習性というのは、住み心地の良い土地を求めて移動し、そこが住みずらくなると、又、他の土地を求めて移動するというものです。
 これにあてはめると、ノマドの習性をもつ人々が、たまたま難民として難民キャンプにたどり着いたところが、食料や衣料は国連から支給されるし、学校もクリニックもあるしで、モスクまで建ててもらって、「なかなか住み心地がいいな」と住みついてしまったような気がします。それで、ソマリアでの内乱が収まった地域の人もおみこしをあげなかったらしいです。


これは朝礼風景です。
毎朝こうやって並んで、先生からの注意をききます。例えば、
「ゆうべの婚礼に石を投げにいったやつがいるが、そんなことはいかんぞ」とか。
(婚礼には、どういうわけか、石が投げ込まれるのが例なのです。)
その後で、いっせいにコウランを斉唱します。イスラム圏ですから。


これは、休憩時間のハンカチ落としです。
日本ではこの頃まだやっているのでしょうか?
私の子供の頃は、よくやったものですが。

 去年来た時は、みなさん、自国に帰るという雰囲気は全くありませんでした。国連さんは、帰国を奨励して、帰る人には食料や必需品、それに、なにがしかの金をもたせ、バスを仕立てて帰すのですが、そこまでしてもらって帰国した人も、しばらくすると又キャンプに戻ってくる人が多いのです。中には、新しく友達や親戚を連れて帰ってくる人もいるという始末です。
 一方、赤ちゃんはどんどん生まれるし、これではキャンプの人口は増える一方。どうなるんだろうと思う状態でした。
 しかし、痺れを切らした国連さんが、かなり厳しい態度に出始めたので、そろそろ住みずらくなり、又移動して自国に帰る気になった、と、こういう気がします。
 今では殆どの人が、今年中に帰ると言っています。
 自国に戻っても、家や職が用意されているわけではないでしょう。折角14年間かけて築き上げた居心地のいい生活を全部捨てて、又一からやり直すわけですから、悲壮感が漂っていてもいいはずなのです。それが全然無いのです。これもノマドの習性がなせるわざとしか言いようの無い現象です。
 これが日本人だったら大変だと思うような状況にいるのに、みんなケロっとして明るいのです。「追い出されるんなら、じゃあ行くか」という感じに受け取れます。国民性の違いというものを大きく感じました。この明るさは、ソマリア人の宝でしょうね。
 或る青年が私たちの持っているカメラを欲しいと言います。「今は上げられないけれど、君が国に帰って落ち着いたら呼んでちょうだい。そしたら日本からカメラを買っていってあげるから。」と言いましたら、大喜びで、「よーし、どんな歓迎でもするよ。どんなタイプの招待でもする。」と安請け合い。「オイオイ、キミタチは、これから自分がどういう境遇になるのか、全く解らないんだろうが。」と言いたくなります。
 もし行けるものなら、2,3年後に行ってみたいとは思いますが。彼らがどうなっているか、見てみたいです。それこそ「インシャーラ」(神のみ心があれば)ですが。
 とにかく、キャンプにいても、この人たちの将来は無いわけですから、国に帰って自分たちの生活を築き上げる方が良いのは明らかです。日本もあの戦災後の灰の中から立ち上がったわけですから。
 キャンプでの英語の時間に、そいう話をよくしました。日本が戦時中いかに物に不自由したか、又戦後いかに何もなかったかというような話をしてやると、子供たちが、目を輝かして聞きます。一番受けたのは、私なんかが、戦争中、栄養不良で、虱だらけだったという話です。(これほんとです。)リクエストで、何度もさせられました。彼らからみると今天国のように見える日本にも、そういう時代があったというのが、アピールするらしいのです。
 中には利口な子がいて、「そういう状態から日本はどうやって立ち上がったのですか」と訊ねます。さすがに、自分たちがこれから置かれる境遇を思うのでしょうか。それに対しては、私なりの考えを述べて、希望をもつように励ますことにしました。

 前記のように国民性が違うのですから、日本の戦後のような発展は到底望めないと思います。又、それだけがベストの形だとは、私は思いません。彼らは彼らなりに、自分たちにあった社会を作り上げていくでしょう。これは、希望をもって見ていていいと思います。

 書き出すと止まらなくなりますが、あまり長くなりますので、この辺で一度止めます。この次は来週か、来年かです。近じか、タイのマンゴ農家に、またまた居候をしに行きます。どんなところか楽しみです。面白いことがあったら、お知らせします。今わかっているのは、タイの東北部のコンケーンというところに行くことと、高床式の作業場が、私の寝所になるということだけです。



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〈筆〉waikari bahchan=木村詩世