舞城王太郎 つゆだく

  

牛丼にハンバーガーにカップ麺。そればかりで過ぎたような一日は、舞城王太郎の小説がよく似合う。クズのような読書。イライラと忙しい気持ちをかかえ、やかましい店内で居心地の悪い椅子に着き、注文してすぐ出てくる油と澱粉ばかりの食い物を、いっそケチャップや紅ショウガもつぎ込んで、味わいもなにも、栄養もなにも、そんなものうっちゃって、ひたすらかっ込む。もちろん、もうちょっとまともな店だって知っている。ただ、これがまずくて食えないかというとそうでもない。むしろ、いける。そのくせ、今のそんな自分が荒んだ状態であることはけっこう冷静に眺められる。ただし、だからといってそんな自分を相対化して微笑む気分にはならない。

――以上は、長編『煙か土か食い物』を読んだときのメモ。

クズというと、どうしても、中原昌也小説のクズぶりが思い浮かぶ。中原小説や舞城小説においては、純真素朴な文学やミステリーというものが、結果的であるにせよ、ずいぶんひどくいたぶられてしまっているじゃないか。これはもう犯罪だ。

しかし、中原小説は、犯行を下そうと積極的に意図したわけではなかろう。退屈しのぎに非行でもと、何の気なしに始めたところ、誰も止めないし見物人も出てきたみたいなので、ずるずる続けていくうちに、稀薄な罪悪感のままプロバビリティーの犯行が成り立っていた、という感じだ。

一方、舞城小説は、かなりの確信犯。いや愉快犯というべきか。そして、登場人物のごとく奇怪で異常な動機の解明を待っているのかもしれない。

さて、このほか舞城小説は、長編『世界は密室でできている』、『熊の場所』の三短編(「熊の場所」「バット男」「ピコーン!」)、それに「鼻クソご飯」を読んだ。私の好みは、長編より短編。

あいかわらず、黙読して小気味よし。挨拶なしでいきなり本題に入る不作法、とも言えるのか。――これは、「バット男」の読み始めの印象。

バット男はシステム的な存在。だからバット男が殴られるのを黙って見学するしかない自分。「世界のシステム性、自分もその一部として組み入れられているシステム性、それへの諦観」といったものがまずあって、それでも、バット男がこのシステムを破壊してくれることを夢見てはいる。

《頼むってマジでバット男。バット使ってくれって真剣に》 。この福井弁を正しいアクセントで受け止めた私が、そのとき連想したこと。それは、――空爆を受ける予定のサダムフセインが、あるいはやぶれかぶれの金正日が、鬼畜米英を(もしかして日本も?)生物兵器や核兵器で破壊してしまうテロを、革命を、ちょっとだけ待ち望んでいるかもしれないイケナイ気分。「そんな大げさな」「それとこれとを一緒にするな!」などと言うなかれ。我々がテロやラチや戦争のニュースに憤ったり恐れたりしているのは、せいぜいそれくらいのレベルではないのか。高尚な論争をやられても、もうひとつピンとこないのが本音ではないのか。

それにしても、舞城王太郎は73年生まれと福井県出身というプロフィールしか明かされていないようだ。謎だ。それゆえに、出身が同じというまったく根拠を欠いた親近感。ふと、もしこの作者が私と同じ中学や高校にいたら、私が思い出す同級生のうちたとえば誰みたいだったのだろう、てなことを考えてしまうのが、楽しい。部活動は何やってたんだろう、文芸部でもあるまい、でも体育祭はさぼったか、とか。

ちなみに、「バット男」の《僕》は、たとえば『ニッポニアニッポン』(阿部和重)の孤独で暗い主人公などとは違って、 つきあいはべつに悪くない奴なのだ。 ちょっとワルだが犯罪まで本当に実践したりはしないようなグループに、すんなり紛れ込めるキャラクター。つまり、中高生としてはクラスのサイレント・マジョリティー。(長編の主人公はまた違う)

もしも、 「バット男」の舞台となった学校に、あのカフカ少年が転校したら、誰か友達になってくれるだろうか。心配だ。‥‥でも、生徒会長かな。

そういえば、あるたまげた親子やきょうだいの、たまげた対立と葛藤が、いっそうたまげた形で和解していく物語が、かなり単調だが、かなり宿命的で意味ありげに、男子の視点で語られる、というところは、『煙か土か食い物』と『海辺のカフカ』で共通していると思った。

雑誌「SIGHT」冬号で2002年の本ベスト5を選ぶ企画があり、「文芸・評論」部門は高橋源一郎と斎藤美奈子の担当だった。高橋源一郎は11冊をむりやり5冊にまとめるという離れ業を見せたが、そのなかに舞城王太郎『熊の場所』があった。高橋は『熊の場所』について、だいたいこんなことを書いていた。

――小説で新しいことをやるのは難しいが、『熊の場所』は、その新しいことをやっている。だれかの模倣でなく、なにかの模倣でなく「現代」について書こうとすると、必然的に新しいことをせざるをえない。『熊の場所』の試みを一言で乱暴にいうなら、「口語」的に書くということ――。

ここで出た「口語」というキーワードは、11冊のなかで最初にあげた『文章読本さん江』『三島由紀夫とは何ものだったのか』を推薦した理由でもあった。文学について文学的な文章で書かないという方法のことを指すようだ。

年が改まっても立ち読みの癖は改まらず、またもや記憶を頼りの不正確引用で申し訳ありません。正しくは同雑誌を開いてください。

「現代」「新しい」というキーワードは、「小説トリッパー」の評論「文学へ」第3回にも出ていた。そういうことと関係あるかどうかわからないが、『熊の場所』と『君が代は千代に八千代に』には、似た雰囲気がある。

ま、以上。

→『阿修羅ガール』も読んだ。


Junky
2003.1.10

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