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高橋源一郎『日本文学盛衰史』
読書しつつ感想しつつ(1)
 普請中
-----ネタバレあり。注意。

(2)    インデックス



死んだ男

明治四十二年六月二日、余は、澁谷第一書肆にて『日本文学盛衰史』を購入す。
いやほんとは、それから92年が経った今、私はこの小説を読んでいる。

群像での連載は97年5月号に始まったとある。
(5月号は4月7日の発売?)

ちなみに、私はこの年5月20日に東京に引っ越しをした。
落ちつき先の近所で訪ねた、まだなじみのない図書館で、たしかこの第一回を読んだ。
てことは、バックナンバーだったのか。

「日本文学盛衰史」という題名は厳めしく、
文体もなんだか硬いかんじで、
これ、文学研究みたいなことが始めるのか、
それとも、やっぱり小説だろうか、
首をかしげつつページをめくっていったところが、
最後にきて、かの、漱石と鴎外によってなされる「たまごっち」会話だ。
意表をつくんだな、これが。
梯からガタンと落とされた感じ。
あれ、これ、いったいなんだ。でも可笑しいな。
それくらいの感想だったはずだが、印象は今なお鮮やかだ。

ところが、肝心の冒頭が、二葉亭四迷の話で始まっていたなんて、
どうもすっかり忘れていた。

それからずいぶんあとの99年12月になって、私は、
高橋源一郎が、日本女子大の講演会で、
二葉亭四迷について話すのを目の前で聴いた。
二葉亭の「余は懐疑派だ」という論文を、
文学同好の士というおもむきで親しげに熱っぽく紹介していた。
「余は懐疑派だ」は、そのあとすぐ探して目を通してみた。

ところが今回書籍を読み返したら、
その「余は懐疑派だ」が、ちゃんと引用されていたんじゃないか。
そもそもあの講演は、
この『日本文学盛衰史』とことごとくシンクロしているのである。
このことは、この先にまたいろいろ書こう。

二葉亭に扮した高橋源一郎の似顔絵が、なにかの著書にあったのを思い出す。

その二葉亭四迷、葬儀のシーン。
やんちゃ坊主の風をした啄木が受付にいて、漱石と鴎外が出会う。
このあたりは、
関川夏央原作、谷口ジロー作画の漫画『坊っちゃんの時代』を読んだので、
今の私には興味深くよめる。
しかし連載第一回の段階では、
正体不明ともいえるこの文章が、いったいなんのつもりか、
どこに焦点を結ぼうとしているのか、
私にはどこまでもおぼろだった。

さて、この章における二葉亭文学への言及は、
いわばその逆説性がポイントのようだ。

=ここから引用=

当時の作家たちが使うことのできる日本語は「文学」用語としてはきわめて不十分であった。古い時代のリズムや形式を引きずった過度に修飾的な言葉で世界の「実相」を描き出すことは不可能であり、自由な散文が緊急に必要とされていた。逍遥と二葉亭の意見は、そこまでは完全に一致していた。では「自由な散文」とは何であろうか。それは、実際に日常会話として使われている日本語を素にして、「文学」的に洗練させた特別な日本語のはずであった。
=ここまで引用=

坪内逍遥ー二葉亭四迷ラインが成し遂げようとした「言文一致」は、
ふつう上のような説明になるだろう。
ところが、たしかに逍遥はそう考えたが、
実は二葉亭はそうではなかったというのだ。

その相違は、二葉亭がロシア語を訳した文章について、
「形」にとらわれすぎて原作者の意図つまり「魂」をうまく伝えていない、と
逍遥が感じたあたりに現れてくる。

では、苦心惨憺の二葉亭はいったい何をやろうとしていたのか。

=ここから引用=

二葉亭は逍遥とはまったく逆に考えていた。言語にとっては「形」ことが「魂」にあたるのだ。二葉亭の想像力の根源は、彼をとりかこむ世界への違和感からやって来た。
 (略)
言語にとって「形」こそが「魂」であるということは、言語は現実の世界とは別の秩序や法則を持っていることを意味していた。
 (略)
そして、なにより不幸なことに、二葉亭は、言語の形式性を逆手にとってそこに閉じこもることのできる「純粋芸術」派ではなかった。彼は言語の形式性を知りながら、なおかつそれを通して「現実」の世界の「実相」を描こうと願ったのである。
 (略)
小説は生硬であり続けねばならなかった。二葉亭の「革命」が日本文学の「正統」に形を変え、自由な散文が洗練への道を歩み出した時、文三は死んだのである。

=引用ここまで=

*文三とは、『浮雲』の主人公=違和の人、つまり二葉亭自身ということになるのだろう。

言語にとっては形こそが魂。
言語は現実の世界とは別の秩序や法則を持っている。
ここから必然的に思い出されるのは、
「現実は存在しない。言葉だけが存在する」という
高橋源一郎のマニフェスト(っぽいフレーズ)だ。

こうした重ねかたをするなら、
二葉亭四迷への共感が、際立ってくるのかもしれない。

しかしながら、この章を締めくくるのは、実は、石川啄木でした。
あの絶妙の歌3首。
明治と現代92年の隔たりを、さあっと瞬時に駆け抜けますね。

=ここから引用=

啄木に二葉亭の葛藤はなかった。だが、二葉亭の知らない葛藤を啄木たちは味わわねばならなかったのである。

=引用ここまで=

じゃあ、二葉亭とは違う啄木の葛藤とは、どういうものだったのか。
これは次章以降に続く宿題ととらえよう。

いずれにしても、改めて読んでみると、
日本近代の夜明け・日本近代文学の夜明けが抱えた問題の在りかが、
これから、なんらか書かれようとしているのだ
ということぐらいは、じわじわと感じられてくる。

で、こういう日本近代文学の夜明けを考えるには、
そもそも
「表現したい内面がまず普遍のものとしてあって、
それを表現するための文学が次に求められた」
ということが自明ではないとされているらしいので、
このことは、ちゃんと思い出しておく必要があるのだと思う、たぶん。
とはいえ、あまり理詰めで考えても、楽しくないのかもしれないが。

ともあれ、『日本文学盛衰史』はまだまだ先が長い。徐々に考えよう。

おまけ。
「たまごっち」シーンの唐突さ、という点では、
この玩具が登場した当時、私は実はシンガポールの船上、ではなく、
バンコクを旅行中で、
朝飯を食いながら眺めた英字新聞で、
日本発のニュースが「たまごっち流行」と報じていて、
なんじゃそりゃと祖国の奇態さにしみじみしたことを、
思い出さないわけにはいかない。

もひとつ、おまけ。
「浮雲」は、その99年の高橋源一郎講演会のあと、一応読んだ。
そのとき書いた日誌。

---二葉亭四迷の「浮雲」を読みはじめたら、これが実に可笑しい。言文一致とはいうもののルビだらけの漢語当て字がやはり目立ち無学者には初めて知る語句の連続なのだが、その傾向に全く比例しない、拍子抜けするほどの読み易さとお気楽さに驚いてしまう。これはいったい何だろう。休みなく流れてくる文章のテンポとリズムが次第にうねりを生じさせ、いつしか飛んで踊って揺さぶられているレイブ。町田康に負けないくらいノリノリです。本を読むとき、言葉が<文字→目→口→あたま→こころ>という順序で流れてくると仮定するなら、目か口あたりで言葉がストップしてどうにも先に行かない小説とか、ようやくあたままで来たからその先は無理やり押し込んでやった小説とかもありますが、ともあれ「浮雲」という小説は、そのルートが最短距離を取る。これこそ真の言文一致だ。我々のこころに初めてのざわざわ感。---


Junky
2001.6.3


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