著作=Junky@迷宮旅行社(www.MayQ.net)
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▼日誌または東京流れ者

迷宮旅行社・目次

これ以後


2001.6.29 -- これぞ哲学 --

野矢茂樹『はじめて考えるときのように』


2001.6.28 -- こんにちは、ご近所さん --

●きょう自転車で移動中すれ違ったのは、なんと蓮實重彦夫妻。夕涼みに自宅のそばを散歩といった風情だった。Tシャツ短パン、素足にサンダル、だったのは私の方で、二人は普段着だが極めてファッショナブルであった。一時引っ越し説も流れた(というか私が流した)が、ずっとそこにお住まいだったようだ。

●一方、ニューヨーク住まいの柄谷行人に出くわしたのは、きのう雑誌「アエラ」にて。ルポライター吉田司が柄谷を訪ね、街中や自宅でのインタビューをリポートしている。マルクス主義の評価を一貫して棄ててこなかったこと。その現代における優れた実践として消費者運動を位置づけていること。その運動体として自ら率いるNAMをもってすれば、戦争を止めさせることも可能だということ。そういうスパッと言い切る主張も、そのほかの毒舌等も、ともに面白かった。7月1日には東京に戻って講演をするらしい。ちょっと付和雷同して聞きに行こうかと思ったりする。

●近ごろの中東和平会議におけるイスラエルの立場は、禁煙者の集まりにおける喫煙者の立場に似ていると、朝日新聞の論説委員が夕刊で少し同情していた。パレスチナ紛争の報道はイスラエルを悪にする紋切り型が目立つと、イスラエルの記者が発言したところ、他国の記者から総攻撃を浴びたという事例を取り上げての話。そして「真の強者はどっちだ」と論説委員は問いかける。●イスラエルと喫煙者。貴方が同情するなら、どっち? 「そんなのと一緒に論じるな!」と怒るなら、どっちに。●なお、朝日の夕刊を読んだのは、「官能小説家」の連載が30日でいよいよ終了するというので、なるべくリアルタイムでチェックしようと意図してのこと。


2001.6.27 -- 「小泉内閣への付和雷同が嫌だ」という大橋巨泉への付和雷同が嫌だ --

●昨年話題だった本『銃・病原菌・鉄』(ジャレド・ダイアモンド著・草思社)について書いたら長くなったので、こちらにまとめました。


2001.6.25 -- 東京で震度3 --

「地震が起きたらNHKより2ちゃんねるだな」●都議選の開票も、京福電車の事故も、同様。


2001.6.21 -- 大河感想 --

●高橋源一郎『日本文学盛衰史』の感想文(40)(41)、これでとうとう終了。


2001.6.20 -- 大雨かと思ったらそうでもなく、なかなか具体的にいえない天気 --

ヤフーがADSLに参入。なんと8メガ。しかも月2830円の超破格。これを激震と呼ばずにいられようか。とりわけ、よりによって昨日フレッツADSLをNTTに申し込み、けさ工事日の連絡を受けたばかりの私にとって。そういえば不気味なほど低姿勢だったNTTの116担当。●フレッツADSLは、現在のところ月4600円と加えてプロバイダ料がかかる。う〜む、開通日を待たずして乗り換えを検討するハメになってしまった。ただし、ヤフーのADSLは8月1日スタートで、私が申し込んだNTTフレッツは7月6日から使えるので、しばらくフレッツを試しつつ、NTTの出方を待とう。NTTも大幅に値下げするかもしれない。というか、しなさい。●幸いフレッツのモデムは買い取りじゃないので痛手はない。複数のパソコンを繋ぐために、これから自前で買うことになるルータも、同じ機材がヤフーに転用できると推測される。まああと気になるのは、フレッツの初期費用3600円(契約料800円+工事費2800円)。これは乗り換えの場合、どうなるんだろう?●それにしても、他のADSL業者のショックは如何ばかりか。間違いなく死活問題だ。これまで日本のADSLを先導し、NTTの重い腰も上げさせたというのに。いやそれどころか、ヤフーADSLの月2830円というのは、現在ダイヤルアップのユーザーがプロバイダとNTTに支払っている合計額すら、たいてい下回ってしまうんじゃないだろうか。それで24時間高速通信とくれば、これになびかないユーザーはいない。時代は確実に変わる。

(38)(39)


2001.6.19 -- メルマガ民主主義 --

●小泉内閣メールマガジン、つい登録してしまう。首相官邸のページでバックナンバーがすぐ読めるようだが、この際やっぱり「ソーリからメール!」を実体験してみたいじゃないか。私はたまたま就任直後の施政方針演説をテレビで見て、「小泉内閣メールマガジン」てな文句がいささか生硬な響きで飛び出したのも、リアルタイムで聞いた。その時から、そのメルマガってのがちょっと気にはなっていた。●さて、そのバックナンバーを見ると、冒頭にまず総理のメッセージがあり、そのタイトルが「らいおんはーと」。う〜む、我々国民のレベルを見切っているのか。いや、マジの趣味かな、これは。「総理になる前は、一人でコンビニに行ったり、ふらっと自由に外出していました」ってのが、またよろしい。●お盆とかに親戚一同が集まったりすると、大人とは思えないお調子者で落ち着きのない変なオジサンが一人くらいはいて、子供にはやけに人気が高かったりする。

●たとえば、パソコンで小説の一文を引用して書き写し、続いて自分の感想を書いてみたりすれば、その程度はともあれ、どちらもディスプレイで発光する同じような文字の連なりでしかないことが、わかってしまう。同様に、「らいおんはーと」のメッセージも、首相の施政方針演説も、我々のメールのメッセージも、掲示板にアップされた演説も、どこか同じようなコピー&ペースト風の言葉なんだなあという印象を、きっとこのメルマガは、国民に鮮やかに見せてしまうだろう。それはどういう結果をもたらすか。


2001.6.18 -- 大正編・昭和編も構想あり、とか --

●『日本文学盛衰史』読書は終わった。あとは感想のみ。(35)(36)。『三四郎』の列車に私も乗る。●追加(37)


2001.6.17 -- やっとゴールが見えてきた --

●『日本文学盛衰史』感想(28)(29)(30)(31)(32)。夏目漱石『こころ』を読んだ人には、得もいわれぬミステリー、「Kは誰か」。●追加。(33) (34)


2001.6.15 -- 通信状況悪化の一途、いよいよADSL検討 --

●あの事件から一週間。容疑者の背景が少しずつ報道されている。●いったいどんなわけがあったら、あんなひどいことができるんだ。それを我々は、(1)わかることにしたい、(2)わからないことにしたい、----のどちらかに決めてしまいたくて、そのせいで、自分のあいまいでぐずぐずした気持ちよりも、ほかの誰かのきっぱりした断定や感情に、つい寄りかかってしまいたいところがある。●少しわかって、少しわからない。そういう中途半端な状態を保つのは難しく、よけいイライラするけれど、それでも、私たちは、わからないことはわからないままに、ずっと考え続けるしかないのだと思う。●世界というものは、どうやら、どこを切っても、そんなふうにしかできていないようなので。

●されどわれらが感想の日々(26)(27)


2001.6.14 -- 淡々粛々平々凡々 --

●感想するとは、救済や希望ではなく、真の絶望ですらなく。(21)(22)

●追加、(23)(24)(25)


2001.6.13 -- 日課と化す --

(17)(18)(19)(20)


2001.6.12 -- 日本文学盛衰史、売れてるようですね。 --

●感想(14)(15)(16)


2001.6.11 -- 蒸し暑い --

●感想(9)(10)。読書は半分まできたけれど、感想はまだ4分の1。(10)は、ちょっとしたインターネット論でもあります。●さらに、(11)(12)(13)

●本の感想などを書こうというと、どうしてもその本を手元で開いて読み、かつキイボードを打ってという複合作業になる。この時の本の位置、そして本のページの押さえ方が、なかなかうまくできない。読んだ本のことをホームページに書いておくという状況は、きょうび本当に定着したと思う。人間工学の進歩がそれに追いつかない。●そんなこと言ったら、寝るときの本の広げ方なんかは、ぜんぜん進歩していないのかもしれないが。


2001.6.10 -- 幸徳秋水なんて、全共闘なんて、連合赤軍なんて、歴史でしか知らなかった。 --

●感想(7)(8)

最近の革命運動の事例


2001.6.9 -- 雨さほど降らない --

『日本文学盛衰史』感想(6)。今回は、インターネットの掲示板が高橋源一郎に"模倣"された、あるいは文芸雑誌が掲示板に"ジャック"された、あの事件を巡って、ちょっと長い。


2001.6.8 -- 官能小説家盛衰 --

●あいかわらず高橋源一郎の話で恐縮ですが(誰に?)、室井佑月との離婚話を伝える文春。電車の吊り広告だけは見た。記事としてそれこそ「サービスが良い」ようなので、あしたは少なくとも立ち読みしよう。●実は、その電車に乗る前は図書館にいて、しばらく離れていた「官能小説家」をまとめ読みした。夏子(樋口一葉たぶん室井佑月)と林太郎(鴎外あるいみ高橋源一郎)の官能場面は秀逸だと思った。●他人が自分ではないことの絶望は、だからこそ、他人と関わることの希望に変えうること。そのために官能がある、そして言葉があること。官能と言葉、この二つのマジックこそが、私たちの持ちうる至高なのだとの認識。そして、そのようにして官能の位置は、こともあろうに言葉の位置とぴったり重なるのだ!という大発見。●ポルノとは何だろう。文学とは何だろう。作家の生活とは何だろう。●おそらく、生活することの絶望は、読み書きすることの希望に変りうるのだよ。「きれい事だ、甘いね」と言われるかもしれない。しかし、今こうして日誌を書いたり読んだりすることだって、いや「きれい事だ、甘いね」と述べることだって、強大な絶望の側ではなく、読み書きというひたすら危うい希望の側に立ってみることなのだよ。


2001.6.7 -- 晴れ間あり --

その4その5。梅雨があけるまでには感想終わるだろうか。


2001.6.6 -- --

感想その3


2001.6.4 -- 真夏日 --

続いて感想する。しかし、このペースじゃ、最後までたどり着けない。


2001.6.3 -- 読書と感想と回想、同時進行 --

●その『日本文学盛衰史』、感想の断片を羅列していくことにしました。まだ読書は進行中(数えて8章まで)なのですが、雑誌連載でそれなりに目を通していたので、それも面白いかと。しかし、感想など書いていると、読む時間がなくなる。


2001.6.2 -- 池袋リブロ以外で買いました --

高橋源一郎の『日本文学盛衰史』ついに入手。思い返せばこの小説の連載開始を、偶然手にした「群像」で知ったのは、1997年の初夏。ちょうど東京に出てきてすぐの、なにかと多感な毎日だったので、とりわけ印象が強い。さらに、インターネットで「高橋源一郎なぺえじ」というファンサイトを知り、思い切って書き込みの仲間入りをした時期が、またぴたりと重なる。私としては、こうした幸運な偶然があってこそ、同好の人々に引っ張られつつ、その後しだいに多作に入っていく高橋源一郎を、なにやかにやとフォローしようとしてきたのだと、今になって思う。もちろん、そのファンサイトと『日本文学盛衰史』との微妙な繋がりは、私の個人史にも陰を落とすところの、重大な文学史的事実だ。●とまあ、そんなわけなので、きちんと読んで、感想をきちんと書きとめていこう。


2001.6.1 -- 人生半袖衣替え --

●土曜の朝、電話の鳴る音。あなたは何回数えて待ちます。あるいは出ませんか。ああそれとも携帯ですか。てなことで。


2001.5.30 -- 漫画チック --

●きのう、深夜のBSで「東京流れ者」(鈴木清順監督)が唐突に始まった。まあ番組の始まりというのはだいたい唐突なのであって、さらにNHKはCMなどないし、深夜だからよけいな前触れがなく、タイトル前のモノクロ映像(タイトル後はカラー)がいきなり目に飛び込んできた。それにしても唐突というならば、この映画のスタイルというか展開というか、すべてが常軌を逸した唐突さで、めっぽう楽しくなってしまうのだった。1966年の東京の原色モダンぶりは、なんだか、よく知らないヨーロッパの街のようでもあった。そこに渡哲也のチープな演歌節が、またかというくらいに聞こえてくる。時には口笛だったりする。さらには松原智恵子の高い地声とはあきらかに違う吹き替え低音ムード歌謡もしきりに繰り返される。リアルな生活から見れば実に変なのだけれど、考えてみれば、映画のタイトルやエンディングに必ず歌や音楽が流れること自体が変なのだから、別にいいのだ。それにしても、あのだだっ広いクラブ「アルル」の建築構造と照明設計はどうなっているのだろう。●近頃どうやら鈴木清順がブームのような具合で、東京では集中上映があったりしている。そんな中、どうしても劇場で見たかった「ツィゴイネルワイゼン」だけは、ちょっと前に見にいった。官能と幻想の不可思議体験にたいへん満足して帰ってきた。●しかし今回あきらかに「B級」の勲章が似合う「東京流れ者」を知ってみると、「ツィゴイネルワイゼン」は「B級」とはあまり言われないだろうが、それは「ツィゴイネルワイゼン」をほめることなのか、けなすことなのか、ちょっとわからなくなったりしている。●それにしても「東京流れ者」、このネーミング、どこかで拝借したい。というか、もうした。かつては「陽炎座」の主演松田優作の口髭を彷彿させる猫に「かげろう」のネーミングを拝借したことがあった。


2001.5.25 -- 怨念がこもるくらいじゃないと --

●渋谷ブックファーストに、かの『ゲーデル・エッシャー・バッハ』が平積みになっており、学問に燃える新入生向けか、それにしてもこの本、一言で形容するならやっぱり「重い」が最適だな、などと思っていると、その分厚さを競おうとするかのような書物が、隣で目を引いた。『虚数の情緒』(吉田武著・東海大学出版会)。どうです、なによりこのタイトルに惹かれないわけにはいかないじゃありませんか。●近ごろはこの店も立ち(?)読み用に椅子を用意するようになったみたいで、しかもそれが都合よく脇にあったので、どっかり腰をおろし、本もどっかり膝におろして、ぱらぱらめくる。ああ破天荒。これまた『ゲーデル、エッシャー、バッハ』に似て、数学、物理から音楽、美術さらには国語、歴史その他もろもろをいやでも組み込まざるをえなかった、知的理解の総合巨大建築であると思われる。●私は前文を適当に読んだ程度なので、内容はこちらのリンクを参考にしていただくとして、ともかく著者の執念、いやもうこれは怨念といった方がよいような迫力に、たまげてしまう。この本、近いうちに必ず読ませていただきます。合掌。

●さて、その夜、ふと目に入った「朝まで生テレビ」が、いわゆる「新しい歴史教科書」問題をテーマにしていたため、いかんいかん早く寝よう寝ようと思いつつ、スリリングさにテレビを消せなくなってしまった。●出演の西尾幹二氏。頭から湯気を出さんばかり、眼鏡のレンズも曇らせんばかりの熱気に、私はふたたび「著者の怨念」との言葉にいきつく。低音クールな姜尚中氏を前にすると、なんだかやぶれかぶれに映ったりするが、べつにこれらは悪口ではない。西尾氏の著書『国民の歴史』も負けず厚い。こちらも(実はこれもちゃんと読んでいないので)読ませていただかねば。合掌。


2001.5.23 -- ハンセン病訴訟、控訴せず --

●法と政治のニュートン力学にあえて量子力学を当てはめたかのような小泉判断。


2001.5.22 -- トキの国籍は出生地主義か --

●阿部和重「ニッポニアニッポン」(新潮)やっと読んだ。ああこれまさに阿部和重独特の妄想小説なり。


2001.5.21 -- 図書館の休日 --

●そう、きょうは図書館が休みだった。しょうがない。気がつくとテレビで「ローマの休日」なんかをやっている。あいからわず、いったん見始めるとどうにもやめられない映画だった。終了後、この映画が好きなある視聴者が実際にローマを訪れてスペイン広場を歩いたり髪をショートにしたりするというおまけ番組をやっていた。題して「私のローマの休日」。映画体験が旅行体験に似ているとか書いたのは、単にそういうことではないのに。いや、単にそういうことかな。


2001.5.20 -- イラン女子小学生の制服は --

●きょうこそ阿部和重「ニッポニアニッポン」をと思いつつ、NHKでイラン映画「運動靴と赤い金魚」を見てしまった。すこぶる感動。男の子役もいいし、妹役もいい。父ちゃん役がまたいい。アジアの映画体験は、実に、その地の旅行体験みたいな刺激に満ちている。とはいえイランは行ったことがないので、こういう場合、いつかイランを旅行して、ああこれ「運動靴と赤い金魚」に似てるな、「友だちのうちはどこ」みたいだ、となることが大いに予想されるわけです。


2001.5.18 -- 惰性、飽和 --

●新潮に載っている阿部和重の新作「ニッポニアニッポン」を図書館に読みに行こうかと思いつつ、『皇帝のかぎ煙草入れ』(ディクスン・カー)なんかを読んで一日が終わってしまった。むかし読んで面白かった記憶だけが残っている推理小説をだらだら読み返すなんていうことほど、安全で楽しい時間の過ごし方はない。


2001.5.16 -- 気がつけば世論どおりに小泉と田中真紀子を応援している --

●このあいだ「ミリオネア」に出ていたと思った高橋源一郎が、きのうはまた「WA風」というの緩めのクイズ番組に登場していた。それどころか、同じチームには糸井重里がいて、そのキャプテンがビートたけしだったりして、考えてみれば、これ80年代的文化的旗手的にものすごい顔ぶれだ。しかしここで「なれのはて」という言葉を思い浮かべるのは、正しくない。彼らは現在も価値ある活動をしていると思えるからだ。

●高橋源一郎は前妻への慰謝料稼ぎに忙しい、とかなんとか 「噂の真相」に書いてあったらしい。そういえば、このまえ「官能小説家」では作者が急に自己紹介を始め、なんでも練馬区の住民税とおまけに渋谷区の住民税まで滞納している、なんてことを告白していた。そこまで逼迫しているのかというと、私の経験上、会社勤めでない場合はこういう事態は珍しくなく、必ずしも貧乏の証ということではない。だからこれきっと事実だなと可笑しかった。●なお、私に言わせれば、クイズ番組に出て金をもらえるなんて、実にうらやましいではないか。毎日そうしろといわれても平気だろう。毎日会社へ行くことに比べたら、どれほど創造的な境遇であることか。●時代にある種正当に向き合っていると思える知性たちが、テレビのバラエティで緩くはしゃいでいるのを見ていると、これはまさに私たちが彼らと同時代を生きている証拠だとも言える。

●まあしょうがない、「噂の真相」なんて、簡単に言えば、志が低いのである。いくら権力を暴こうが、有名人を嘲ろうが、右翼に襲撃されようが、根本的なところで志が低いなあと私ですら思う。じゃあ高い志ってなんだよ、と「噂の真相」は問うだろう。でもそれは「噂の真相」にはわからないだろう。なぜなら、高い志から低い志はよく見えるが、その逆は成り立たないからだ。でも本屋にいくと「噂の真相」はつい開いてしまう。志はつねに低きへと流れる。

●さて、その高橋源一郎の著作を、折りにふれて読み返すわけだが、きのうはちょうど『ぼくがしまうま語をしゃべった頃』(新潮文庫)を読んでいた。冒頭にある「2×30×12のための2×12」に驚喜した。85年に「文芸」に載ったとても短い小説。昔これを読んだ時は、やっぱり「!」「?」という反応が主だったように思うが、今や、展開の一つ一つに「そうきたか」「わかるわかる」と余裕を持って読める、ことにする、ことができる。これはどうしてかというと、慣れた、ということなんだろうか。

●引用〜<まず、最初に、2×30×12の説明からしなきゃならない。こう言ったのは、娘の2×12です----ちなみに、娘の名前の2×12には、神秘的ないわれは何もありません。娘は、わたしの感化をうけてというか、わたしが娘の感化をうけてというか、とにかくそこらへんにあるもので自分を呼んでもらいたがるのです。私は娘のこの性質を利用して小説を書きましたが賞はもらえませんでした。残念です。「でも人生はそんなもんね」これも娘の名言です。>〜引用。

●ここを読み始めて、ふと思い出したのは、この間ニュース23に出ていた精神分裂病の人の主張だった。

ニュース23のその場面は、途中をちらっと見ただけだった。なんだこれはとぎょっとしたが、即座に、ああこれはニュース23の特集なんだ、と納得してしまう。彼らの生の喋りが、いかに不可思議でいかに論理を超えた言葉であっても、それが乗っかっているテレビの一定の意図と一定の形式を知っているから、もう恐ろしくはないのだ。それは私たちが、マスメディアのあり方というものを、まるでテレビリモコンと同じくらい完璧に体得しているということなのだ。

●「テレビ」や「ニュース23」や「新潮社」や「文庫本」という熟知したフォーマットにおいては、もはや真に恐るべき混乱は起こりえないのかもしれない。ここでどうしても考えてしまうのは、もしこの「2×30×12のための2×12」あるいは精神分裂病者の語りが、たとえばインターネットのどこかのページになんの説明もなしに載っていたらどう感じただろう、ということだ。●「うわさのベーコン」という小説について、高橋源一郎がある観点から最大の評価をしていたが、そこではつまりそういう混乱が起こりうるということなんじゃないだろうか。●ついでに、こういう混乱は、『表層批評宣言』で蓮實重彦が恋い焦がれているなにかと、たぶん関係があろう。でももうこのへんで。あとは貴方に引き継ぎます。

●本日の結論はというと、私はテレビをよく見る。


2001.5.13 -- さわやかな一日 --

●日曜の昼さがり。空はまだまだ晴れわたっている。駅前でも散歩するか。と、まれにみる大勢の人群れに遭遇した。狭い通りをまさに埋めつくすようにして駅に向かって進んでくる。黙々と足早に歩むこと、それがその集団の第一の特徴だ。そう、みんな会話や笑顔がない。長い行列は、むこうに見える大学からずっと続いていて、たしかに学生の風体をした人が多いのだが、年齢層は不思議にもっと幅広い。服装、髪型、鞄などを全体的な固まりにした印象としては、この初夏の青空気分から限りなく遠いといえばいいだろうか。そんなものに従うつもりなど毛頭ない!といった超然たる意気込みとも感じられる。さて、その人混みをかき分けかき分け、その大学の前まで行くと、「司法試験会場」の看板。なるほど。ちょうど終了した時刻だったのだ。●校門の前では、業者の人たちが試験対策商品の販促物を配っていたので、一部もらってきた。鼻水期のティッシュもらいで覚えた要領だ。それに載っていた模擬問題らしきもの。やくざの組員であるAとBが、シャレにならないことをしでかして組の事務所に捕らえられた。組長は、Aに「今すぐここでBを殺せ。さもないとお前も殺す」と脅した。そこで、AはBの首を絞めて殺そうとした。しかし、Bは抵抗してAの股間を蹴り上げ重傷を負わせた。さて、このときA・B・組長には、それぞれどんな罪があるか論ぜよ、とかなんとか。おもしろそうなので、模範解答や長い解説などをずっと読んでみると、妙に納得する。ふと、タランティーノの映画「レザボア・ドッグズ」の、仲間割れの撃ち合いを思い出したりする。あのメンバー各自の罪をそれぞれ論ぜよ、とか。しかし私も暇だ。しかもこの話に結論はない。●日誌はなるべく短く。


2001.5.11 -- 宇宙が、私が、存在しないのではなくて、なぜだか存在しているということ、そのことそのものが、どうしても不思議でしかたのない人に、ぜひ --

●しかし、ちゃんと書店にも行くのであって、きょうは『世界を肯定する哲学』(保坂和志・ちくま新書)を買う。ボールペンで線を引きながら一気読み。自分の本だとこういうことができるのだった。たまに図書館の本でもこういうことをする人がいて、ちょいと困る。●ちくま新書は装丁のセンスがいい。680円(+税)。近所の中華屋ならレバニラ定食あたりと同じ値段だが、それを食べるより長く楽しめる。安いもんだ。

●この本は、期待のとおり、近ごろの私がどうしても考えたがっていること、どうしても考えあぐねていることを、まさに考えている。おこがましくもそう思えてしまう。そうした共感を抱くのは、私ひとりではない。→リンク

●かなり大ざっぱにまとめると、この本は、人間は<言語+肉体>の両方を絡めることで世界を認知しているという前提、この種の思索においては当たりまえの前提かもしれないが、ともかくその前提を、実になめらかに納得させる。そのなめらかさは、私としては、これまでに読んだ認知系サイエンス書の総力戦を上回るほどだった。

●さてその前提を踏まえに踏まえた上で、保坂氏は、最後に来て、いわば「言語の不思議さ」よりも「肉体の不思議さ」の側につく。そうすることで、「生きることが歓びである」という「境地」に到達しようという戦略なのである。その「境地」は、この本の目的でもあるわけだが、そもそも哲学や科学がなぜ面白いのかといえば、つまるところ「いくら道は遠くとも、いつの日かそのクリアーな境地に到達したい、ということ以外に理由なんかないよ」と言い切っていいような境地だと思う。●しかし、だったら逆に、悪魔に誘われたつもりで、もっともっと「言語の不思議さ」の側につき、なにか異端の「歓び」を味わえる境地に到達できないのか、という気もするのであった。


2001.5.10 -- だったら診察も100円くらいでいいんじゃないか --

ブックオフに慣れると、本を正価で買う気がしなくなる。先日『ペンギン村に陽は落ちて』を探したところ、文庫本が200円。ラッキーと思いきや、同ハードカバーがなんと100円で発見さる。きょうはきょうで『日本近代文学の起源』をハードカバー100円の棚から入手。そばには『文学がこんなにわかっていいかしら』も二冊あった。こうなると、あらゆる本が100円以外ではもう高く思える。

鼻水だるさに襲われ、医者に行く。「風邪だと思うんですが」と言うと「そうですか」と疑いもせず薬を処方されておしまい。治ったから、まあいいけど。


2001.5.6 -- ほっといても積み重なったものだけは --

関川夏央谷口ジローの漫画『坊ちゃんの時代』を第三巻まで読んだ。それぞれ夏目漱石、森鴎外、石川啄木が主人公だ。漱石が「坊ちゃん」を書き始めたのは、自らの神経症をどうにかしようという目的が大きかったこと。自堕落な啄木は、小説も生活もどうにも制御できなかったけれど、短歌だけはほっといてもどんどん出来たらしいこと。こうした話は、たとえばインターネットで日記を綴ろうとか、掲示板に書き込もうとかいう者への、励ましと感じてもいいだろう。私たちだって、目的や意味が不明あるいは不純なまま、なにか書いてしまったり、なにも書けなかったり、ほっといたらそれが日記になっていたり、小説になっていなかったり、少しは満足したり全然できなかったり、そういう個人的な葛藤の中、ともかく結果的にはどんどん字句が積み重なっている。その事実だけは、まあ認めていいだろう。●この漫画が、高橋源一郎の刊行待ち遠しい「日本文学盛衰史」や、連載中の「官能小説家」とは、相互参考書もしくは姉妹書でありうることは、周知のことだろう。などと思っていたら、その「官能小説家」は、5月に入って「日本文学盛衰史」と名付けられた章が新たに始まり、そこにはなんと路上で短文を売る石川啄木が登場してきた。またまた楽しくなってきた!

●連休中、蓮實重彦の『表層批評宣言』も少し読んだ。なんというか、ものすごく大変なことが書かれている。それ以上の感想はなかなか書けない。短歌にもならない。一章ぐらいずつでいいから、集中力が持続している間に区切りのいいところまで休まず熟読すべし、ということは言える。


2001.5.3 -- でも、けっこう捨てがたい憲法9条とOS9 --

●アプリケーションがこんなに新しくなってるのに、古いOSのままじゃ無理が出てくるぜ。ということで憲法改正。いや、日本国憲法は世界平和のための呪文護符のようなものだから、絶対変えてはいけません。●なんて書くと、護憲派がバカみたいだから、もっとなにか違う言い方で、平和を生み出そう。

●戦前の日本を説明するある歴史観に、おおよそ賛同しつつ、どこか違和感をおぼえてしまう一面があって、その違和感をはからずも鮮やかに浮かび上がらせたのが、「自虐史観」という批判だったのだと私は思っている。もちろん、その「自虐史観」に対抗する歴史観にも、違和感をおぼえないわけではない。公平を期すために、その違和感をたとえば「自溺史観」と名付けよう。もちろん、二つの歴史観にそれぞれ共感を示す言葉も必要であって、そっちは仮に「自戒史観」「自尊史観」としてみようか。●つまり、歴史観Aについて、納得できる部分を「自戒史観」として認め、いくらなんでもちょっとあやしいぞ大丈夫かおいという一面があれば「自虐史観」として吟味する。それと逆の歴史観Bについても、納得できる部分は「自尊史観」と素直に認め、あやしい面だけを「自溺史観」として吟味する。こういう態度が良かろう。●そういう吟味ののちには、いずれ「歴史観」ではなく、歴史そのものが本当に成立するのだ、なんて言うと脳天気すぎるだろうか。


2001.4.28 -- 世間も連休 --

●『ゲーデル,エッシャー,バッハ』(ダグラス・ホフスタッター著・1985年日本語版)。衝撃と興奮、ユニバーサルスタジオジャパン級、とでも形容するしかない空前の読書を、今している気がする。乏しい知能がスクランブル発進。●あまりのトリッキーさに撹乱されるものの、この本の核心は、不完全性定理の実地体験であることが、だんだんわかってくる。つまりゲーデル登山。足取りも荷物も最初から重いけれど、確かに一歩ずつ登っていける。視界が晴れたところは、たかだか一合目、さりとて一合目。これまでは麓でうろうろしていただけだった。●たとえば小泉総理から入閣を進められるより、この本をまるごと堪能できるような、そういう者に私はなりたい。


2001.4.20 -- ネコタンは語ることができるか --

群像5月号で保坂和志明け方の猫」を読んだ。

●夢の中で猫になってしまい近所の路地や屋敷をうろうろする話。のんきで楽しい読書だ。四本の足をどんな順序で動かせばいいか悩んでいたら、いつのまにか塀にひとっ跳びしていたり。考えたことを口に出したら、全部ニャアとなってしまったり。

●猫の気持ちは人間にはわからない。もしも猫のような姿になったことを想像し、そのとき周囲がどのようであるのかを想像したとしても、それは猫になりかわったことにはならない。なぜなら、そのとき想像できるのは、猫の世界が人間にとってどのようであるのかにすぎず、猫の世界が猫にとってどのようであるのかとはまったく別問題だからだ。これはネーゲルの前提だった。(なんだか柄谷行人っぽい書き出し)

●これは、どんな夢をみたのかを伝えようとしても、それは、現実の私にとって夢の私がどのようであるかの説明にすぎず、けっして夢の私にとって夢の私がどのようであったかではない、という残念な宿命とも似ている。

●しかし、「明け方の猫」は、いわば、このできないはずのことに挑む。猫は世界をどのように受けとめどのように編みあげていくのか、つまり、猫ってどんなかんじなのかニャア、ニャアニャア、と考えてみる(フリをする)。

●読み終わって私は、下のように考え直そう、という気になった。

●たしかに、<猫の意識→私が想像→言語に変換>という試みは成功しない。それはもうしょうがない。しかし、そもそも、<私の意識→私が把握→言語に変換>という試みだって、いつも完全には成功していないではないか。

●さらに、夢ということが持ついろいろな可能性だ。まず、猫になったことがある人は少ないものの、夢をみたことがある人ならずいぶん多いという事実。そしてもう一つ注目したいこと。それは、「夢から醒める」という体験を、私たちがみな持っているということだ。<この意識から外に出る>ことのできない人間が、<この意識から外に出る>フリをしてみることができるとしたら、それはきっと「夢から醒める」という体験が元になっているんじゃないだろうか。

●以下次号。

●参考。


2001.4.19 -- 綿皺 --

●湾岸戦争に至ったイラク軍のクウェート侵攻。1990年。おぼろに憶えている。あのときイラクにいた西側の外国人は、まとめて人質にされたのだ。参考ページを見てみよう。フセインはさまざまな思惑の中、まずオーストリア人、ついでアメリカ人、それからソ連人、イギリス人にフランス人、といったぐあいに徐々に解放していく。ところが日本人の多くはなかなか出国できない。たしかにそんなことがあった。「日本、ドイツのどちらか1国と国連安保理のうち1国の計2国が対イラク武力不行使を保証すれば人質を全員解放する」、そんなややこしいことまでフセインは言ってたのか。しかしやがて日本人も全員が自由になる。その立て役者といえばアントニオ猪木、ではなく中曽根元首相だった。ともかくそう報道された。

●ところが今になってわかったことには、この日本人の解放、実は、重信房子ら日本赤軍のメンバーが水面下でフセインに働きかけたおかげで実現したというのです。きょうのニュース23がそう伝えていました。これについて重信房子の娘がインタビューを受け、母にとって日本人は敵ではなかった、だから日本人を傷つけないよう求めるのは当然だった、といったニュアンスの答え方をしていました。●これを聞いて私は「重信房子が日本人の解放を求めたのは何故か」という問いを立ててみました。自分と同じ菊のパスポートを所持しているというだけで、最強の仲間意識を疑いなく持ってしまうようなことは、国家や国民という概念にどこか鈍感でなければ、できないはずだ。--私はだいぶ鈍感だから、だいぶできる--。しかしその頃の日本赤軍は、「おまえは何ジンだ」と尋ねられた場合、どう答えることにしていたのだろう。「パレスチナ人」「イスラエル人」「日本人」これらの根拠は彼らにとって何だったのだろう。●いやもちろん、オーストリアの大統領が人質全員の解放ではなくオーストリア人の解放を求めたのは何故か、あるいは、中曽根や猪木が日本人の解放を求めたのも、ムハメドアリがアメリカ人の解放を求めたのも、同様に「何故だ」と問えばいいわけですが、こと重信房子だったら彼らとは少し違った理由であってもいいんじゃないか、とふと思ったわけです。

ジュリアン・バーンズの『10・1/2章で書かれた世界の歴史』という小説には、この出来事を思わせる話があります。ただ、バーンズの小説が面白いのは、上のような問いが導き出せるからというわけではなく、上のような問いを導き出すのが正当なのかどうか、そういう問いが導き出せるからだ、ということにしておこう。


2001.4.17 -- 膠学心 --

野矢茂樹は、ほんとうに、ありがたい人だ。『哲学・航海日誌』を読み返して、つくづくそう思った。ウィトゲンシュタインという沼地を一緒に歩き、ぬかるみに足を取られつつも、その深い底の底をはっきり見極めたうえで、ついには外に連れ出して沼地全体を眺めさせてくれる。

●その流れで、『無限論の教室』(同著者)も再び開く。この書は一貫して、大学の講義でいくぶんキャラ立ちした先生と男女二人の生徒の会話だけが週を追って進んでいくのを、やや戯画的に記述した形をしている。作者とは別に、作中人物を話の中心に置き、語り手もその一人である男子学生「ぼく」がつとめるという構図である。ときおり教室の外の風景描写や、ちょっと皮肉なつぶやきも交じる。だからこれは小説のように読める。というか、あきらかに、意識してその形式を真似たのだろう。では、本来の小説とこの数学入門書との違いは何だろう。両者が文芸誌の同じ号に同じ活字で並んでいたならば、すぐに区別はつくだろうか。仮に小説が形式によってしか定義されないのであれば、『無限論の教室』を小説として分類するのもありだろうか。●とはいえ、結局のところは「内容は学術、形式は小説」で一目瞭然だとも言えるのであって、これとは全く逆の、「内容からいっても形式からいっても、はたして文学書なのか研究書なのか、最後まで本当に見当がつかない」、そんな書物があったなら、と近ごろ私は夢想する。

●たぶん、「勉強すること」と「読書すること」を結んでほどけなくなったような世界に、格別のよろこびを探そうとしているのだろう。研究のような小説。小説のような研究。物語のような説明。説明のような物語。工学のような文学。文学のような工学。いろいろ思いを巡らせていたところ、こんな本が工作舎から再刊されていた。『蜜蜂の生活』。著者はメーテルリンク、というと聞いた憶えがあるのは、童話「青い鳥」を書いた人だから。カバーの折り返しにこうある。「古代ギリシャ以来の蜜蜂に関する文献を探索するメーテルリンクは、毎日、蜜蜂の巣にかよいつづける有能な養蜂家でもあった。その深遠な観察眼、つきることのない想像力と文学的才能により、社会的昆虫の生態を克明に、きらびやかに描きだすことになった」

●春、しかし、勉強と読書へのにわかな情熱は消失するのも早い。だったら、小谷野敦バカのための読書術』。こんどは「もてないやつ」ではなく「できないやつ」が、この世をどう渡っていけばよいかの指南書。●山田詠美が「ぼくは勉強ができない」という題名の小説を書いていたのをふと思い出す。僕は「できない」けど「もてる」からいいんだよ、といったことだったように記憶する。曖昧。脈絡なし。●しかしまたまたふと思い出した。トマス・ピンチョンの短編集が『スロー・ラーナー』というタイトルだったこと。スローラーナーとは、勉強のスローなやつ、ゆっくりしかわかっていけないやつ、と訳してもいいんじゃないだろうか。まあ逆にいえば、ゆっくりならわかるということか。しかし、ゆっくりわかるというのは、実はなかなか維持しにくい体勢なのである。にかわな情熱。


2001.4.14 -- とはいえ、読解によってしか深まらないものもある --

●インターネット上の掲示板で書き込みをやりとりする人たちと実際に顔を合わせて飲み食いしながら会話した。初対面の人も何人かいて、その場合は、掲示板を読んでぎこちなく理解していたその人固有の言葉が、こんどは表情や間合いを伴った、その人固有の意味の質感つまりは思考の質感として、やっと鮮やかに立ち上がってくる。●他人の言葉は外国語である。外国語会話は、書かれたテキストをこつこつ読解したあと、ネイティブが話すのをそのまま聞き取らねばならないハメになると、突如カンドコロが把握できたりする。そうするとやっと、相互に反応しあう行為として、コミュニケーションツールとして、どうにか使えるようになる。●インターネット上の掲示板で書き込みをやりとりする人たちと実際に顔を合わせて飲み食いしながら会話することを、ふつう「オフ会」という。しかし、「オフ会」は、私にはまだ外国だ。


2001.4.13 -- では今いちばん切実な本は? --

●「旅行ですか」と話しかける演技が難しい理由。にもかかわらず、それが難しいという事実に気付くことができない理由。平田オリザが指摘していたので、なんだか唐突ですが、リンク。●というのも、こういう切実な洞察に比べたら、「どの総理なら日本経済が再生するか」なんて問題は、つくづく切実さを感じないのだ。ニュース23で、亀井静香「そりゃ筑紫さんは高給取りだからそんなことを言うんですよ」、筑紫哲也「久米さんにもそんなことを言ってましたね、でもそんなことを言うと、お屋敷が広い人はどうだとかいう話をしないといけなくなりますよ(だからこういう話はやめましょう)」、麻生太郎は苦笑い。この手の問題ならチャンネルを変えないくらいの切実さがある。

●評判だった『朗読者』も読んだ。「ああ、その小説、私もハマりましたよ。読後感が深いですね」とかなんとか、たとえば異動した先の歓迎会などでさらっと口にした時、へえこの人なかなかセンスいいかも、と聞かないふりで黙って聞いている同僚が一人くらいはいるだろう、頼むからいてくれ、というような本だ。ただこの場合私にとっては、会社生活を無難にしのぐという問題に比べて、『朗読者』そのものは、そこまで切実ではなかったかも、だ。

●あと、きょうは表参道の美術商店ナディフで『小沢剛世界の歩き方』という本を見つけ、これまた面白すぎの適確なガイドでそうとう切実に買いなので、リンク。


2001.4.10 -- 闇市とヤフオクが同じように懐かしく --

●『現代風俗史年表1945〜2000』(世相風俗観察会編・河手書房新社)というのを借りた。暇つぶしに2000年から逆行する。まずは自分が東京に来てからの数年。早いものだ。続いてそれまで郷里で会社勤めなどしていた長い時期。ああいろいろあった。さらには大学や高校のころ。懐かしすぎ。ついには中学、小学時代・・・。思い出にはキリがない。気がつくと、重たいこの本も残り少なくなっていた。●つまり、戦争が終わってから私が生まれるまでのページに比べたら、私が生まれてから今日までのページのほうが、はるかに分厚いという事実である。これまで戦争なんて遠い昔の話だとずっと思ってきた。しかし、なんのことはない、私自身がもはや遠い昔の人間なのだった。あるいは逆に、私の高校時代がつい最近のことのように感じるごとく、戦争もまたつい最近の話なのだろうか。●戦争は昔々20世紀の半ばに起こりました。しかし、それはむしろ、20世紀をたくさん生きた私の時代の記憶なのです。


2001.4.8 -- ロボットには難しいだろう --

●似たような自転車がぎっしり並んでいる。自分が乗ってきたのはどれだ。そばまで近づいて目を凝らさなくとも、スムーズに見分けがつく。これはなかなかの芸当。むかし学校で全員が同じシューズを脱ぎ捨てた中に、自分のをすぐ探せたというのも同じだ。履いてみて「あ、これ違う」という身体の判断もあった。●こういう場合、人間は、無自覚に記憶していた色や形などを、同じく無自覚に引き出しているのだと思う。サドルや車輪についた細かい汚れとかも、けっこうきちんと把握している。「明るい銀色でハンドルに5センチほどの切り傷がある」といった言葉による記録とは別だ。だから、自分の自転車を見たことのない人に取ってきてもらおうとして、どんな自転車かを言葉で正確に伝えようとしたら、どう描写していいか困ってしまう。●こういう体験を思い起こすと、やっぱり人間の頭には「言語が関与するはたらき」とは別に「言語が関与しないはたらき」というものが存在するのだと考えたくなる。しかもその二つの「はたらき」は、日常の行動としてはほとんど区別せず営まれているようだ。●この話、きっと、いろいろ発展しそう。またいずれ。


2001.4.6 -- ネタばれなし保証 --

●近年の本格ミステリーというと必ず名のあがる「十角館の殺人」。どうにも気になって読んでみた。噂に聞く大トリックに、私もまた天を仰ぐ。なるほど、こういう手口だったかぁ。87年、綾辻行人のデビュー作だ。「そして誰もいなくなった」に捧げた作品のようだが、その巧妙さは「十角館」の方が明らかに凌ぐ。それどころか、「アクロイド殺し」や、かの「ロートレック荘事件」(筒井康隆)に匹敵するビックリ体験だった。あと、「不連続殺人事件」(坂口安吾)をちょいと思い出したり。●こうした煽り文句を聞きかじると、未読の人は「ああどんなんだ」とヤキモキするだろう。私も同様にヤキモキし、読んだあとはやっぱり同様にこう他人をヤキモキさせたくなる。いや待てよ、ミステリー好きならとっくに全部ごぞんじか。●子供のころは、ホームズや明智小五郎をから始まって、「Yの悲劇」「黄色い部屋の謎」「グリーン家殺人事件」など古典的な推理小説をけっこう読んだ。大人になってもそのまま読み続けるのがミステリーファンなのだろう。私はずっと縁遠かったのに、近ごろまた謎解きへの熱が湧きだしたかっこうだ。ていうか、私の場合、この歳になってそれを読むかいっていう本が、ミステリーにかぎらず多すぎる。


2001.4.4 -- 新入社員に勧めるならどっち --

●『働くことがイヤな人のための本』。そそるタイトルだ。著者は中島義道先生。やっぱりか。しかし、amazon.co.jpのレビューを見ると、「この本を買った人はこんな本も買っています」として、『なぜか、「仕事がうまくいく人」の習慣―世界中のビジネスマンが学んだ成功の法則』なんてのが紹介されている。ホントかね。いや、でもこの二冊がカウンターに仲良く並んでいるのを、私は新宿南口の紀伊国屋書店で目撃した。参考にするならどっちか一冊だけにしたほうがいいと思うけど。


2001.4.3 -- 人のフリ見てわがフリなおすフリ --

●ポカポカ陽気に、急な雨降り。渋谷、原宿あたりを散歩した。人出がずいぶん多い。こぞって春の装いだ。ネットの窓から世間を覗くばかりで、現在進行形の人間とあまり関わらないような態度をとっていると、今どきの季節こんな恰好で大丈夫なのか、そういうことがわからなくなってしまいますよ。クールなウェブ日記と、あまりクールじゃない服装の相関は?●誤った言葉づかい。それもまた、誤った着こなしのごときメカニズムで生じる。とはいえ、おかしな組み合わせをしてみたり、古くさいものを引っ張りだしたりすることが、ときに新しいファッションへと転じることもあるはずだ。●この春、流行の言葉は何ですか。ユニクロで買えますか。


2001.4.1 -- ここが仮に「日誌および更新」の偽頁であろうとも --

●マルコ・ポーロの『東方見聞録』が、本来どのように記述されていたのか、もはや誰も知りえない。原本は完全に失われてしまった。13世紀の末、ジェノバの牢獄でマルコからある作家が聞き書きしたというこの奇書、そもそも何語で書き留められたのかすら確証がない。おもしろく、読みやすく、さんざん脚色して書き写された『東方見聞録』ばかりが、ヨーロッパ各国に伝わって読まれてきたらしい。

●では現代の書物はどうなる運命だろう。図書館は永遠に有効だろうか。あるいは青空文庫の働きに期待がかかるのか。デジタル化された書物の利点は、本が朽ち果てないところ、そして写本をしても間違いが生じないところにある。そうなれば、原本と写本の区別はいらない。しかし逆に、もし故意に手を加えた偽テキストが同じようにデジタル化されてしまった場合、妙なことになる。いやその時は、真テキストであれ、偽テキストであれ、おもしろい方が勝ち残るのだろうか。紙本のない電子出版であれば、なおさらかもしれない。

●700年ほど先の未来。文学史の時間には、赤瀬川漱石「我輩は猫の友だちである」や、オーガイ・モリ「官能小説家」を暗記させられないともかぎらない。●いやいや700年を待たずとも、たとえば20世紀の奇書『ジョン・レノン対火星人』(高橋源一郎・角川書店)などは、すでにして現存しない。過激だ奇矯だ純粋だ、そうした評判ばかりが囁かれる。ああいったいどんな内容だったのだろう。こうなったら、現物を所持する人よ、どうかデジタル写本を残してください。それが可能だというならば、そう、さらにおもしろく脚色した『ジョン・レノン対火星人』を、どんどん公開してください。


これ以前