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高橋源一郎『日本文学盛衰史』
読書しつつ感想しつつ(35)
 普請中
-----ネタバレあり。注意。

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ラップで暮らした我らが先祖

『日本文学盛衰史』は終盤に入ると、
時として作者の筆は滑って転んで、
文と話もそれにまかせて出来つつ壊れ、壊れつつ出来、
それを厭わず小説が進む、
そうした(     )が目立つようになる。

1 形式
2 内容
3 エクリチュール

私は、この場合は、3が当てはまると思う。

君が代は千代に八千代に
 さざれ文の巌となりてコケの蒸すまで

文と話のスパークする連鎖反応。

この章ではついにタカハシさんの日常風景も登場する。
「官能小説家」の原型ここに在り?

この章は私の計算だと、群像2000年5月号。

「君が代は千代に八千代に」の連載(文学界)が、
年明けからすでに始まっていたと記憶する。

高橋源一郎文学に対する戸惑いの声が、
読者の間に上がってきたのは、この頃からではないか。
『あ・だ・る・と』とAV仕事、スキャンダラスにみえた私事、
それらの衝撃もまだ完全に冷めてはいない折り。

その煽りか、かの掲示板も一度壊れた。

エクリチュールについて、思いつくままに。

仮に、
何で書くか=形式、 何を書くか=内容、
という図式だとしたら、
内容でも形式でもないエクリチュールとは、
平たく言って、どういうものだろう。

読み書きの直接の対象である
文や言葉そのものの感じのこと。
書いている文の触感、読んでいる文の触感。
(手ざわり、目ざわり?、筆ざわり)
そのように受け取ってはどうだろう。

形式や内容なら、
たとえ作品を見せずとも、
コンセプトだけで説明できるかもしれない。
コンセプトだけで伝達できるかもしれない。

しかし、エクリチュールは、
具体的な作品・文・言葉としてしか存在しない。

しかも、
なんらかの作品・文・言葉を、
書いてみて、読んでみて、はじめて生成する、そこだけに生成する。
つまりエクリチュールは現在形。
未来形のエクリチュールというのはありえない。
過去形のエクリチュールもありえない。
かも。

高橋源一郎のような小説を初めて知って、
「なんだこりゃ、どうやって読んだらいいんだ」と思っている人に、
おじさんからアドバイス。
一行一行、丁寧に読むのがコツです。

「たくさんのまっすぐな心」
この結論は、なにかの実にうまい説明であるが、
なにかそのものではない。

なにかそのものは、この場合、
「誰からも忘れられた明治の小説」の、
作品・文・言葉そのものにある。
あるいは、この章そのものにある。

そうした明治の小説を、私がひもとけば、きっと
「たくさんのまっすぐな心」が、
さまざまなエクリチュールによって
いやというほど反復されるのだろう。
しかし、それは現在形で反復されるだろう。

エクリチュールは、おフランス語で、
たぶん「書き言葉」とかいう意味だったはず。
(だから語義矛盾なのだが)
「喋りのエクリチュール」というものを考えると、
それが「ラップ」?


Junky
2001.6.18


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