沢木耕太郎『深夜特急』は誰の記憶か



(1)

沢木耕太郎がユーラシア横断の旅を記録した『深夜特急』。その第一便を読み返した。香港の熱気がよみがえる。インドの臭気がよみがえる。ここに刻まれているのは、いったい誰の記憶なのだろう。

奥付けを見ると、この旅行記は86年5月に刊行されている。やはりあの時か。私は、やっと初めて海外旅行を経験したのがそのころなのだ。当時外国へ行くというのはまだ珍しいイベントで、会社勤めの身にはなおさらだった。そんなところに『深夜特急』は、強烈な喝采と羨望をもって迎えられた。このベストセラーのことを、私はおそらく同僚から聞いたはずだ。海外へアジアへと闇雲に染まりつつある仲間が同じ会社に二人ばかりいたのだ。ただ、それをちゃんと読んだのがいつのことだったか、実は思い出せずにいる。ともあれ、その同僚一人とともに、公休をためた破格の連続休暇8日間を捻出し、逃げるように踊るように飛び立って行った先が、香港とマカオだった。87年1月。 私としては二度目の海外だ。

26歳の沢木耕太郎は、インドの首都デリーからロンドンまですべて陸路で、しかも乗合バスのみで横断できるかという課題に挑む。ふとした戯言を、知人たちが「そんな移動は無理だ」とそろって否定するので、「だったら賭けるか」ということになって弾みがついた。それが、この酔狂な放浪が始まったいきさつだ。70年代の半ば。ちょうど沢木耕太郎の名が世に売れ出した時期、あえてライターの仕事をすべて切り捨てた出発だったという。『深夜特急』は、その記録を後にまとめたもので、単行本が第三巻(第三便)まで出ている。

第一便の冒頭では、横断ルートの出発点デリーの倦怠がまず語られる。つまり、インドできょうも一日なにもすることがない、とつぶやくやつである。そのスタートに辿りつくまでが永遠のように長かったのだ。日本からデリーへ直行する計画は、いきなり気が変わって途中の香港に降り立ってしまう。そこからようやくバンコクへ飛ぶが、今度は鉄道でマレー半島を南下。目的も束縛もないことの自覚が、無為にしてただうつろうばかりの月日をどこまでも引きずっていった。とりわけ最初に遭遇した香港とマカオは、異邦の人と街の深みにはまりこむ興奮と哀愁が折り重なり、沢木の旅のその後に決定的な影響を与える。

今回『深夜特急』を読んだ時の香港マカオのイメージは、私が自分で見てきた香港マカオのイメージにぴったり重なる。それには理由がある。あのとき同僚と二人、宿を探そうと九龍にある高層雑居ビル「チョンキンマンション」に入れば、沢木が感じたと書くゲストハウスのいかがわしさを、我々も感じないわけにはいかなかったし、香港島へ渡ろうとスターフェリーに乗れば、沢木が吹かれたと書く海の風に、我々も吹かれないわけにはいかなかったのだから。油麻地あたりの道路をずんずん歩いていけば、沢木が「廟街」という暗く怪しげな一角に抜け出て、大道芸や鳥占いに興奮したと書いた情景が、そのまま我々の目の前にも広がっていかないわけにはいかなかったのだから。

『深夜特急』との共振。 香港とマカオを忙しく歩く私と同僚には、『深夜特急』にある香港マカオの記述が、すっかり頭に入っている。そのことは当然としても、それを踏まえて我々は、どうしても沢木のあの足跡をたどり、沢木のその行為をなぞり、そして沢木のこの心情に到達する。そのような旅行をどんどん繰り返すことになっていったはずだ。たとえばマカオにおいて我々は、実に、沢木が泊まったと書くベラビスタホテルをなぜだか見つけだして泊まり、同じテラスで同じ海にかかる同じ橋を眺めながら食事を取る。またマカオといえばカジノであるが、沢木がからくりをつかんだと書くサイコロゲーム「大小」に我々も挑み、沢木と同じく「ゾロ目」に命運を委ねるのである。

もちろん、好奇と冒険の心において『深夜特急』に負けまいと努力もした。たとえば、我々はベラビスタホテルのオーナー婦人と会見するというちょっとした快挙を成し遂げた。彼女はポルトガル人に嫁いだ日本人だったのだ。沢木耕太郎もそこまでは知らなかったろう。もちろん彼女には「日本で今売れている旅行記があるんです。その著者がこのホテルに泊まったらしく、本の中でここの良さを誉めていましたよ」と伝えておいた。沢木の泊まった部屋にゴキブリが出たというくだりは省いた。フロントにいたのがまたよく喋る男で、さっき会ったばかりのオーナー夫妻について、あまりよくない評判を語ったかと思えば、夜も更けてから「私はカジノで負けて工場を失ったのです」とウソかホントか分からない身の上談も飛び出す。レストランで給仕をしていた若者も加わってきて、最後は一緒にディスコに繰り出した。若者の女友達も3人ばかりやってきたが、踊るわけでもなし、英語が全然わからずさっぱり会話もなかった。ともあれ、我々もそれなりに濃縮された一ページを『深夜特急』に付け加えたのだった。

う〜む懐かしい。ちょっと昔の日記でも引っ張り出してみるか。いや、あのころは旅行記をつける習慣がなかったのだった。そもそも大忙しの8日間だったし。写真すら一枚もない。だからあの旅行はどこにも記録がないのだ。意外だ。それでも15年近くたった今も、ああしたエピソードは鮮明に憶えている。このたび『深夜特急』を読み返し、あの時の気分が見境なくよみがえった。

デリーに私が行ったのは、香港マカオに行った2年後だ。ちょうど会社を辞めたから、それまでより十分長く感じられる旅行だった。こうして月単位で数えられるアジアが、ぽつりぽつりと重なった。

しかし香港の後、もう『深夜特急』は意識していなかったと思う。だから、たとえば私がデリー行きのリュックに入れていった本の数が、沢木耕太郎と同じ「3」だったなんてことは、今回『深夜特急』を読んで初めて気づいたことだ。だいたい、この第一便の冒頭がデリーから始まっていたことすら、すっかり忘れていたのだから。それなのにデリー、香港、バンコク、マレー半島と読み進むにつれ、しだいに私の80年代、90年代の旅行とオーバーラップしてくるのは、いったいどうしたわけだろう。

路地の雰囲気や屋台の味ばかりではない。デリーで急ぎの移動に三輪タクシーを使ったら、途中でなぜか燃料が切れ、焦って怒ったものの最後には運転手と妙に和んでしまったとか、さほど関心のなかった金子光晴をシンガポールで初めて読むことになり、金子光晴が同じような土地を旅していることを知って感じいったとか、沢木耕太郎の旅のほうが、私の旅をなぞっているのではないかと指摘したくなるエピソードが、ぽんぽん飛び出してくる。薄汚れた部屋には隣のビルが迫っていて、そこに住んでいる香港の人の暮らしを窓からかいま見た、というチョンキンマンションのくだりも、まぎれもなく私のあの日の記録ではないか。しかしこれは香港の章だ。でも私には香港の現場で「おお沢木耕太郎と一緒だ」と喜んだ記憶がない。「ていうかおまえこの本ちゃんと読んだの?」という素朴な疑惑。

深夜特急を読む。アジアを旅行する。深夜特急を回想する。アジア旅行を回想する。深夜特急を読み返す。アジアを旅行しなおす。アジア旅行を記録する。アジア旅行を回想しなおす。深夜特急を読んだ思い出を回想する。アジア旅行を記録した思い出を回想する。私の旅行は深夜特急に引っ張られた。旅行の回想までも深夜特急に引っ張られた。そしてどこからか順序が混乱してきた。



(2)

<何カ月も旅をしようというのに、およそ綿密な計画というものがない。デリーからロンドンまでのルートも決まっていなければ、それに必要な日数の見当もつかない。ほとんど唯一の具体的な方針は、どにかくデリーに行こう、行けばなんとかなるだろう、という程度のものにすぎないのだ。>

<ほんのちょっぴり本音を吐けば、人のためにもならず、学問の進歩に役立つわけでもなく、真実をきわめることもなく、記録を作るたけのものでもなく、血湧き肉踊る冒険大活劇でもなく、まるで何の意味もなく、誰にでも可能で、しかし、およそ酔狂な奴でなくてはしそうにないことを、やりたかったのだ。もしかしたら、私は「真剣に酔狂なことをする」という甚だしい矛盾を犯したかったのかもしれない。>

<今日一日、予定は一切なかった。せねばならぬ仕事もなければ、人に合う約束もない。すべてが自由だった。そのことは妙に手応えのない頼りなさを感じさせなくもなかったが、それ以上に、自分が縛られている何かから解き放たれていくという快感の方が強かった。今日だけでなく、これから毎日、朝起きれば、さてこれからどうしよう、と考えて決めることができるのだ。それだけでも旅に出てきた甲斐があるように思えた。>

上の文章は『深夜特急』第一便からの引用だ。貴方がいわゆるバックパッカーなら、なんかこんなかんじのことを、自分のノートにいく度か書きとめた覚えがあるのではないか。ここから仮説できることは何だろう。

まず考えられるのは、長期格安自立型でアジアあたりをぶらぶらしていれば、誰しもこうした述懐にたどり着くものなのだ、ということだ。

たしか言語哲学の本に「必然的真理」「分析的真理」とかいうのがあった。厳密にはどうあれ、印象としてはそれに近い。たとえば「コーヒーが入ったカップには、コーヒーが入っている」とか、「日本のモリ総理大臣は、総理大臣である」とか、そりゃあたりまえだろいちいち言うなよ、といった真理のことだ。

私たちはそれなりに広い地球から、つい同じ国の同じ都市を訪ねてしまい、同じ観光地を巡ってしまう。各国の人々や街に出会ってつい同じ感想を抱き、あまつさえ同じ感想を綴ってしまったりする。宿のこと食のこと金のこと、なんでもずらずら記録したりもする。しかしこういうことは、「コーヒーが入ったカップには、コーヒーが入っている」のと同じくらい、そうならざるをえないようにしてそうなるのだ。『深夜特急』の真理が必然的真理というものならば、私たちの旅行や私たちの旅行記だって『深夜特急』風になるのは仕方のないことである。『深夜特急』が『深夜特急』風であるのと同様に仕方のないことである。

たいして計画も立てず日本を飛び出す。インドの安宿できょうも一日することがない。これは旅の必然か偶然か。そう、必然なのだ。旅の感想から旅の論理を抽出してみれば、見事にみな同じ。つまりその感想は必然的真理、分析的真理にすぎないのだ。



(3)

逆に、もうひとつの仮説として、柄谷行人みたいな断定をしてみる。つまり、そもそも「日本現代旅行の起源」とでもいうべきものが、明確に特定できるにもかかわらず、私たちはそれを忘れてしまい、私たちの旅行の実際と旅行の感想が永遠の昔からこうだったように錯覚している、と。

その起源は、たとえば藤原新也『印度放浪』だったと考えてもよい。小田実『何でもみてやろう』だったと考えてもよい。小林紀晴『アジアン・ジャパニーズ』とか、蔵前仁一『沈没日記』とか、猿岩石『猿岩石日記』とか、もっと最近になって決定的なことが起こったと想定してもよい。『深夜特急』をこれらに並ぶ有力候補として想定するのは、常識的な線だ。

すなわち、私たちは『深夜特急』あるいは『深夜特急』の反復を読んだり聞いたりした事実とその影響を忘れてしまっているがゆえに、むしろ私たちの旅行は『深夜特急』に恐ろしく似てしまうということである。

<私は「真剣に酔狂なことをする」という甚だしい矛盾を犯したかった>
<すべてが自由だった。そのことは妙に手応えのない頼りなさを感じさせなくもなかったが、それ以上に、自分が縛られている何かから解き放たれていくという快感の方が強かった>

まるで学校や会社への路のように、リュックを背負って飛行機に乗り、たとえばバンコクで降りてカオサンに宿を取り、屋台のラーメンを食べている。そして、そのような旅があたかも若者の(ときには中年の)自然であるかのように、上のような一行を日記に綴るのが自然であるかのように振る舞っている。

しかし、上のような感想を旅の日記に書く人は、沢木耕太郎の前には誰ひとり存在しなかったのだと仮定してみるわけである。それは絶対にありえないとも言えない。



(4)

チョンキンマンションのこと。スターフェリーのこと。
一度書かれてしまったものを同じように書くことは、
どのような意味をもたらすのだろう。

古典のメロディ。伝説のストーリー。黄金のルート。
どう奏でるか。どう語るか。どう歩くか。
そういう勝負だけは残されているのか。
そこから抜け出せない事実を知ること。
あるいは抜け出せる奇跡に出会うこと。

日本人が日本人宿にたどり着くように、
いつか私もどこかにはたどり着くだろうか。

旅は、誰かの旅をなぞることじゃないんだという気概と、
旅は、誰かの旅をなぞるしかできないんだという諦観と。
その中間の、雑多な路地あたりを彷徨うために、
また旅に出たい。



(5)

さて、『深夜特急』第一便がたどるバンコクやマレー半島の方は、私は96、7年になって初めて訪れた。

タイのある島に滞在していた時、若い旅行者と『深夜特急』の話になった。沢木耕太郎がゴールに到着したあかつきにはロンドンの郵便局から<ワレ成功セリ>と日本に電報を打つことになってましたよね。横断は成功するんですよね。でも賭けはどうなったんでしたっけ。なんかうまくいかなかったような...。一同首をひねった。私は第一便しか読んでないから何も言えない。どうやら賭けにちょっとしたトリックがあるようだ。ああ何だろう。こんなところで泳いでいる場合じゃない。一刻も早く日本に帰って本を開きたい。...ともあれ、今の若い人にも『深夜特急』はバイブルの威光ありと知った。また今の若い人も最終巻まではちゃんと読んでいないんだと知った。

『深夜特急』結末の謎。知りたくなったかたは、第一便(香港・マカオ・マレー半島・シンガポール)、第二便(インド・シルクロード)、第三便(トルコ・ギリシャ・南ヨーロッパ・終結)と読書の旅をしてください。あるいは、デリーから実際に旅行に出てみるのもいいですね。計画どおりバスだけでロンドンに到達し電報を打てたかどうか、そのとき明らかになるでしょう。


Junky
2001.3.27

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著作=junky@迷宮旅行社http://www.mayq.net