著作=Junky@迷宮旅行社(www.MayQ.net)
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▼日誌および更新

迷宮旅行社・目次

これ以後


2001.3.30 -- まいどおおきにUSJ --

●このさい重厚長大とかは大阪湾に沈めてしまうとして、さあみんな、USJでお金をじゃんじゃん使い、景気回復だ。ハリウッドのごとく楽天的に。それを見ている太陽の塔。人類の進歩と調和でんがな。


2001.3.29 -- 次は『ゲンイチロウ・ブック』ぜひ --

●「認識の悦び」。これは高橋源一郎が『舞踏会へ向かう三人の農夫』の魅力を述べたキイワードだ。パワーズ・ブック(柴田元幸編)という解説本の冒頭にあった。あの本を読んだときの興奮をあまりに見事にまとめている。タイトルは<「正しさ」の前線を下げよ>。現代小説を近代小説から決定的に分かつのは、正しさの基準がもはや一つに定まらないことを踏まえているかどうかだ、みたいな趣旨。短い批評だが具体的できわめて説得力があった。あの分厚い『舞踏会...』を読もうかどうしようか迷っている人。まずこの『パワーズ・ブック』の冒頭を読んではどうだろう。そうすればもう面白さを信じるしかない!

●それにしても、このパワーズの解説といい、昨日ふれた群像での対談といい、こういう切れ味鋭くかつ本好きに超フレンドリーな芸当は、やっぱり高橋源一郎しかない。だったら、どうしてもお願いしたくなることは、自作小説の分析・批評だ。「いやそんなの要らないんだ、作家本人は小説の中にそれもすべて書き込んだのだから」という態度をとっていることは、知っているけどサ。

●ところで「認識の悦び」というなら、『マルコ・ポーロは本当に中国へ行ったのか』のわくわく感も、似たような感じだろうか。下に書いたとおり研究論文なのだが、時おり「マルコについてそう考えた僕は、冷蔵庫の缶ビールを飲み、歯をみがいて眠った」とかなんとか書き足しておけば、どうだろう、これまた認識の悦びを目指した小説にみえる(かも)。認識の悦び、それは「熊の敷石」にも感じた。


2001.3.28 -- モード切り替えができれば、その小説は使用できる --

堀江敏幸熊の敷石」=芥川賞=を読んでみました。これ、なんというか、調べもの、ですね。おおげさにいえば、研究モード。モードっていうのもヘンですが、小説には病気モードとか恋愛モードが多いとした場合の話です。新しい歴史教科書なんかだとやっぱり政治モードということになりますか。なお「熊の敷石」はフランスの田舎を訪ねる話でもありますから、旅行モードとも言えます。●斎藤美奈子は、今どき芥川賞なんて村おこしぐらいの役には立つんだね!と週刊朝日の書評で揶揄していましたが、それで連想してしまうのは、地方の町に行くと必ずや郷土史家と呼ばれるような人がいることで、端からみたらなんでそんなことに拘るんだというような些末な人物や事件を、ずっと追いかけたりしてます。しかし、そういうことのちょっと隠微なおもしろさこそ、実はこの、知性と教養おフランス系研究モード小説を書いていくおもしろさと通底しているんじゃないか、てなことを思いました。ジュリアンバーンズの短編集『海峡を越えて』が読みかけですが、その点、どこか符号するような気がしたり。●なお、これから読もうとしているのは『マルコ・ポーロは本当に中国へ行ったのか』という本です。これなんか、すっかり研究モードかつ旅行モードみたいだから、きっとおもしろい小説だ・・・と思いきや、これは研究論文なのでした。いや、だったらむしろ、研究論文を小説モードで読んでみよう。●高橋源一郎が奥泉光との対談=群像2月号=で、「小説は内容ではなく形式の勝負だ」という立場をいっそう鮮明にしているのが、とても興味深く、それはここで思いついたモードということにどうかしたら結びつくかな、などと考えていますが、それはまた明晩。(てなことを調子よく書きましたが、もう一回読んだら実は、高橋源一郎が表明していたのは、形式や内容はどうでもよくて、どんなエクリチュールがありえるのかという立場でした。こりゃまた全然違ってましたね。失礼失礼。訂正。陳謝)


2001.3.27 -- さまよう旅行、さまよう読書 --

●しかし、長い旅を好む人は多いが、長い頁を好む人は少ない。


2001.3.22 -- かなり無茶して見に行く観光地がひとつ減った安堵感 --

●「物価や地価が高くならないと日本は再生しないのです」と説教されれば、「ふざけるな」と怒りだす人がいる。しかし「バーミヤンの石仏破壊は許されない」という説教となると、「どこが悪いんだ」とか「べつにいいんじゃないの」とまで言う人は少ない。

●イスラムを純粋に信仰し実践する人ならば、「偶像、ましてや異教の偶像など、悪しき存在だ」と考えることは避けられない、ということになっているのではないか。それは、数学を信じる人が「三角形に辺が四つ?そりゃ絶対おかしい」と主張するくらい必然的なことだろう。しかし、だからといって「問答無用!壊せ」と叫ぶと「おまえは原理主義だ」と嫌われる。でも、原理主義でない宗教なんて、それこそ矛盾してるんじゃないか、といつも思う。「神は実在します。イエスは奇跡を起こしました」と宣言しつつ、内心では「神?たとえ話だよ」と笑っていたり、「イエスの奇跡は私には事実ですが、あなたには事実ではないなら、どちらも正しい、強制はしません」と寛容になったりすることは、現実の社会を運営するにはとても有益なのだが、そういう曖昧さが、こと信仰の名に値するとは認め難い。●もちろん、タリバーン政権なんてアフガニスタンの勢力として相当悪い部類に入るみたいだし、だいたい、あのバーミヤンの破壊が純粋な信仰心に依るわけはなく、やぶれかぶれな政治心に依るものだということくらい、国際政治に詳しくない私でも薄々わかるから、今タリバーンを賞賛しようというのではない。ただ、「教理教義は絶対だ」「信仰は本気であるべきだ」「偶像崇拝は悪だ」「イスラム文明が正しい」という表向きの理屈を覆すために、「文化遺産は絶対だ」「社会は寛容であるべきだ」「仏像破壊は悪だ」「欧米文明が正しい」という表向きの理屈を持ってきても、嘘臭さはいい勝負だという気がするのだ。●ところで、こんな私にも、「ともあれ壊すことはないだろ」という下町素朴な感覚あるいは信仰は存在する。同時に「原則として他人に迷惑はかけないほうがいい。迷惑はかけないとしても、他人(それが平山郁夫であれユネスコであれ健四郎であれ)がとても嫌がることは、なるべくやらないほうがいい」という主義あるいは信仰は存在する。あと、タリバーンが「これからは一切人は殺しません。でも過激な兵隊を抑えきれないので、しばらく仏像だけ狙いますから、ちょっと我慢してください」という理屈なら、まあ検討に値する。

●バーミヤンのことなら、googleで探せ


2001.3.20 -- 難病?寿命? --

●パソコンを長時間かけて本気で点検調整するも、動きはさほど改善しない。どこも問題ありませんとノートンは言う。人間ドックに入って「異常なし」と診断された帰りに、ちょっと早足で歩くと息切れと目まいがして、ものを食べれば腹が痛み脂汗が出る。でもまあおまえは健康だというんだから、我慢するしかないか。


2001.3.18 -- 書名・著者・感想に誤りがあれば、文句はそっちに --

●読んだ本のことをここによく書きます。紹介のつもりもあるのですが、そういう役目を果たしていないことも多いです。ということは、べつに読んだ本でなくとも、読みたい本を紹介しても同じことではないかと気づきました。以下がそのリストです。

松本大洋『ping pong』
林晋(編)『パラドックス!』
岡真理『記憶/物語』
ジャック・ブーヴレス『言うことと、なにも言わないこと』
吉岡忍『M/世界の憂鬱な先端』
丹生谷貴志『家事と城砦』
保坂和志『世界を肯定する哲学』
堀江敏幸『郊外へ』
とりみき『しりとり物語』
佐野洋子・加藤正弘 『脳が言葉を取り戻すとき』
養老孟司(編)『脳と生命と心』
矢部史郎・山の手緑『無産大衆神髄』
*以下は映画ですが、ついでに。
ジョン・カサヴェテス
ジョナス・メカス「リトアニアへの旅の追憶」

●「これ読みたい」という本に出会うのは、近頃はたいていインターネット上ですね。その場合、ともかくその頁を自分のパソコンディスクに保存します。ごぞんじの通り、ブラウザの機能を使えば一発です。保存するファイルの名称には、その本の題名をその頁からコピー&ペーストしておきます。うまい具合に、頁のタイトル(ブラウザの一番上に表示)が本の題名になっていれば、その操作も省けます。●そして、しばらくすると、そのことは忘れます。しかし、暇な時にパソコンをいじっていると、ふと本の題名のついたファイルが見つかります。「なんだろう」。開いみると「ああ、あの本だ」。いろんな人がいろんな本について要約と感想を丁寧に書いてくれているのです。ありがたい。「こんど買おう借りようぜひ読もう」。そしてファイルを閉じます。するとまたそのことは忘れます。そのうちまた暇な時があって(最近多い)パソコンをいじっていると、ふと本の題名のついたファイルが見つかります。「なんだろう」。●この方法の利点は、なにより自分が読みたいと感じた時の紹介文がそのままコピーできることです。しかも座ったままのマウス操作で全部できることです。カバンや引き出しからノートとペンを取り出して汚い字で書き留めたりしなくてもよいのです。題名すら自分で書かなくていいのです。その記録が再び目に付く可能性が高いこともポイントです。時には、頁に書かれた内容がどうであれ、その本の題名をメモするかわりのためだけに、この操作をする場合もあるようになりました。●そのようにして自ずと出来上がっていたリストがこれでした。保存したファイルの「情報を見る」を開くと、元になった頁のURLもちゃんと記載されています(マックの場合)。ですから、上のリストにもリンクとして反映しておきました。長い頁のどこにあるかが分からなくても、本の題名で頁内を検索すれば表示してくれます。これで、読んだことがない本なのに紹介はバッチリ。しかも、はからずも私のお気に入り頁の紹介ともなるわけです。おまけに自分としても「そういえばこんな頁があった」「この頁よく参考にしてるなあ」なんてことまで発見できたりしました。もちろん読んだあとには、その頁を何度も反芻する楽しみが待っています。●将来は、その本を読んだ自分の感想もどこかの頁のリンクで代用できる時代が来て、もう本のことならマウスだけでOK。キイボードなんか打ってられねえ!


2001.3.14 -- わかった!とはいえない --

●青山真治の映画「EUREKA」を見てきた。3時間半という長丁場だったが、画面の動き、および感情の動き、どちらも静謐で緩慢で、全編気持ちよくフォローできた。中古のバスで当てがあるようなないような旅というのも、ヴェンダースの映画を思わせて、なじみやすかった。ただし、主人公の運転手(役所)はバスジャックに遭ったせいで仕事と妻をほったらかして2年間も家出してしまうのだが、彼が心に負った傷にはさぞ深い闇があって、映画が進むにつれてそれが解き明かされるのだろうと思ったら、どうもそういうことではなく、運転手はなにかを踏み外しそうで結局なにも踏み外さなかった。根本のところで私は見どころを読み違ったかもしれない。ちなみに冒頭しか出てこないバスジャック犯の利重剛がまた奇妙な人物で、彼はなんであんな風なバスジャックをしたのか、そっちの方が今も気になる。


2001.3.12 -- ネットジャーナリズム --

鈴木あみの引退騒ぎが話題とか。でもその陰には、ある悪名高き芸能プロダクションの内部抗争があるようだ。現役の芸能記者とおぼしき人物が、ウェブ日記にそう書いている2ちゃんねるもこの裏話にガセネタ満載で盛り上っている。●それらの情報によれば、このプロダクションは、やくざ絡みの大手で、袂を分かった鈴木あみの息の根を止めるだけの力がある。つまり、テレビ局をはじめCD製作やコンサート興行等の関係者に「鈴木あみを使うな」と圧力をかけるということだろう。「さもなくば、うちの配下にある他の人気タレントを回してやらないぞ」という手法だ。こうした構造によって、今やテレビ番組の配役や楽曲の宣伝などは、しばしばこのプロダクションに取り仕切られる形になっている。一部のスポーツ新聞ですら、ここの意向を気にして自由にものが言えないらしい。

●我々は家のテレビを消さない限り、画面に出てくる芸能人の容姿や性格や言葉に日夜どぶ浸かりになる。「美人」とか「かっこいい」といった美醜のセンスはもとより、行動のスタイルから善悪のジャッジにいたるまで、計り知れない影響を受けている。「俺は鈴木あみのファンだから見捨てない」という信念は、彼女をテレビで見かけなくなり、CDの情報も届かなくなれば、思いがけず裏切られてしまうだろう。好感度ランキングというのも、視聴者の価値観が決めているようで、実はテレビの露出度が決めているのではないか。●そうだとすれば、そういう我々の価値観を形成する公器であるところのテレビや新聞が、特定の狭い権力に牛耳られるというのは、まああまりいいことではないですね。●テレビ局やスポーツ新聞がすでに毒されているとすれば、こういうネタは特にインターネットが報道を肩代わりするのだろうか。

●そういえば、雑誌サイゾーが、去年このプロダクションの悪徳を執拗に暴いていたのを思い出した。私としてはサイゾーの株がまた上がった。


2001.3.10 -- 東京大空襲の夜にタイムスリップしてこの本を見せたら、人々は誰が正しいと言っただろうか。天皇は誰が正しいと言っただろうか。 --

●『天皇の戦争責任』(加藤典洋・橋爪大三郎・竹田青嗣)。少し前にネタ振りをしておきながら、実は今やっと読んでいる。分厚い本だが、ぐいぐい読み進む。おもしろい。まだ途中なのについ感想を書きたくなる。でテキトウにちょっと書き出したら、長くなってしまった。長くなると、本の論者に必要以上に引っ張られ、さらに、そうやって引っ張られて書いた自分の文章にまたいっそう引っ張られる。それでもどうにかもっともらしくまとめてしまおうとする力が働く。それらが奇妙であり恐ろしくもある。が、この際、まずは掲載


2001.3.7 -- ビンボウニンはホンをヨめ --

●遮るものがまるでない茫漠とした時間が、今週あたりから広がっている。そういう日は散歩をするか本を読むかだ。しかし読書というのは娯楽としては簡便、安直すぎる。本は図書館に行けば無尽蔵にある。ポケットに入れてどこへでも持ち運べる。電車の中だろうが昼飯の時だろうが開始・中断・再開が自在。それだけに、たとえ5分の隙間でも本は決して見逃さず、活字をフレキシブルに埋めていく。やがては、夜食にちょっと外出するだけなのに、一冊なにか見つくろわねば落ち着かないという症状が現れる。カウンターでうどんが来るのを待つ空白すら、開く書物なしにぼんやり過ごすことなどできなくなってしまうのだ。ただ問題は、うどんはすぐ食べてしまうが、本一冊はいくらなんでもそう短時間には読み終えることができないという点だ。近ごろ最も速く読めるのは新書だろうか。特にちくま新書って本当にすぐ終わるような気がしないか。でも、そのちくま新書ですら、うどん屋から家に戻った後もいくらか時間をかけないことには、一段落して閉じることができない。ましてや『獄門島』(横溝正史)とかを読み始めたら、それはもう翌朝まで、いや翌昼か翌夕、いやまた同じ店にうどんを食べにいく翌夜まで辞められなくなってしまう。ちょっとうどんが来るまでのつもりが、あまりに大きな犠牲を払うこととなるのだ。ま、いいけど、暇だから。

●友人が『金持ち父さん貧乏父さん』という本にいたく感動したらしい。私も本屋でちらっと見てみたが、おもしろそうだ。●その関連で、だめ連の人たちが先日またテレビに出ていたのを思い出した。金持ち父さんはお金とともに幸せを模索し、だめ連はお金ぬきでの幸せを模索しているので、一見正反対なわけだが、ところがどっこい、幸せとは何かということをクールに分析しクリアに把握している点は同じだ。つまり金持ち父さんも、だめ連も、「ほぼ日刊イトイ新聞」ふうにいえば「お金をちゃんと考えることから逃げまわって」いないのだ。だから、私としてはどちらも非常に参考になる。ただ、イトイさんなんかは、絶対もうだめ連のようなメンテナンスコストのかからない生活には戻れないに決まっているということを、まず認めてからいろいろ説教してほしいと思うので、イトイさんは、だめ連と金持ち父さんのクールな仲間には入れてあげない。●その金持ち父さんがこんなことを言う。ローンを組んで手に入れた自分の土地や住宅は、お金を生み出してくれる「資産」ではなく、お金を減らしていく「負債」にすぎないのだ、と。

●では、本は資産か負債か。私が時間とエネルギーを費やして得た読書(お金はあまり費やさない。おまえが「本」を殺すのか!)は、いずれ知性や教養やお金を生んでくれるのか。あるいは日々のうどん代やテレホー代のごとく、読むという支払いを永遠に繰り返していかねばならないだけなのか。『獄門島』はどっちだろう。『死霊』(埴谷雄高)だったらまた違うのか。そもそも資産となる小説と負債となる小説を分かつことはできるのだろうか。●今やもう「この後は」「その次も」と読まずにはいられなくなった「官能小説家」は、文学という資産であるのか、文学という負債であるのか。

●私も本当はそろそろ「金持ち父さん」とか呼ばれてよい年齢なのだが、実際は、昼に鳴った電話に起きて出てみると、外と同じく明るい声のセールストークで「***でおなじみの***と申します」「はい...」「お母様はいらっしゃいますか」と「引きこもり兄さん」扱いされてしまう始末。


2001.3.6 -- アタラしいゲンゴをつくるカイ --

●アタラしいニッポンをソウゾウするために、コンゴはキョウカショのカンジをすべてカタカナでヒョウキするというテはどうだろう。
●ニホンセイフはこのセンソウをダイトウアセンソウとメイメイした。ニホンのセンソウモクテキは、ジソンジエイとアジアをオウベイのシハイからカイホウし、「ダイトウアキョウエイケン」をケンセツすることであるとセンゲンした。
●コクミンセイカツをイトナむということは、ミッつのギム(キョウイク・キンロウ・ノウゼイ)をハたしてさえいればよいというわけではない。...ジュウヨウなのは、コッカにタイするチュウセイのギムとコクボウのギム
●そもそもコクセイは、コクミンのゲンシュクなるシンタクによるものであって、そのケンイはコクミンにユライし、そのケンリョクはコクミンのダイヒョウシャがこれをコウシし、そのフクリはコクミンがこれをキョウジュする。これはジンルイフヘンのゲンリであり、このケンポウは、かかるゲンリにモトづくものである。われらは、これにハンするイッサイのケンポウ、ホウレイオヨびショウチョクをハイジョする。
●ワープロはガクシュウキノウがあるので、しばらくムリヤリにでもカタカナヒョウキをツヅければ、すぐテキオウし、そのうちカンジはショウメツしていくハズだ。
●ゴルフ・モリ


2001.3.5 -- きょうは啓蟄でした。 --

●WEB日記とて新聞コラム並みにネタのやりくり。


2001.3.4 -- どう手に入れたかを書いておきたくなる本 --

●離れた街の図書館から留守電が入っていた。リクエストした本の用意ができたという。仕事帰りに出かけて行って受け取り、電車の駅までの道すがら、その薄手の書物を待ちきれず開いてみた。それが『らくだこぶ書房|21世紀古書目録』(クラフト・エヴィング商會)。20世紀の終わりに21世紀から届けられる21世紀の古書を一冊ずつ写真付きで紹介していくという不思議な仕掛け。空想文化図書。●書物というものへの深い愛情。未来と過去の不可解な絆と、懐かしむという行為の複雑さ。さらに結末には、あっと驚きぐっと考え込まずにはいられない異変が待っている。

●さて話はすっかり変わって、ということにしておいて、高橋源一郎が朝日新聞夕刊で連載している「官能小説家」は、きのう、この小説を形作る骨格というべきものがついに明らかになった。●明治時代に森鴎外が朝日新聞にある小説を書き始める。タイトルは「官能小説家」。内容は未来の20世紀末から21世紀にかけて小説家である「おれ」が未来の朝日新聞に「官能小説家」という小説を連載するというもの。しかもその小説の中で「おれ」が書いている「官能小説家」には当の森鴎外がタイムスリップして登場してくる。...もちろん、私たちが朝日新聞で今読んでいるのは、それら全部が書き込まれた小説「官能小説家」なのである。●う〜む、長い長い蛇がとうとう自分の尻尾に食らいついたか。連載開始から半年。期待と不安を抱えつつともかくフォローしてきた読者たちは、きのうはそろって大きなため息をついたことだろう。ただし、2ちゃんねるの賢明なる文学掲示板においては、この展開は相当早い段階で予想されていた。高橋源一郎、ここからが本当の腕の見せどころか。●ついでというわけではないが、私がこれまでに書いた感想文(「高橋源一郎なぺえじ」の掲示板に投稿したもの)もまとめておきます


2001.3.3 -- 「雛」って書いたことないですね --

●いわゆる漢和辞典を買った。岩波新漢語辞典。1994年の刊行。それ以前には87年に編まれたものがあったようだが、この94年にかけてはワープロが普及し、漢和辞典はどう変わったのかというと、おもしろいことに、収録漢字の字数は94年になって87年より増えている。前書きによると「電子機器の利用は漢字の便利さを認識する結果をもたらし」「日常的に使用される漢字の範囲は大きな広がりを見せるようになった」という。これは、ワープロの変換を駆使するせいで、それまで知らなかった漢字まで使っている、と解釈すればいいのか。●しかし、机の上で漢和辞典を開くことによっても、難しくも気にいった漢字を一回使ってみるかと思ったりはするものだ。この辞書には各漢字のJISコードも記載してあり、わけもなくパソコンの文字パレットにコードを指定してみれば、ああちゃんとその字が出てきた。少しうれしい。ATOKであれ漢和辞典であれ、要は漢字に触れれば自ずと漢字に親しむの道理か。ただ、これまで小説でも新聞でもおよそ見かけたことがなく、もちろん手で書く体験など全くなかった漢字を、ぱっとワープロで打ち込んで出してしまうというのは、なかなか妙な話かもしれない。●阿部和重の小説に「鏖」というのがあるが、このタイトルどうやって思いついたのだろう。なお、読みを知らないかた、「鏖」という字は「鹿」に「金」を重ねて書きます。漢和辞典または文字パレットで探してください。どちらが早く引けますか。ちなみにJISコードは「6F32」です。


2001.3.1 -- では「イカンのイ」ならピンとくるのですか? --

●「土下座」という風習がアメリカ人にはピンとこないらしい。きょうの朝日新聞。いまだ謝りに出てこないグリーンビルの艦長に向けて、えひめ丸の関係者が土下座せよという旨のコメントを発したことが、論じられていた。●私としては、えひめ丸事件に配慮してフジテレビが映画「ゴジラ」に続いて「タイタニック」の放映まで延期したと聞いて、なんだかそりゃ筋が通ってないんじゃないか!と首をひねっていたのだが、それはともかく。●土下座。なんか嫌なものが出てきたなあ。まるで切腹してハラワタが出てきたような。しかし、嫌な感じを覚えたのは、艦長が土下座したからといって不明者は帰ってこないし土下座をすることは被害を補償することでも原因を究明することでも規律を改善することでもないから、というのではない。むしろ、土下座が不合理である理屈を知っていながらも、土下座を迫らずにはいられない心境つまり「土下座の不可解なリクツ」を私が理解できてしまっているせいだ。●たとえば、賄賂大臣村上正邦の証人喚問だって、「訴追の恐れがあるので証言は控えさせていただきます」と胸を張るからムカつくのであって、あれがもし議場の絨毯に土下座して涙を流してそう言ったのなら、じゃもういいよと許してやってしまうスキが、私にはある。●だいたい、どういう理屈かなんて自分でも定かでないところの「どぞよろしくおねがいしますっ」とか「あどーもすいません」とかを、きょう私は何回使いましたか?

●そんな折り、きのうは北野武監督の映画「BROTHER」を見た。ハラキリ、指ツメのリクツを今なお残すニッポンのやくざが、アメリカのギャングをやっつけ、マフィアまでビビらせる。アメリカの軍隊に沖縄がコケにされ、えひめ丸が沈められるという事件が続いている昨今、実に胸のすく話ではないか。●(やくざの)兄弟の安全のためなら身を捨てて渡米までしてしまうリクツ。兄貴の出世のためなら自分の頭を拳銃でぶち抜いてしまうリクツ。わずかの負い目のお返しか、つかの間のなじみの印か、全財産をくれてやって生き延びさせてやるリクツ。ニッポンジンワ不可解デ〜ス、か?

●漁師がよって立つリクツ。任侠がよって立つリクツ。そのリクツが、東京のネットサーファーである私にも理解できる。ちょっと戦争でもけしかけたいリクツすらわかる。ただし、本当に戦争すべきなにかがあるとしたら、それはニッポン住人×アメリカ住人の団体戦ではないだろう。「BROTHER」を見てそう思った...のかどうか、ちょっと不明ではあります。

●戦争と犠牲。「アルマゲドン」「インディペンデンス・デイ」の理屈より、コソボ空爆の理屈より、小林よしのり『戦争論』の理屈より、きょう私は「BROTHER」のリクツを好む。しかしそれって雑誌「SAPIO」の理屈?


2001.2.28 -- 死のbps --

●シャノンが死んだ。シャノンといえば「情報理論」。bitという単位の考案者。文字だろうが音だろうが絵だろうが、どれも0と1の連なりに換算することで、その情報量を測る。今やあまりに普及したこの生活思想は、この人に始まるという。だからシャノンの情報理論は、時に、情報から意味をはぎ取った犯罪だとも評された。●さて、彼の死去と業績を報じたこのニュース、その価値はともかく、その量は25,984bit。どうやらアルツハイマーと闘ったようだ。晩年のシャノン、脳から刻々と失われていく情報は、何ビット/秒だったのか。


2001.2.27 -- ミシェル・ブランは関係ない --

●寒い晩は肉まんだ。中国では、あっちの筋よりこっちの角の店のがうまい、といった学習をするが、東京ではコンビニごとに味を点検。ミニストップのエビまんが優秀だ。●一方、先日久しぶりに歩いた上野アメ横では、バンコクや香港の思い出がよみがえった。アジアのマーケットと認定できるだけのごちゃごちゃ感は、他の街ではなかなか。ガード下の狭苦しい居酒屋に座りモツ煮込みなどを食べる。壁にかかったメニュー板に「電氣ブラン」とあったのが、どうも気になる。が、ネットですぐ正体がわかったり、注文したりできる時代に生きています。


2001.2.26 -- 偏食 --

昨年初めて読んだ本ベスト20。2月も終わりに今さらであり、新刊書(*印)が極めて少ない無価値な年間記録ではありますが。順不同。●『他者の心は存在するか』(金沢創)* -- 年の始めに読んで以来、今なおあれこれ考えているすべての源泉になった一冊。●『心と他者』(野矢茂樹) -- 著者の主著である。と勝手に決めた。●『人間がサルやコンピューターと違うホントの理由』(ジェームス・トレフィル) -- 深みがないとの評もあるが、このくらいのアイテム一覧、思考の整理が私には重宝した。●『思考する機械コンピュータ』(ダニエル・ヒリス)* -- コンピュータの原理が「かつ」「または」「○○ならば△△」といった論理の原理の機械化なのか!と気づいた。意識の誕生に関する理屈およびイメージの両方がほどよく味わえた。●『心はどこにあるのか』(ダニエル・デネット) -- デネットは『解明される意識』というのも半分ほど読んだ。丁寧に丁寧に語るので読んでる最中は得るところ多いが、あとで感想をまとめろと言われると難しい。●『コウモリであるとはどのようなことか』(トマス・ネーゲル) -- 有名な本。なにより語り口の明晰さ端正さに惹かれた。主観の伝えがたさというより、むしろ客観の無益さというようなことを考えてしまった本。ここまでは『他者の心は...』の関連で読んできた。●『構造主義科学論の冒険』(池田清彦) -- 新世紀の知識人として持ち上げたい一人。この筆の軽さ、腰の軽さが、なぜ多くの学者に欠けているのか。●『言語哲学大全1論理と言語』(飯田隆) -- 私の哲学っぽい関心のキモは、やっぱりここなのだと知ることになる。この続きの巻も今年にかけて読んでいる。●『公爵夫人邸の午後のパーティー/ヴェロニカ・ハートの幻影』(阿部和重) -- 90年代を代表することになっている阿部和重に、私もやっと追いついたかという気持ち。他の本も再読した。ここからは日本の小説。●『吉野太夫』(後藤明生) -- 内向の世代ということになっている後藤明生を、私もやっと追いかけたかという気持ち。へんな小説しか小説と認めないような性分が身に付く。●『濁った激流にかかる橋』(伊井直行)* -- 登場人物一覧を作り舞台の町に住んでいるようなつもりになってじっくり読んだ。この作家に本格的に出会った年。さして重要でないことが重要であるような人生であってもよい。●『村の名前』(辻原登) -- あまり語られない昔の芥川賞作品だが、個人的なまとめなので、入れておく。中国ではこんなことが起こりかねない。旅行小説という分野が発見、開拓されるのはもうすぐか。●『火車』(宮部みゆき) -- 今さらながら宮部みゆきの長編をいくつか、日が暮れても日があけても読んだ。どうかこれからも松本清張並にたくさん書いてください。●『ウロボロスの偽書』(竹本健一) -- たくさんの理屈や参照項で語るべきカルト本といっていいのだろうが、結局のところ、このうえなくわくわくする読書だった。ゲーデルの不完全性定理。●『薔薇の名前』(ウンベルト・エーコ) -- 海外文学の大御所?。図書館を探索していくような読書体験だった。●『新教養派宣言』(山形浩生)* -- 2000年は山形浩生を知った年と言ってもよい。ほかに本は出ていないのかな。●『もてない男』(小谷野敦)* -- きどりのないところで、いろいろ教えてくれる、ありがたい先生だ。●『旅の王様』(四方田犬彦) -- 長年気になる人だったが、この本には、すっぽりはまった。私が旅行していた時の気持ちや、今なお旅行に出たいと思う気持ちは、どうやったら伝えられるんだろうと思うが、その気持ちに限りなく近いものがこの本にはあった。●『日本近代文学の起源』(柄谷行人) --この人の本はどれも凄いが、まあ、この年はこれを凄いと思ったということで。●『言語表現法講義』(加藤典洋) -- 私もあなたも文章を書く読むということをずっとやってるわけだが、その文章を書くということを、慈しみを込めてそっと後押しするような本。加藤典洋は結局最後にはなにかを肯定してくれる人なのだ。


2001.2.23 -- 時事ネタの気になり方 --

●なにかと気になるTBSニュース23の幸福論。きっとウィトゲンシュタインも同じような気になり方をしたのではないかと思われるような気になり方。


2001.2.20 -- 確率 --

●ロシアの宇宙ステーション「ミール」が日本に落ちる確率は1000分の1。ワールドカップのチケットが当たるより低い?。だから、私の頭上に落ちる確率となると、もっともっと低いわけだ。郵便申し込みしてないのに当たるくらい?。●癌になる確率。交通事故にあう確率。あした遅刻する確率(もう3時すぎ)。


2001.2.18 -- 接近遭遇に、とてもふさわしい場所 --

●だいぶ前、便利屋やってますという親父が一人テレビに出てきた。蛭子(収能)さんを思わせる人のよさ。にこやかな天然の語りに、つい気を許したくなる人柄を感じ、そのくせ昔はやくざだったという経歴にいっそう惹きつけられ、おまけにその所在地が私の最寄り駅とわかって、興味は倍増、いつか転職先に門をたたかせていただこうかとまで考えた。で、しかしそのことはすっかり忘れていたところの本日、なんとその便利屋親父にばったり。最寄り駅の商店街、バイトらしき若者2名に昼飯でもおごったのだろうか、爪楊枝をくわえつつ胸を張って出てきたその店は、 私もしばしば出入りする回転寿司屋ではないか!


2001.2.17 -- 世界分類法 --

●読者は小説中の虚構の出来事も現実と誤解してしまう危険性が高い。(東京高裁判決)●小説はあくまで「虚構」で、登場人物は現実の人間とは異なるというのが、純文学の常識。実在人物にないことが小説に描かれた場合、事実かどうか判断するのは不可能で、読者は深くせんさくせずに読み進むのが普通(柳美里側)。●以上、「柳美里さん控訴審判決」(毎日新聞2月15日)より。●言論には「現実」と「虚構」の二つがあるとの認識は、不思議なことに双方一致している。●「虚構」なら何を書いてもかまわない?「虚構」なら何を書いてもしかたない?●それよりも、この世では「書かれたこと」が「存在すること」であり、「まだ書かれていないこと」は「まだ存在しないこと」である、という分け方はどうか。

●これで思い出した。以前、池田清彦『構造主義科学論の冒険』(講談社学術文庫)というのを読んで、私のすべてつまり世界のすべては、たとえば「観念」と「現象」の二つに分類してもいいのではないか、と思ったこと。ここでいう観念とは、頭のなかでいろいろと感じていることのすべて、つまり言葉(?) 。現象とは、頭のそとでいろいろと起こっていることのすべて、つまり体験(?)。●こういう分類とともに、池田清彦は「外部世界に普遍の実在物がある、という言明は、正しさが保証できないなんてものではなく、私の考えでは、ただ間違っているだけです」などと述べる。彼は、科学は外部世界の実在を仮定しなくても可能である、という立場を取ってみるのだ。つまり、この世に実在しているのは私の頭だけであって、その外に地球とかパソコンとか柳美里という人物とか柳美里小説のモデルになった人物とかは実在しない、そう仮定しても科学は成り立つんですよ、てなぐあい。●話が飛んだせいで、現実と虚構の話がよけい複雑になった。もうしわけない。

●ところで、高橋源一郎「官能小説家」の場合は?。あの新聞小説に書かれている情事は、現実なのか虚構なのか。そんなこと、どちらであってもかまわないほどの良い小説なのか。あるいは、どちらであってもしかたないほどの悪い小説なのか。


2001.2.16 -- 森辞任、不可避レハレホレ --

最近知って、う〜むと唸ることの多いこの日記(リンク)。鋭いことを書くというのは実に難しい。たくさん書くということも実は難しい。


2001.2.15 -- ひきこもり、おせっかい --

ニュース23、きょうは「ひきこもり」のルポ。その中で、「ひきこもり」者がいる家に、その親の求めに応じて出向き、外に出ようよ話そうよと働きかける、あるグループが紹介されていた。こういう番組やこういう活動に対しては、つい冷笑的になる傾向が私にはあるが、善意を冷笑する立場は世間としては少数派でもインターネット日記としては多数派だと思われるので、今日はあえてそういう立場は取らないでおく。だからこれは単なる自分の好みで言う。「ひきこもり」者を外に出そうと派遣される、「レンタルお兄さん」「レンタルお姉さん」と呼ばれる若者男女二人の言動がずっと映ったが、私としては、こんな人がうちに押し掛けてきたら、逆にもっとひきこもりたくなるぜ!と思わないでもなかった。●「ひきこもり」を解消するために「おせっかい」や「でしゃばり」が必要だとしても、そもそも「ひきこもり」を生みだす元になったのが「おせっかい」や「でしゃばり」だったかもしれないということを忘れないでおこう。それと、「ひきこもり」こそが「幸福」であるという実感も捨てないでおこう。さらに「ひきこもり」の人は、「おせっかい」という精神病に対して、少しだけ寛大になろう。え、もうなってますか。●ああやっぱり皮肉っぽくなった。でも、ニュース23、私は好きだ。外になんか出ないでニュースばっかり見ていたい。


2001.2.14 -- 今日もらった義理チョコも「バーチャルだ気をつけろ」と、いちいち叫ぶのかい。 --

ニュース23、きょうはキャスター席の真ん中に大きなモニターが据えられて、筑紫哲也はその中からオープニングのあいさつをした。これは「インターネット恋愛」がテーマだったことにちなんだものらしい。とてもおもしろい。私は素直にそう思った。ただし...●筑紫哲也は一貫して「ネットにおける人間関係はバーチャルである」と警鐘を鳴らす。しかしそのことは我々は最初から十分わかっている。むしろ、この奇抜なオープニングがようやく露わにしてしまったのは、「テレビのバーチャル性」ではないのか。「インターネットは現実か」という疑問に比べれば、「テレビは現実か」という疑問など、もとより存在しないに等しい。それどころか、我々には「テレビは現実だ」との自覚すら生じていない。ただひたすら、日々の現実というものがあるとしたらそれはテレビしかない、そんな生活。


2001.2.12 -- 軽く丈夫な本がよい --

●すっかり顔色が良くなったかと思うと、ふいにばったり倒れたり。まだそんな状態のパソコン。わが家の大黒柱なんだから、しっかりしておくれ。

●寒い夜は風呂にゆっくりつかります。しかし、そのあいだ暇といえば暇だから、ときどき私は本を持ち込みます。幸福な時間。けっこう集中できるので、あれ体はもう洗ったんだっけ?なんてことが、あるとおもしろいですが、まだありません。●そういえば、寝る前も必ずうつぶせになって本を開きますね。枕元に3冊も積んでみたり。1ページも進まず眠ってしまう日は多いのですが、本なしで布団に入るなんてことはとてもできません。次の朝、障子を少しあけて、そのままの姿勢で続きを読む休日がまた幸せだ。自分がどの行で眠りに落ちたかは意外にきっちり判別できるものだという事実に、私は小学生のころ気がつきました。その時読んでいたのは、怪盗ルパンの物語でした。


2001.2.11 -- 建国の座標軸はいずこ --

●日が照って暖かくなった昼すぎ。代々木公園の周辺はガラクタ市で賑わっていた。「チェキラー!オネーサン、カナリ、ヤスイヨ」と日本若者アクセントであるところの私にはまるで外国語のような言葉で声をかけるまるで外国人のような肌の人。傍らではまるで日本人のような家なき人が麻雀卓を囲む。街頭ミュージシャンも陽気に誘われて登場。エレキ系は、目の前で見るのだからそこまで鳴らすなっていう大音量。そこへいくとアコースティック系は控えめでほほえましい。あと、太鼓のトリオとか曲芸パフォーマンスとか、変わり種にはつい立ち止まる。コスプレ風の人混みもあった。●春の感じというか漢字というか、そういうものを今年初めて実感した。

● 『天皇の戦争責任』(加藤典洋・橋爪大三郎・竹田青嗣)を、東浩紀が高く評価していた。きょうの読売書評欄。加藤対橋爪の対立は左翼対右翼の対立でも革新対保守の対立でもなく、現実主義者と本質主義者の対立だ、と述べる。なるほどそういう座標軸であれば読んでみたい。●天皇の戦争責任を左翼対右翼という座標軸で読むことに「飽きた」という感想を抱くのは私だけではないだろう。だからといって、その座標軸は決着がついたとか、その座標軸はもう古いんだ、ということでもないような思いを抱えつつ。

●昨年11月に聴いた保坂和志講演会の記録が、公式サイトにアップされている。著名人の講演というと、参加記念につい質問してしまう私だが、この日も手を挙げた。そのやりとりも採録してあった。質問者2。自分の口調のまわりくどさに呆れる。保坂氏の最近の思考は、『世界を肯定する哲学』(ちくま新書)という本にまとまるようで、楽しみだ。「予約殺到品切れ必死希望式新発売」とのこと。


2001.2.10 -- 休日CDの聴きかた --

●シャッフル&リピート、永遠に。ビートルズのチャートナンバー1曲集。ビリーホリデイのベスト盤。●革命は、未来の夢想ではない。過去の神話でもない。革命は、実は、最近ゆっくり一度だけ起こった。だからもう起こらない。もうどうしようもない。あとはシャッフル&リピート、永遠に。


2001.2.8 -- 世界は文字で出来ている --

●今仕事でなにかとメモすることが多い。ともかく迷わずノートに書き込む。後に、ボールペンが走った汚い文字の跡をたどれば、そうとう細かいニュアンスまで忠実に立ち上がってくるので、なかなか新鮮だ。しかしその一方、ぱっと耳で聞いただけでは、その情報を記憶することも理解することも、いつしかかなり苦手になっている自分に気付く。●それと、朝は通勤電車に乗ったりするが、隣どうし黙っているかわりに、目は折り畳んだ新聞や車内の吊り広告を追っている。耳が追っているものがあるとすれば、それはせいぜい駅名アナウンスか車輪の軋み。●たとえば江戸時代の農民ならば、言葉に接するのは、身近な人と喋りあう音声が大半だったろう。それに比べて私は、誰かの文字を何かの文字を、意識してあるいは意識せず一人で読むことが、圧倒的に増えている。とりわけインターネットを始めて以降、言葉との関わりは「聞く話す」から「読む書く」へと、ますます大きくシフトした。貴方のメールも私の日誌も全部書き言葉だ。口に出すことはまずない。●その結果どういう恐ろしいことが進行するかというと、眼が疲れますね。


2001.2.4 -- 人生ジプシー --

●迷宮旅行社内に「(元)原発ジプシーからの手紙」という連載があるのですが、久しぶりに近況が届きました。新たに別のネタが展開される予感もあります。

●こうした他の方が書くページを増やしたいと、実はずっと思っています。そのうち。今世紀中には。


2001.2.2 -- 早くも2月、今世紀初 --

●コミュニケーターからエクスプローラーに変えてから、どうも読み込みが遅くなった。通信高速化の時代にどうしたことだ。まるで物価が下がったと言われたような意外性。

●ところで、きょう私は本を買いました。珍しくて日誌に書いてしまう。というか今世紀はまだ一冊も買っていなかったことが判明。それどころか本屋には行ったっけ?

●もう古いニュースだが一言触れねば気が済まないので言うが、外務省の盗っ人官吏松尾克俊なんぞは、両足を二頭の馬に縛りつけて引き裂くというのを思いついた。こんなのは殺人より遙かに罪が重い。国が死刑制度を温存するならば、そのくらいしなければ不公平だ。賢明にも死刑制度が廃止された場合でも、市中引き回しくらいはぜひやるべし。


2001.1.29 -- 雪どけの青空 --

●きょうは12日ぶりの休み。たった一日がずいぶんゆったりできる。人生の休暇を月単位・年単位で取りましょう!なんならそのまま永久休暇を取りましょう!と私はしばしば呼びかけ自らそれに応じてきたが、その一方、あまりにのんびりやってる人は、逆に忙しくやってみるのも手だね!という結論に達した。

2001.1.27 -- 関東地方は雪のせいでブラウザが不通になっています --

●Netscape Communicaterの調子が悪く、きょうはついにブラウザをInternet Explorerに変えてみた。長年のご飯みそ汁の朝飯が、急にパンと牛乳になった感じ。bookmarkをにわかには移動できず、おなじみの各頁も訪ねにくい。でもこの方がインターネットがすぐ終わるから、ある意味、助かる。

2001.1.26 -- 119 --

●このところ多忙で、なかなかインターネットに接続できない。なにというのでもないなにかを読み書き続ける日常整理が停止すると、自分の中になにというのでもないなにかが溜まってくる。あるいはパソコンの内部に溜まってくる。実は今わけあってある医療機関によく出入りしているのだが、そこでは、横たわる人の多くが呼吸・循環・排泄などを自らの力では行えず、いくつもの機械を管で身体に接続して肩代わりさせている。放っておけば、なにというのでもない、ではない大変ななにかが体内に溜まってしまったりするのだ。●瀕死の私にも、読み書きの救急車をよこしてください。最近パソコンが病気がちなのも、たぶんそのせいだ。

2001.1.25 -- にっぽんの歌 --

井上陽水「東へ西へ」を、町田康が歌えば、ああなんと見事にパンク。自分は30年間この曲の解釈を間違えていた、と陽水も驚く。テレビにて。こういうことを小説で試みても面白いだろう。阿部和重「みなごろし」のストーリーを町田康が語れば、それはそのまま町田康の小説だ、とか。あるいは町田康が自らの小説をパンク風に語りなおし、とか。町田康が阿部和重の顔真似をするとか。町田康の本の表紙を常磐響が担当するとか。「インディヴィジュアル・ヘラヘラボッチャン」

2001.1.11 -- 欺瞞が茶を沸かす --

●今年はAIの年ということになったわけだが、だったら昨年は、やはりDNAの年だったと言っていいのだろう。ゲノム解読があっけなく完了し、パンドラの箱がついに開かれたと。●理系知識を生半可に使用して文系知識を不可解に混濁させる、これが「知の欺瞞」となじられたのも昨年だった。では今年はひとつ「欺瞞の知」という逆説に溺れよう。そのDNA編。●茶をにごし臍で沸かした理もあるさ二十世紀の黄昏れていく

2001.1.7 -- ロジカルハイ〜スカイハイ --

三浦俊彦論理学入門〜推論のセンスとテクニックのために」。論理学という分野に私はすでに魅せられており、今回は復習のつもりで淡々と読んでいくと、一転、「なぜ宇宙は今このくらいの年齢でなければならないのか」「地球外生命が見つかりそうにないのはなぜか」といった、人類の平凡性および希少性に絡んだ難問を、最小限の知識以外は、まったく論理のはなれ技のみで鮮やかに解いていくのを見せられ、あっと息をのむ。そして、「問われなければ答えなかったが、問われたからこそ答えが生じた」という野矢茂樹の哲学テーゼ(哲学航海日誌より)を支持し、永井均の<私>は論理的には自己消滅する問いだと断じるエピローグへと繋げる。単なる教科書ではなかった。●さていま前半から後半への転身について述べましたが、これが、なにかこう「2001年宇宙の旅」で猿人の放り上げた骨が宇宙船に変わるあのシーンを思わせたのであります。『舞踏会へ向かう三人の農夫』は3つのストーリーが絡む構成であり、その場合、2つのストーリーではものたりないし、4つのストーリーでは多すぎる、3というのがやはり黄金の数字なのかと思ったりしていたのですが、こうした2部構成つまり第一部からさあっと舞い上がって第二部という展開も美しいな、と思いました。

2001.1.5 -- ご祝儀相場にあらず --

●リチャード・パワーズ『舞踏会へ向かう三人の農夫』を読了。フルオーケストラのシンフォニーをしっかり聴きとおしたような、フルコースの料理をすっかり食べきったような、20世紀の文明総論を踏まえてなお正統的な現代小説。これくらいの感想をたまには抱いてみたい渇望はあるが、けっしてそのせいではなく、誰でも実質的にこう誉めたくなるだろう。私もそうだ。べつにまだ正月気分なのではない。●このパワーズの日本デビューを愛でる座談会が昨年の文学界(七月号)に載ったのを覚えていたので、きょうはそのまま図書館に直行し、目を通してきた。訳者の柴田元幸を含めた参加者4人のうち、やはりというべきかさすがというべきか、この大作をとりわけ鋭く解読しかつ深く味わっているのは高橋源一郎だった。●同座談会であるアメリカ文学研究者がこれを読むのに一週間かかったと言っていたが、私もちょうど7日目だったので、スピードだけは専門家に肩を並べたかと鼻高々にもなったが、よほど暇だったということでもある。●少しはナビゲーターとして機能するよう、ウェブで見つけた書評をリンクしておきましょう。その1その2その3その4。今年の日誌は、なんか親切だ。

2001.1.4 -- 誰しもいつかは時代から退席しなければならない --

なるほどたしかに、21世紀とは私たちがそろって死ぬ世紀であることは間違いない。22世紀まで生き延びる人はまだほとんど生まれていないのだから。しかも、関川夏央によれば20世紀とは1901年ではなく1914年の第一次大戦に始まるそうだ。『舞踏会へ向かう三人の農夫』もこの立場を取っている。とすると、21世紀も歴史的にはまだ始まっていないとすら言えるのか。だったら、私たちがそろって生まれてそろって育った20世紀のことを、これから優雅に終わらせてゆっくり回想するのもいいですね。そのうち何かのきっかけで21世紀がふっと始まって真に新しい人類が登場しても、気がつかないフリをして死ぬまで20世紀を反芻し続けるのもいいですね。村上春樹がたしか、70年代は60年代の後始末の10年だった、とかなんとか述べていたのを思いだしたりしつつ。

●でも不思議だ。20世紀には私の席がどこかにあったなどと感じたためしがないくせに、今ごろになって、そのありもしなかった席が妙に懐かしく思い出されるとは。


2001.1.3 -- 読正月 --

●過去の自分のすべての決断や経験をふり返ってみるとき、私はそれらをつねに、何らかの伝記的全体にまとめ上げようとしている。自分自身に向かって、ひとつの主題、ひとつの連続性を捏造してみせようとしている。そうやって私が捏造する連続性が、今度は私の新しい決断に影響を与え、それに基づいて為された新しい行為一つひとつがかつての連続性を構成し直す。自分を創造することと、自分を説明することとは、並行して、分かちがたく進んでいく。個人の気質とは、自分自身に注釈を加える営みそのものだ。●上の文章、もしや私が自らの日誌をかえりみて書いたのでは?と錯覚したくなるが、これ実は『舞踏会へ向かう三人の農夫』の一節(リチャード・パワーズ著、柴田元幸訳)。引用して噛みしめたい箇所が連日続出しているが、とりあえず本日の発火点の一つ。なんらかハッとする方なら、この小説お勧めです。とはいえ、この箇所が雑煮でいえば餅にあたるのか鰹節にあたるのか、はたまた箸置きにすぎないか、関東は味噌より醤油なのか、定かではないため、単にここでハッとしないからといって、捨て置くには惜しい。まだ半分しか進んでいないうちから、いろいろ言ってしまう本。

2001.1.2 -- 科学書と文学書 --

●「朝日新聞の読書欄は、文系とりわけ文芸に偏っており、自然科学系なかでも数理系が極めて少ない」という公開意見が、二つのメイリングリスト(心脳問題ML科学ML)で出されていた。これに呼応して、ウェブ上の好企画「独断と偏見で選ぶベストサイエンスブック」で挙げられているような本は、朝日新聞の企画「あなたの書評を募集します」では一冊も取り上げられていない、との指摘もされていた。●科学書というと私は読んだものが少ないから、この問題に正当な意見は持てないと思いつつ、しかし待てよ、実は文学書だって同様にほとんど読んでいない、近ごろこの日誌に「あれ読んだ、これ読んだ」と嬉しそうに書いているが、実状としては寒々しいかぎりなわけで、あ、だからそういう意味では、科学書も文学書もともあれ公平には語れるなあ、などと気を取り直したりする。●そういう数少ない経験からいくと、私が面白いと感じた科学書は、一冊ごとの知識が体系的に積み重なっていく実感があるのに対し、私が面白いと感じた文学書の場合は、そうした積み重ねとしてはさっぱり寄与しない。だから、公開意見よりもっと踏み込んで「科学書の多くが有益であるとすれば、その基準に照らして、文学書の多くは無益だ」と結論を下した人がいたって、その意味は私にもわかる。●最近「日本の若者は理系の知識が足りない」とよく危惧される。「奉仕だ道徳だと唱えてる場合じゃないぞ!森マウスクリック総理」というところか。その流れで「このままでは技術大国として経済大国として日本は欧米亜に遅れを取ってしまう」とグローバルっぽいようなナショナルっぽいような論客も登場中にちがいない。ただし、そうした論客が考える「科学の有益さ」なんて、きっとずいぶん低レベルだ。逆に、上記MLでは、それとはまったく違った「科学の有益さ」の基準を探しているのだと、私は期待している。●さてさて文学書はどうだろう。すでに述べたように、文学書は一見、無益に思える。苦労して読み終えた末に胸に手を当ててよく考えると、やはり無益に思える。う〜ん、これはいかん。しかし「文学書の有益さ」には、またまた全然違った基準が求められる、ということは言えるだろう。もちろん上記MLは文学書の有益さを明らかにするのが主眼ではない。だからといって、朝日新聞の企画がその基準を示してくれそうかというと、それもおぼつかないのが悲しい。●しかしながら、たとえば『舞踏会へ向かう三人の農夫』なんかを読めば読むほど、私にとっては途方もなく有益だとの思い(込み?)は深まるばかりであり、しかし同時に、その有益さの正体を他人に示すのは難しく、自分に示すのも難しい。●心脳問題ML、科学ML、「独断と偏見で選ぶベストサイエンスブック」などに匹敵する、文学系総合サイトが、どこかにないだろうか。

2001.1.1 -- 長いものに巻かれたふり --

舞踏会へ向かう三人の農夫』を年末から読んでいる。世紀の変わり目にナイスな選択!と文学通なら言いそうな小説。興奮。

そうか、AI(artificial intelligence=人工知能)が流行るか、今年は。テレビで知ったスピルバーグの新作。


これ以前